死に逆らって語る力              マルコによる福音書第5章35〜43節
              

 「神の良き力」の10回目、その最終回です。「力」と言えば、この世には、「力あるもの」がいくつかあります。それは、きっといろいろありますが、その 中でも最たるものの一つは、「言葉」ではないでしょうか。「言葉の力」。言葉というものは、力なのです。たった一言が、時には私たちを喜ばせ生かし救うこ とができます。しかしまた、たった一言葉が、私たちを傷つけ、落ち込ませ、絶望させることがあるのです。誰にでも「聞きたくない言葉」の一つや二つはある でしょう。その言葉を聞くと、私たちの失敗の思い出とか、苦々しい体験とか、克服できない劣等感などが頭をもたげてくる。さらに、私たちすべての者にとっ て最も聞きたくないその言葉は、「死」ではないでしょうか。私たちは、「死」に関する言葉を話したり聞いたりする時には、思わず声を低めます。あるいは、 あからさまに言うことをはばかって、遠回しに表現したりします。
 それは、まさにこの会堂司ヤイロにとってそうでした。彼にとって、それは決して一般的な意味ではなく、実に切実なこととしてそうでした。彼の十二歳にな る娘が、重い病気のために今にも死にかかっていたのです。彼は、この一つの言葉だけは、この言葉一つはなんとしても、どんな犠牲を払っても絶対に、何が何 でも聞きたくないと思いました。「あなたの娘は亡くなりました。」
 この言葉を聞きたくない、そのためにこそヤイロはすべてを捨てました。会堂司、信仰の指導者、地域の名士としての栄光、誇り、自負、それらすべてを捨て てヤイロは、イエスという名前も地位もない一人の若者の前にひれ伏したのでした。「会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足 もとにひれ伏し、しきりに願って言った、『わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいて やってください』。」この彼の熱意と懇願がイエスを動かしました。「そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。」あの言葉を聞きたくない、そにためにこそ 今ヤイロはイエス様の先に立って案内しつつ、しきりに急いでいるのです。
 彼の願いだけが通っていったわけではありません。あとからあとから押し寄せて来る大群衆が、彼らの歩みを幾度も妨げました。それに、ここにもう一人、切 にイエス様の助けを必要とする病気の女性が登場して、そのいやしの業やイエス様との対話なども持たれなければなりませんでした。しかし、ヤイロはきっとや きもきしながらも、この出来事に文句一つ言わずにじっと耐え、待っています。それも、あの言葉を聞きたくないためでした。あの言葉を聞きたくない、そのた めにこそ彼はこのお方イエスを信頼して、どこまでも待っていることができたのでした。

 しかし、そんなヤイロを、たった一言が打ち砕きました。「イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、『あなたの娘は亡くな りました』。」もう少し、もうすぐというところだったのです。しかし、その瞬間に「死のメッセージ」が彼に達し、彼を打ち倒したのです。「死の言葉」は、 その背後にある死の力をもって、私たちを一瞬にして打ち砕き、倒すことができるのです。「あなたの娘は亡くなりました。このうえ、先生を煩わすには及びま すまい。」これが、「死の言葉」を前にしたときの、私たちの本音ではないでしょうか。死は、私たちにとって、どうしようもない限界として立ち現れます。恐 いもの、不可解なもの、手の届かないもの、忌むべきものです。死んだ以上、だれが何をしようとだめなのだ。「『もうおいでいただくこともない』というすて ばちな言葉は、ジタバタしても始まらないという人間の知恵の重さを感じさせる。あとは、しきたりに従って、すべきことをテキパキとはこべはよいという気持 すら読みとれるかもしれない。もはやイエスの出る幕ではないというこの言葉は、死を終着駅にして、再び始発駅とはなしえない人間の現実を、みごとに示して いる。」(清水恵三『手さぐり聖書入門』より)「この上、先生を煩わすには及びますまい。」そうなのだ、もう遅いのだ。キリストがありがたい教えを説こう が、死を前にしては無力なのだ。
 この言葉の背後にあって、全ての人間を恐怖と絶望によろつて縛り付けている死の力、罪の呪いの力がヤイロを襲ったのです。彼は打ちのめされました。倒れ ました。今までは、何としてもとイエス様の先に立ち、急ぎに急いできたのに、今はもう進んで行く力はありません。その場に膝を落として座り込み、立ち上が る気力さえなくなってしまったことでしょう。ここにヤイロの信仰は終わりました。彼の希望も、そして精一杯の奉仕や服従も終わったのです。

