神の力を知るならば               マルコによる福音書第12章18〜27節
              

 「来たるべき日」「イエス・キリストの日」を待つ姿勢、生き方とは、どのようなものでしょうか。何かの物事を理解するための、一つの良い方法 は、その反対を考えてみることです。「来たるべき、イエス・キリストの日を待ち望む」、この姿勢・生き方とは、正反対の生き方を考えてみれば、逆に良く分 かって来るのです。その「正反対の生き方」を、まさに体現して生きていたのが、イエス様の時代のこの「サドカイ人」と呼ばれる人たちでした。

 さて、この「サドカイ人」、ここではただ一言「復活ということはないと主張していた」と紹介されていますが、いったいどういう人たちなのでしょう。聖書 の解説書にはいろいろと書いてあります。例えば「彼らは多く祭司の系統に属し、ローマからユダヤの支配の一部を任されていた最高法院(後にここでイエス様 に死刑を宣告するわけですが)の主要メンバーであった」とか、「彼らは旧約聖書の中でも最も伝統的・正統的なモーセ五書と呼ばれるものを専ら重んじて、そ こには『復活』ということが出てこないので、『復活』はないと言っていた」とかです。その中で、私はある方の説教の彼らについての言葉が「身につまされ て」きました。「実にさびしい思想であります。この世界を死がおおっている。――サドカイ派の現実主義は、死の現実をそのまま肯定するのです。彼らの現実 肯定は、一面では力あるものとの妥協であり、一面では自分たちの生活だけが豊かであることについての良心的苦痛の忘却でありました。――同じように、現実 に身を任せて、その場その場に適応して生きる生き方を、わたしたちは自分の周囲によく見ます。」彼らは現実主義者であり、保守派です。今この世の中にはい ろいろな枠があり、決まりがあり、秩序がある。それでもって成り立っているこの状態を変えたくはないし、変えてはいけないのだという考えです。その「枠」 の中で一番重たく強いものは「死」です。この「死」こそ絶対だ、死んでからよみがえる「復活」などというものはないのだ。彼らの保守主義は、この「復活否 定」と結びついていたのです。
 そういう彼らの考え方・生き方は、彼らがイエス様に対して投げかけた質問にとてもよく現れていると思います。旧約聖書の中でモーセが命じたとされる律法 にこうある。「夫婦の内、夫が先に死んで、その子どもがいなかったならば、その死んだ夫の兄弟が、残された妻と結婚して、子孫を残すようにしなければなら ない。」7人の兄弟がいて、その長男が一人の女と結婚し、子どもを残さずに死んだ。それで決まりに従って、次男がその女と結婚したが、やはり子どもを残さ ずに死んだ。そのあと、三男、四男と同じように次々に死に、とうとう最後の七男もその女と結婚したが、やはり子を残さずに死んだ。ここで問題、もし他の人 が言うように復活があったとしたならば、よみがえった時この女はだれの妻となるのか、困ってしまうではないか、そうして秩序が崩れてしまうではないか、だ から復活などはないのだと、彼らは常々議論していたというのです。
 皆さんは、この話を聞いて、どんな感想をお持ちになりますか。一つの偏った見方かもしれませんが、これは立場によってはずいぶんと理不尽な制度ではない でしょうか。彼らの考えでは「死が絶対」なのです。だから、なんとかして子孫を残し、しかもなるべく良い子孫を残して、家を維持し、社会の繁栄を守らなけ ればならないのだ。それでこのような制度を作り動かしていたのです。ここに彼らの考えの中心が見えてきます。それは「人間はそのための道具」というもので す。ここに出て来る女性は単なる「子を産む道具」、そして実は男の方も「産ませる道具」。私はつい考えてしまうのですが、こういう社会で子どもが産めな かったら、その女の人はどうなるのか。また、子どもでも病気や障害のある子を産んだら、その母と子はどういう扱いを受けるのか。そういうふうに考えていき ますと、サドカイ人が何の疑いもなく前提し肯定しているこの制度・この社会の陰で、多くの人の涙が流れていたのではないでしょうか。でも、彼らはそこに何 の痛みも感じないでそれを汲々と守り、ただ相手を、ここではイエス様を打ち負かすためにこの話を持ち出している。この「サドカイ人」がこの私の中にもい る、そう感じたのです。

