来たるべき日を垣間見る               マルコによる福音書第9章1〜8節
              

 「来たるべき日」とは、先週もお話ししたように、神の栄光、イエス・キリストの栄光が余すところなく現われ、輝き出で、示される日です。この日 を、そのような日が来ることを、私たちはどうしたら信じることができるでしょうか。それが、今日の聖書の箇所の出来事です。主イエスが三人の弟子たちを連 れて高い山に登られた、するとイエスのお姿がまばゆいばかりの白さに光り輝いたと記されています。そこにいた者たちは、「来たるべき日」の栄光を、この時 だけ「垣間見た」のでした。それにしても、今日の箇所の出来事は、とても不思議な、現実離れした、別世界の出来事のように思われます。なぜ、このような出 来事が起こったのでしょうか。
 それを今日私は、弟子たちの状況に照らして考えてみたいと思います。彼らはとまどいを、さらにはつまずきや疑いを覚えていたと思います。なぜなら、ここ に「六日の後」という言葉があるからです。特定の日から、何かの出来事から「六日の後」です。いつから、何からでしょうか。それは、「前の章の出来事か ら」だと言えます。前の8章で、主イエスは弟子たちに尋ねられました。「あなたがたはわたしを誰と言うか。」それに対してペテロが代表して「あなたこそ生 ける神の子、キリスト・救い主です」と答えました。続いてイエス様は「わたしは苦しみの道を通り、人々から捨てられ殺されて、そして復活に至る」と告げら れました。この言葉をペテロや他の弟子たちはわからず、受け入れられず、つまずいていたのです。なぜなら、イエスが言われたことは、弟子たちが持っていた 「救い主」「キリスト」のイメージと全く違っていたからです。彼らは世の多くの人々と同じく「栄光のキリスト」を思い浮かべていました。「力と輝きに満ち て、憎むべき敵を片っ端から倒して、ついに支配を確立し、権力を振るうキリスト」。「ところが、先生は自分は苦しむとか、殺されるとか言う。おまけに、私 たちに向かって『あなたがたも十字架を負って、わたしと同じような道を歩め』とまで言う。」一言で言うなら、彼らは「十字架」につまずいていたのです。

 でも、どうでしょうか。そんなことを言うなら、イエス様の生涯は「つまずきの連続」ではないでしょうか。あのクリスマスの出来事において、主イエスは 「飼い葉桶」にお生まれになりました。「飼い葉桶」とは、家畜にやるえさを入れる桶です。そんなみすぼらしく汚い所で生まれたということ、それがもう「つ まずき」ではないでしょうか。私たちはある意味で「イエス様がキリストだ、救い主だ」ということを「常識」のように知っています。だから何とも思わないか もしれませんが、でもイエス様の時代に直に主に接して本当に信じることができるでしょうか。その後のイエス様の生涯も「栄光に輝く」ようなものではなかっ たのです。多くの人々を助けて旅をするイエス様は、きっといつも薄汚れ、疲れておられたでしょう。しかも、その相手はこの世では顧みられないような罪人と か病人とか障害者とかだったのです。その上に、その最期はあの十字架でした。十字架とは、当時のローマ帝国で最も残酷で呪わしい死刑の方法だったのです。 最も惨めで不名誉な死に方をイエスはなさったのです。弟子たちがわからず、受け入れられないのも無理はないと思います。
 そしてまた、この後主イエスに従う者たちの道はどうでしょうか。「わたしに従う者は、十字架を負え」と言われましたが、まさにその通りだったのではない でしょうか。後に弟子たちが歩いた道は、イエス様と同じように誤解され、理不尽な目に遭わされ、苦しめられ、迫害されるというものでした。さらに、今遅れ ばせながらイエス様を信じようとする私たちの歩みはどうでしょうか。「いつもわかりやすく、受け入れやすい、何のつまずきも感じない」、そんなものでしょ うか。私は、北九州でホームレス支援に関わっておられるある牧師の言葉が忘れられないのです。先生は「主イエスに従う」ということにおいてその支援活動を されていると思いますが、ある時たしかこんなことをおっしゃいました。「この働きをしていると、だんだん疲れていく、いつも悲しんでいるような気がす る。」
 朝鮮は、戦争が終わるまでずっと日本帝国の植民地支配下に置かれていました。その中で教会もまた国家権力による圧迫を受け、ついに神社参拝を強要される ようになりました。趙寿玉という一人のキリスト信徒は、その迫害と苦しみへの恐れの中でつまずきを覚えていたことを証ししておられます。「どんどん息苦し くなって行く情勢の中で、『お前はその反対を本当に貫くことができるのか』と自分に問いかけました。すると、自信はないのですね。とても苦しいのです。こ れまで日本の権力に楯突くようなことは全部避けてきた私でしょう。恐ろしかったですよ。神が生きて働いておられる、ということは頭では知っていても、本当 は分かっていませんでした。―――祈っても祈っても、恐かったのですよ。」そこで彼女は近くの山に登り、そこで祈ろうとしたのでした。

