イエス・キリストの日を目指して歩く          マルコによる福音書第8章34節〜9章1節
              

 今年度の私たち四日市教会の主題は、「良き力に囲まれ、来たるべき日を待とう」です。それに即して、今まで「神の良き力」というテーマで共に御 言葉を聞いてきました。今日からは、それに続いて二番目の部分「来たるべき日を」に関して、メッセージを聞き取って行きたいと思います。
 「良き力に囲まれ」、「神の良き力に囲まれ」て、私たちが待つべき「来たるべき日」とは、いったいどんな日なのでしょうか。

 さて、皆さんは、この今年度の私たちの主題の言葉がどこから来たかをご存知でしょうか。「そりゃあ、新生賛美歌の73番からでしょう。」正解です。で も、実はそのまた「元」があるのです。この歌の歌詞は、ドイツの神学者・牧師であったディートリッヒ・ボンヘッファーが書いた詩に基づいて作られたまし た。ボンヘッファーという人について一番有名なことは、第二次世界大戦中にヒットラー率いるナチス政権に抵抗し投獄されていたということです。彼は、この 世界で、しかもこの現代のこの時代において、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従って生きるとはどういうことかを、徹底的に考え抜いた人でし た。彼によれば、ナチスの悪は二つにまとめられるようです。一つは「人間の偶像化」です。ヒットラーが神の使者・預言者、また救世主とまでされその思想が 真理とされました。そのために「神の選びの民」ユダヤ人は迫害され、教会もまた骨抜きにされ変質させられようとしました。もう一つは、「人間の軽蔑」で す。その理想と政策は、一定の人間たちを軽蔑し、排除し、ついには殺して抹殺することによって実現されようとしました。ユダヤ人だけでなく、社会の弱い人 々、病者・しょうがい者・外国人など。これは共に、イエス・キリストにおいて表された神の御心に反している。その神学と信仰の証、その結果として、彼はナ チスに抵抗し、捕らえられたのでした。この「良き力に囲まれ」の詩も、獄中で書かれたものだったのです。
 では、このボンヘッファーにとって、「来たるべき日」とはいったい何だったのでしょうか。私たちの常識的な考えで言うならば、彼はヒットラーに抵抗し、 獄に囚われていたわけですから、彼が願い待ち望む「来たるべき日」とは、ヒットラーとその政権が倒れ、自分自身も獄から解放されて自由の身となれる日のは ずです。私たちがこの主題を選んだのは、なんと言ってもこの「コロナ禍」影響が強いでしょう。その私たちにとって、「来たるべき日」とは? コロナ感染が いわゆる「収束」し、完全に恐れや不安がなくなり、またまるっきり以前と同じように生活し活動できる「日」?
 でも、もしボンヘッファーがそういう「日」を望んでいたとすれば、彼にとっては、失望、後悔そして絶望しか残らなかったはずです。歴史の流れを振り返り ますと、確かにナチス政権は破れ、崩壊しました。1945年4月30日ヒットラーは自ら命を絶ち、5月2日首都ベルリンは陥落、5月9日にドイツは無条件 降伏をすることになります。しかし、ボンヘッファー自身は、それに先立つわずか一か月前4月9日に、フロッセンブルク収容所で無残にも処刑され、わずか 39年の生涯を閉じることなったのです。なんということでしょう。「あと一ヶ月ずれていれば。」だから、もしボンヘッファーが、ヒトラーが倒れ自分が解放 される日を「来たるべき日」として待ち望んでいたならば、彼には絶望しか残らなかったはずなのです。

 しかし、ボンヘッファーは絶望しませんでした。伝説的にではありますが、彼が絞首台に上る直前に残したとされている最後の言葉があります。「こう伝えて 下さい。私にとって、これがいよいよ最後です。しかしまたこれは始まりです。―――そして私たちの勝利は確かです。」(森平太『服従と抵抗への道 ボン ヘッファーの生涯』より)
 なぜでしょうか。いったいなぜでしょうか。その答えを、今日の聖書の箇所、イエス・キリストの言葉が与えてくれています。それは、イエス・キリストによ れば、「来たるべき日」とはこのような日だからです。「人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るとき」、また「神の国が力をもって来るの を見る」日。この日、この日をこそ、私たちすべての者は待つべきであり、ボンヘッファーもまたこの「日」をこそ待ち望んでいたからです。
 「来たるべき日」、イエス・キリストの日、それは「人の子イエスが、父の栄光のうちに御使たちと共にこの世に再び来られる日」です。それはまた、「神の 国が力をもって来る日」です。イエス・キリストが来られ、神の国が力をもって来たり、新しい天と新しい地が実現し、完成する日。それはこう語られていま す。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙をまったくぬぐいとってくださる。もは や、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」(黙示録21・3〜4)「その時には、『天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひ ざまずき、すべての舌「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえる』からです(フィリピ2章11節)。つまり、全世界はイエスのも のだったと分かる時に、全世界を手に入れようという支配欲がいかに無駄なものであり有害なものであるかが分かるということです。」城倉啓氏、泉バプテスト 教会ホームページより)
 「来たるべき日、イエス・キリストの日」、この日は必ず来ます。ボンヘッファーのように「道半ばで倒れた」と見られるような人のためにも、この「日」は かならず来るのです。そして、その人を神の前で再び起こし、神の前に立たせ、イエス・キリストの栄光で照らしそれに参加させ、「自分の命を救い、得る」よ うにさせるのです。その人の人生がまさに神に従って歩まれたのであることが実証され、その人の言葉と行いそして生き方が神の前に良しとされ、神と共に、ま た人と共に生きる幸いと栄光をもって満たされるようになるのです。ボンヘッファーは、いつもこの「日」を望んでいました。勇気を持ってヒットラーに抵抗し て語り生きる時も、獄中に囚われて死を待つばかりの時も。だからこそ、彼は最後まで諦めず、絶望しなかったのです。