 辺りはこの言葉を前にして、一瞬しーんと静まり返っていたにちがいありません。死を前にした沈黙、だれも破りたいと思わない、だれも破れっこない沈黙。 しかし、その沈黙をただ一人破った人がおりました。「イエスはその話している言葉を聞き流して」。皆さん、これは驚くべき言葉なのです。「イエスはその話 している言葉を聞き流して」、聞き流せますか。「死の言葉」です。だれもがこの言葉の前に頭を垂れ、納得して黙り、引き下がるほかはない、しかし「イエス はその言葉を聞き流して」!
 「聞き流す」、これは実に強い言葉なのです。「聞き流す」、聞こうとしない、心に留めない、聞き従わない、聞くことを拒む、何の関心も払わない、さらに は「不従順である」という意味すらあります。先ほど「言葉は力である」と申しました。確かに私たちの日常でも「言葉を聞き流す」というのは大変です。強い 言葉、特に悪い言葉ほど「聞き流す」のは大変です。一言言われただけで夜も眠れなくなり、時には病気で寝込んでしまう、そんなことだってあるのです。言葉 を「聞き流す」、そのためには、その言葉に上回る力をもって、それに逆らい、立ち向かい、それをはねのけなければならないのです。
 「イエスはその話している言葉を聞き流して」、あえて聞き流して、死の言葉に逆らって、立ち向かって、耳もくれずに言った、「恐れることはない。ただ信 じなさい」。神の愛を信じなさい、死の罪の力を打ち破る神の力をこそただ信じなさい。どんなことがあっても、信じ続けなさい! 皆さん、ここにこそイエ ス・キリストが命を懸けて、ご自身の全てを懸けて成し遂げてくださった勝利があるのです。私たちを愛するゆえにこそ、ただ一人、猛威をふるう死と罪の力に 逆らい、真っ向から立ち向かい、そのゆえに自ら傷つき、ついに十字架で殺され、しかしご自身の死によって死に打ち勝ち、神の力によって復活させられ、今も 生きておられる方の勝利がここにあるのです。こうしてかち取られた言葉が、今ここにあるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」

 この力ある言葉こそが、この言葉こそが信仰を創り出します。絶望に沈み込んでいたヤイロを、この主の御言葉こそが助けて立ち上がらせ、先に立たれるイエ スについて行かせるのです。ここで、順番の逆転が起こっていたと、私は確信します。今までは、ヤイロが彼の熱意と信仰によって、イエス様を先導していたの です。しかし、ここでもう彼は自分では歩めなくなりました。しかしここからは、主イエスが、イエスご自身が彼に代わって、彼に先立って、彼を導いて行って くださるのです。そのおかげで、ヤイロは自分の絶望また不信に抵抗しながら、復活の主の後からついて行くことがゆるされるのです。弟子たち、信じ従う者た ちも、主の後から、あざ笑う者たちの間をぬって進み行くことができるのです。
 そのようにして、この出来事は起こりました。「イエスはみんなの者を外に出し、子どもの父母と供の者たちだけを連れて、子どものいる所にはいって行かれ た。そして子どもの手を取って、『タリタ・クミ』と言われた。それは、『少女よ、さあ、起きなさい』という意味である。すると、少女はすぐに起き上がっ て、歩き出した。」「タリタ・クミ」、それは希望の言葉であり、だからこそ私たちの信仰を問い、求める言葉です。誤解を避けるために言っておきますが、イ エス様はありとあらゆる死人をよみがえらせたのではありませんでした。こうしてヤイロの娘がよみがえらされたことは、「しるし」、一つのサインだったので す。それは私たちにとって本当になくてならない、決定的なことを示すためのものです。「タリタ・クミ」、死すべき私たちに向かってそう呼びかけてくださる 方がある。ここにこそ希望がある。ここに、このお方イエス・キリストによって神の国が既に始まっている。神が死と罪の力を滅ぼし、すべての人を永遠の命へ と招いてくださるその御国が、この私たちの死の世界へと切り込んでいる!