 今日の箇所は、そのような者たちを神は顧みてくださったと告げていると思うのです。どのように? 神は「見せて」くださったのです。「六日の後、イエス は、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その衣は真っ白く輝き、どんな布さらしで も、それほどに白くすることはできないくらいになった。」このまばゆいばかりの白さ・輝き、それは神の栄光です。イエスが神の栄光に包まれておられる。あ の飼い葉桶で生まれ、埃まみれで疲れながら旅をして、世の顧みない人々を助けて悩み苦しみ、最後は十字架につけられて死ぬこのイエスこそが、神の栄光に包 まれて輝いておられるまことの神の子であり、本当の救い主なのだと、神は今見せてくださったのです。十字架のイエスこそが、来たるべき日、勝利のうちに世 界を一新し、神の国を来らせ、新しい天と新しい地を完成する世の救い主であることを、一点の曇りもなく明らかに示してくださったのです。
 それだけではありません。「すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた」と記されています。「エリヤ」と「モーセ」というの は、旧約聖書を代表する二人の人物です。この旧約を代表する二人がイエス様と語り合っているということは、旧約に表された何千年にもわたる神の御計画と御 業の道は、この主イエスを目指し、イエスによって成し遂げられるということです。しかも、この三人の対話で話されていたことは、イエスの苦しみ・十字架を 指し示していました。ルカの福音書にも同じ出来事が記されていますが、そこではこの時の話の内容は「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のこと」で あったと言われています。また、このマルコの福音書でも、イエス様の理解では、旧約聖書は「人の子(つまりイエス様)は多くの苦しみを受け、かつ恥ずかし められる」ということを告げているのです。そのようにして、イエスが歩もうとする苦しみの道・十字架の道は、神の御心からはずれたことではなくて、むしろ 確かにしっかりと神の御計画のうちに置かれてきたことだったということを示しているのです。
 そして、ついに神御自身の声が響きます。「輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。 これに聞け』。」「これがわたしの愛する子なのだ。彼が世の苦しむ人々をどこまでも愛すること、自分が苦しみを負ってまで彼らを助けること、そしてその果 てに誤解され、拒絶され、陥れられ、苦しめられ、捨てられて、世の罪を負って十字架に殺されること、それがわたしとイエスの心であり道なのだ。」このよう に神は、「見せて」くださったのです。