 だから、この日を告げるイエス・キリストの言葉は、私たちのものの見方、考え方、生き方を問いかけ、その逆転と転換を迫り、「悔い改め」、「考えをス パッと切り替える」こと、生きる道の方向転換を求めるのです。だから、イエス・キリストはこう言われたのです。「だれでもわたしについてきたいと思うな ら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失 う者は、それを救うであろう。」この御言葉によって、何よりも明らかにされ、クローズアップされて私たちに迫ってくるのは、「私の十字架」とか「私の生き る道」であるよりも、ほかならぬこのイエス・キリストご自身の十字架の道であり、その生涯です。神と共に、また人と共に歩み、それゆえにこそ十字架の苦し みを通り、それを死に至るまで歩み通して、ついに復活の勝利と栄光に至った、イエス・キリストの生涯です。
 この「イエス・キリストの日」が来る! そう信じ、そう思うようになった人は、物事の見方がまるっきり変わります。判断の基準と価値観が根底からひっく り返ります。そして、生き方と歩む道そのものが完全に変えられるのです。「イエス・キリストについて行きたい」と心から願い、「自分を捨て、自分の十字架 を負うて、イエスに従って行く」者へと変えられるのです。「日々十字架を背負う生き方は、全世界を手に入れることに邁進するよりも優れています(25 節)。神の国が来る時には全世界を手に入れていることよりも、むしろ十字架を背負う生き方が高く評価されます(26節)。なぜなら、その時―――全世界は イエスのものだったと分かる時に、全世界を手に入れようという支配欲がいかに無駄なものであり有害なものであるかが分かるということです。」「わたしたち が礼拝している神は十字架のイエスです。この世の権力者から排斥され殺された方です。その悲劇を予測しながら、なお毎日他者のために生き・隣人を愛した方 です(10章25−37節)。日々利他的に生きるという十字架を背負ったために、十字架で殺された方がわたしたちの礼拝する対象です。日曜日わたしたちが 十字架のイエスを礼拝する行為は、平日わたしたちが自分の十字架を背負う行為を後押しします。」(城倉啓氏、同上)
 宗教改革者ルターはこう言っているそうです。「イエス様の招きを聞いて、『自分の十字架はどこにありますか』と改めて探す必要はない。なぜなら、皆イエ ス様の後について生きる思いに生き始めたとき、もう十字架はそこにある。あなたのところにある。あなたはすでにあなたの十字架を知っている。あとは、あな たがそれを引き受け、負うことだけだ。」それは、イエスを信じイエスに招かれて、出会う隣人たちの課題に仕えて生きて行く中で「自分を捨て」させられるこ とであり、そのためにあえて自分の時間・力・気力を使い「自分の命を失う」という経験であり、人々の前でイエスへの信仰について厳しく問われるという体験 です。自分の思うようにはならず、自分の弱さと罪を思い知らされ、それでもなお与えられる課題・務めに仕えさせられるという道です。
 でも、そのような道、そのような歩みの中で、主はこう約束してくださいます。「わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろ う。」なぜなら、主はこうおっしゃいます、「わたしがそのあなたの道を、あなたの前に立って歩んでいるからだ、わたしがこの道を通って『三日の後によみが えり』、すでにあなたがたのために勝利を取っているからだ」。

 今や私たちは、あのボンヘッファーの信仰と生き方がわかります。彼が「道半ばに倒れ」ながらも、なおも喜びと誇りと希望に生きて、そして死んでいったこ とがわかるのです。「よき力に、不思議にも守られて、われらは心安らかに来たるべきものを待つ。神は夜も朝も、そして新しい日々も、必ずわれらと共にいま し給う。」(ボンヘッファー『抵抗と信従』より)
 なぜなら、私たちもまた、同じ「日」を「来たるべき日」として信じ、待ち望んでいるからです。「来たるべき日」、イエス・キリストの日!

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死から起こし、復活させられた神よ。
 私たちは、どんな「日」を待ち望むべきでしょうか。いや、実際どんな「日」を待っていることでしょうか。でも私たちの期待と願望は、この世にあって、し ばしば裏切られます。挫折を経験し、絶望をも味わいます。しかし、私たちが真に待つべき日、喜び望んで待つべき日は、私たちの願いが叶う日ではなく、「イ エス・キリストの日」です。主が再び来られ、神の国が力をもって来たる日です。
 この日を、この日をこそ、私たちは待ち望みます。それゆえに、私たちはこの苦難の中にあっても不思議にも守られ、導かれ、神と人々のために用いられて働 くことが許されます。どうか、日々に、一歩一歩において、そのような私たち一人一人また教会として生き歩むことをお与えください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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