 彼らに向かって主イエスはおっしゃいました。「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。」端的にそして肯定 的に言いえるならば、「あなたがたは神の力を知りなさい、そうしたら、そんな思い違いからあなたがたも解き放たれて自由になることができる」とおっしゃっ たのです。
 「神の力を知れ」、それはどんな力なのでしょうか。主はおっしゃいます。「彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはな い。彼らは天にいる御使のようなものである。」サドカイ人たちはこれを聞いて、びっくり仰天したと思います。なぜなら、「復活の時には、めとることもとつ ぐこともない」と言われたからです。彼らは思っていたことでしょう。「めとること・とつぐこと、それがこの世を支えているのだ。もしそれがなかったら、人 間はいなくなり、滅んでしまうではないか。」私たちにも、「これはなくてはならない、これははずせない、これは変えられない」と思い込んでいる、そういう 原理・原則が、基準が、価値観が、またそれによって成り立っていると思っている秩序や安定があるのではないでしょうか。ところが、主イエスはおっしゃるの です。「あなたがたは神の力を知れ。」神の力は、人間の中で出来上がってしまって「動かせない、変えられない」と固定されてしまっている価値観や生き方や 秩序をも相対化し、乗り越え、時にはそれをひっくり返して変えてしまう。神の国の時、復活の時には、人間には欠かせないと思われていた「めとること・とつ ぐこと」さえもが乗り越えられ、思いもよらなかった全く新しい秩序の中で人は生かされる。
 幼い二人の子どもを抱えて「明日に希望を持てない」と人生に疲れ絶望の中にいたシングルマザーが、このような神の御言葉との出会いを経験しました。彼女 は今まで自分を縛っていた原理に気づきます。「いちばん私が苦しんでいたことは、こんなことになってしまって、もうなんにも明日に期待を持つことができな い、という思いだった。―――いくらがんばってみても、私自身は孤独なまま、一人で耐え続けなければならない。そう思うと、手足の力が抜けて行くような絶 望感に襲われた。それがある時、ふと思いついた。明日に期待するという考え方がそもそもおかしいのではないか。明日に希望を持て、という言葉は恐ろしい毒 を持った言葉なのではないか。そうして、キリストの言葉を思い出した。『明日のことを思い煩うな』。なんという深い慰めに充ちた言葉だろう――こんなこと をはっきり言い切れるなんて、やっぱりキリストってすごいんだ――大抵の人は明日のことが心配でしょうがないから、宗教というものに近づいていく――それ が、このキリストは、明日を思うな、とすっぱり言ってのけている。」(津島祐子、青野太潮『見よ、十字架のイエス』より)それから彼女は新しく生きる力を 与えられたのでした。
 その「神の力」「神の業」の最たるものが、「復活」なのだ。「死こそは絶対、動かせない」と誰かもが思い込み、死をを恐れ死を避けることが全ての人間を縛り、動かしている。しかし、神はその死すらも動かし、相対化し、乗り越えられる

 ここにあのニコデモがいたならば、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と尋ねたことでしょう。主イエス様はサドカイ人たちにそれを示すために、彼 らの土俵から聖書の言葉を引いてきます。彼らが最も大切にしていたモーセが神様から呼ばれた場面です。そこで神様はこう言ってモーセに自己紹介をされまし た。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」そして、これにイエス様はこんな解説を付けられました。「神は死んだ者の神ではなく、生 きている者の神である。」これを聞いて、やはりサドカイ人たちはびっくりしたでしょう。なぜなら、あの神様の自己紹介とイエス様の解説をつなげるとこうな るからです。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、すなわち生きている者の神である。」ということは、アブラハムも生きている者だし、イサ クもそうだし、ヤコブも生きているということになります。「そんなの、おかしい」、モーセだって何千年も前の人だ、アブラハムたちはもっと前の人だ、なら ば、みんな「死んだ者」ではないだろうか。それをどうして彼らは「生きている」などと言うのか。