 第二次世界大戦中のドイツで、独裁者ヒットラーとナチス政権に抵抗したクリスチャンたちの中に、一人の弁護士をしている信徒の方がいました。その名をフ リードリヒ・ユストゥス・ペーレルスと言います。彼はこの運動に立ち上がった人々を、法律の面から守るために献身的に働きました。弁護士というのは、「言 葉の人」です。法と正義の言葉をもって、罪に定められた人や罪を犯した人を助ける、あるいはこの世、この社会において権利や尊厳を侵されている人を助ける のです。ベーレルスは、自分に与えられている言葉の力を知っていたでしょう。だからこそ、悪魔的な言葉、狡猾な言葉、残忍な言葉をもって人々を迫害し苦し めるナチスに対抗して語り、働いてきたのだと思います。しかしその結果、彼もまた捕らえられ、死刑を待つ身となりました。その獄中にペーレルス弁護士を、 深くまた強く励ました言葉は、これでした。「我々が戦う所に神は居たもうのです。死の谷にも居られます。悪魔が全力を振るって我らに襲いかかる時にも、そ こに神は居られるのです。世が我々をあざ笑い、我々が悲惨な状態に置かれても、辱められ憎まれても、迫害を受けても、そこに神は居られるのです。罪と死が 我らを打ちひしぐ時、神はそこに居られるのです。まさに私たちの神が居られるのです。」「我々全ての危急、試錬、罪を超えて、我々は主の死と復活において 慰められることが許されている」。(雨宮栄一『フリードリヒ・ユストゥス・ペーレルス 告白教会の顧問弁護士』より)
 だから、こう言われているのです。「死に逆らう」この言葉に聞きなさい、「死に逆らって語る」ことのできるこのお方の言葉にこそ聞きなさい。どんなに死 の力、私たちに不信と無気力と絶望をもたらし、滅びに至る悲しみをもたらす力が襲ってきて、死の言葉を語ってきても、その声には「あえて聞かずに」「聞き 流して」、それには「従わず」「逆らって」、この声に聞きなさい、このお方のこの言葉を聞きなさい。「恐れることはない。ただ信じなさい。」私たちが傷つ き倒れ、私たちの信仰と希望が終わってしまうその所でこそこの言葉を語り、その所から私たちに先立って私たちを導いてくださるお方がおられるのです。今、 私たちの前にいてくださるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 私たちは言葉によって考え、言葉によって人や社会と関わります。また一つの言葉によって生かされたり、死んでしまったりします。とりわけ私たちの世界を「死の言葉」が支配しています。それによって私たちは捕われ、絶望し、まさに死んでいきます。
 しかしその世へと、主よ、あなたは救い主イエス・キリストを送られました。イエスこそ憎しみと戦争に逆らって愛と平和を語り、軽蔑と差別に逆らって人の 価値と意味を語り、死と絶望に逆らって命と希望を語られました。十字架を歩み復活に至った主のご生涯こそ、私たちに死に打ち勝つ希望を語り、神と共に生き る永遠の命へと招き、導くものです。
 どうか、この「死に逆らって語る」お方を信じて、私たちも「死すべき者」ではありますが、神と共に生きる命に基づき、信仰と希望と愛の言葉を語って生き、お互いを生かし、共に生きる一人一人また教会としてください。
復活にして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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