 きっと、神はそのように私たちにも「見せて」くださるのだと信じます。この時と同じようにほんの一瞬かもしれないでしょうが、しかし「見せて」くださる その時を備えてくださるのです。神は、「来たるべき日」、イエス・キリストの日の栄光を、この私たちにも垣間見せてくださるのです。
 山に登って祈った趙寿玉さんは、このような体験をします。「私たち二人で山の上まで登りました。―――夜が更けて行きました。夜がまたこわいのです。風 が冷えて来るとゾクゾクします。―――向こうの峰の大きい岩が虎と熊のように私には見えました。それが今にも飛び掛かって来るように感じられたのです。恐 怖心の虜になっていますから、見るもの聞くものすべてが恐ろしくて、全身の震えが止まりません。『主よ、主よ』と呼んでも、主のお答えは聞こえて来ず、祈 りは途切れてしまいます。すっかり心が乱れ、精神が衰えてしまいました。―――こんな臆病で馬鹿な私が、十字架を負って主に従うなどと大口を叩くとはなん という身の程知らずか―――と自分をあざけりたくなる気持ちが一瞬起こりますが、笑うだけのゆとりもなく、泣くことも出来ず、体がガクガク震えます。 ―――一人で泣いておりますと、その時、聖書の御言葉が心に浮かんたのです。『わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ』。神の声が聞こえた というのではないのですよ。この御言葉は与えられていたのです。それを思い起こしたのです。すでに与えられていた御言葉に寄りすがって祈りました。私の名 を呼んで、ご自身のものとして下さった以上は、どうか私に力を与え、もろもろの恐れを私から取り去って下さい、と切実に祈りましたよ。朝が来ました。私の 心は平安と喜びで一杯でした。山の上の自然も輝きに満ちていました。神が生きておられる。―――この夜、絶望の中で生きる望みを与えられ、私は新しく造り 替えられました。次の夜が来ましたが、もう虎の岩、熊の岩も恐ろしくありません。見るものすべてが神を讃美しているように感じられました。真心をもって祈 る者に神は新しい賜物をお与えになる、という確信に満たされて土曜日に山から帰りました。」(『神社参拝を拒否したキリスト者』より)この後、趙さんは神 社参拝拒否の証しを立てて行かれることになるのです。
 皆さんの中にも、「神様は本当にいらっしゃる、私にはその恵みがわかる」と心から思える時や出来事があったのではないでしょうか。それは、神が備えてく ださった「恵みの時」、「来たるべき日」を垣間見せてくだった瞬間だったのです。そして、今神はこの御言葉によってもこのことを語っておられると信じます し、これからも、今「闇」を感じている皆さんに「栄光」を垣間見せてくださる時を来たらせてくださるよう切にお祈りしています。

 それは、何のためでしょうか。神は言われました。「これはわたしの愛する子、これに聞け。」それは、このように示してくださる神の御言葉に聞くためで す。御言葉がこのように示してくださる主イエスに聞き、主に従って生きるためです。ペテロは、あの栄光を見たときに、「ここに小屋を建てて、いつまでも留 まりましょう」と言いました。しかし、神は別のことを命じられます。「これに聞け。」「見る」ことは一瞬です。「彼らが目をあげると、イエスのほかには、 だれも見えなかった。」あの栄光は跡形もなく消えて、そこにはまた元の通りの「旅に疲れ、薄汚れたままのイエス、十字架へと歩むイエス」がおられました。 しかし、弟子たちの中には新しいことが起こっていたのではないでしょうか。なぜなら、神が彼らにもこう語りかけてくださったからです。「あなたがたは、そ れでいいのだ。このイエスを信じる、それで間違いないのだ。それがどんな十字架の道、苦しい、理不尽な道であっても、それがどんなに今は理解できず、受け 入れがたいような道であっても、でもこれがわたしの正しい道なのだ。だから、この道を歩めばいいのだ。」このように「聞く」ことはできるのです。そして 「聞き続ける」ことができるのです。そこにおられるのは、以前と全く変わらないイエス様であっても、彼らはまた私たちは既にこの言葉を聞かせられ、そして この言葉が私たちの心に響き続けているからです。
 主イエスは、この山から下りるとき、弟子たちに命じられました。「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」。 「人の子が死人の中からよみがえる」。主イエス・キリストは復活されました。このことが私たちの経験ともなるのです。その時私たちは「見たこと」をはっき りと言える、「神は私たちを、私を助け、満たし、癒してくださいました。私たちの闇を照らし、罪を赦し、救ってくださいました」、そのように喜びをもって 告白し賛美する時が、私たちにも神によって来るのです。「六日の後」、七日目ごとに、この主の日の巡り来るごとに、私たちはこの神の約束と希望を覚えてい ます。今日も、この週も、この約束に押し出され、この希望を目指して共に歩んでまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から起こし復活させられた神よ。
 われらの主イエス・キリストの道が十字架であったように、彼に信じ従う者たちの歩みもまた「自分の十字架を負って歩く」ものとなります。私たちもしばし ば「闇」を感じ、経験します。でも、その「闇」の中でも、あなたは「来たるべき日」「イエス・キリストの日」の栄光を、恵みによって私たちにも「垣間見せ て」くださいますから、心から感謝いたします。どうか、この恵みによって、私たちも「十字架の主こそ、復活の主、栄光の主」と信じて、与えられたそれぞれ の道を、確信と希望とをもってさらに進み、歩み通して行くことができますよう助け、お導きください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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