 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは、どういうことでしょうか。それは、そこに私の、あなたの名前を入れてみたらよくわかります。僭越なが ら私の名前を入れますと「加藤英治の神」。皆さんもそこにご自分の名前を入れて、何度か言ってごらんなさい。うれしいじゃありませんか。そこににじみ出て くるのは、アブラハムを愛し、イサクを愛し、ヤコブを愛し、そして私たち一人一人を愛して、愛して、どこまでも愛して真実を尽くされる神様のお姿です。そ んなにも愛して愛し抜いてくださるその神様の愛が、死をもって金輪際閉ざされ、終わってしまうなどということがあるだろうか。決して、決してそんなことは ない、あるはずがない。ルターは、このイエス様の言葉をこんなふうに説明しているそうです。「私にとってもあなたにとっても(これは人間同士言い合ってい る言葉です)アブラハムは死んだ。しかし、キリストは言いたもう。わたしにとってアブラハムは死んでいない。」そう、アブラハムを愛して愛し抜かれた神様 にとってアブラハムは決して死んでいない。神の愛と真実は、死をも越えて、死の力にさえも打ち勝って、その人を愛し、その人を生かす。これが復活だ。
 イエス様は、この言葉が真であることを、ご自身の生涯を通して、その死と復活によって、私たちに見せ、確かなものとして示してくださいました。それは、 私たち一人一人を変わらぬ真実をもってを愛し抜き、私たちの罪と死さえも引き受けて私たちのために死ぬ愛です。またそれは、人間のあらゆる考えと枠、世の 中のどんな理不尽な制度や秩序をも越えて、死さえも越えて私たちを起こし、生かし、導く神の愛と真実の力です。
 「神の復活の力」、それはこのようなものではないか、このように現れるのではないかと思われるのです。「ある日、深刻な飲酒の問題を抱えている一人の男 が、イリノイ州―――ヴァージル・ヴォグトのもとに現れた。ヴァージルが男に、キリストを受け入れて仲間に加わらないかと勧めると、男はクリーブランドま でのバス代が欲しいだけだと言った。『ヴァージルは同意した。「その手のことでも助けてあげられるよ。もし、君が本当に必要としているのが、それだけだと いうのならね」。ヴァージルはしばし沈黙し、男の目をまっすぐ見て言った。「そのほうが私にとっても話は簡単だ。君が神の国での新しい人生(注:「復活の 命」)を選ぶと言ったら、私は君の兄弟となって、私のすべてを君に与えなくてはならないところだった。この家も、時間も、お金も、君に必要なものの一切合 切が、これからの全生涯、完全に君の自由になるところだったんだ。それなのに、君が必要なのはバス代だけだと言うんだね・・・」』男はすっかり面食らって 立ち上がり、差し出されたお金も受け取らずに立ち去ってしまった。だが、次の日曜日の礼拝で、その男はヴァージルの隣に座っていた。」(ロナルド・J・サ イダー『聖書の経済学 格差と貧困の時代に求められる公正』より)
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」この神の力を知れ!その時私たちはそれぞれの「思い違い」から自由にされることができるでしょ う。私たち教会は、その「思い違い」からいつも私たちがまず自由にされつつ、そうして死の力に捕らえられている世とその人々に向かってもこの神の愛と真実 を、言葉と行いをもって示し証ししていく群れとされたいのです。そのようにして、私たちは「来たるべき日を待ち望む」のです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から起こし復活させられた神よ。
 私たちもまた、様々な「思い違い」をしています。それは、この世のあらゆる壁と溝を越え、ついには「死の力」をも乗り越えて私たちへの愛、またこの世に生きるすべての人への愛と真実を貫いてくださる、あなたの復活の力を知らないからです。
 しかしあなたは、イエス・キリストによって、この復活の力を表し、実行し、与えてくださいました。この計り知れない恵みのゆえに、今私たちも復活の力を 知り、あなたの愛と真実の力を知らされました。どうか、この恵みに答えて、私たち一人一人と教会もまた「思い違い」から解放され、死に支配されているこの 世とその人々に向けて、あなたの愛と真実、復活の力を宣べ伝え、行い、証しして行くことができますよう助け、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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