全き平和の夢を見る               
                                                     
イザヤ書第11章1〜9節
              

 二年ぶりの平和主日礼拝です。実のことを言いますと、私はこの平和主日礼拝が苦手です。(もう一つは、2月11日近くの「信教の自由を守る日の 礼拝」ですが。)なぜ苦手かと言うと、現実に対抗して語らなければならないからです。でもそれは、本来聖書のどの箇所、またいつの礼拝メッセージでも同じ なのです。いつのメッセージ、どの箇所でも、神の御言葉を聴き、それに従って語るとするなら、いつでも必ず私たちの今あるままの現実に対抗して語らなけれ ばならないのです。
 この平和主日には、まさにそうです。現実は、平和ではないからです。そして平和には、「積極的平和」というものがあります。この言葉は、数年前以来日本 では間違って理解され、使われています。その本当の意味は、ただ「戦争がない」というだけではない(もちろん、これだけでも大変で、大したものですが)、 積極的平和とは、さらに社会に格差や差別など、人間の価値を軽んじ苦しめる一切のものやことがない状態を指します。「平和」ということがそれほどのもので あるとすれば、なおさら現実は平和ではありません。
 そういう平和ではない世界にあって、その現実に対抗して語ることは「しんどいことだなあ」と思わされるのです。そういう世界にあっては、平和の夢を見、 語ること、平和のための想像力を持ち、養うことと言ってもよいでしょうが、それは軽んじられ、軽蔑されます。「戦争のない世界を子どもが願っても、大人は それを幼い考えだと見なし、相手にしない。平和のために青年がデモ行進をする場合も同様である。―――戦争は避けられないものとして受け入れることが、大 人の考えであり、現実的だとされる。『大人』は暴力を『自然の法則』ととらえている。また『そもそも人間は悪である』と言われている。―――『夢を見るの をやめなさい!』とは大人が自分と子どもを区別する典型的な『強制の言葉』の一つである。」(アルノ・グリューン『私は戦争のない世界を望む』より)
 そういう世界にあって、聖書の預言者は「夢を見」、「神による想像力」を持つのです。「絶望と無力を切り裂くようにして語られる希望に満ちた預言は、驚 きを与える言葉です。ほとんどあきらめ、祝うべきものなどないそのときに、共同体を新しい洞察と祝祭へと向かわせる言葉です。―――神は去り、もういな い、私たちが勝手に想定する場のまん中に神は存在します。」(ブルッゲマン『預言者の想像力』より)

 その預言者の一人でありましたイザヤにとって、彼の時代を取り巻く状況は実に耐え難いものでありました。当時の世界は、アッシリアという大国によって支 配されていました。アッシリアに付くのものも逆らうものも、この大国の影響なしにはあり得ませんでした。アッシリアは軍事力によって他国を攻めて支配下に 収めていくというやり方で、一気に頂点に上り詰めた国でした。そのような国に支配される世界の人々の考えは、なんと言っても「生存競争」「弱肉強食」とい うような言葉で染められていました。
 それはイザヤがいたユダの国でも例外ではありません。ユダの国は、一時期アッシリアに逆らう「反アッシリア同盟」を模索していました。そのためには、も う一つの大国であるエジプトなどに頼る。だから、「主だけを礼拝する」などという狭いことを言っていたのではやっていけない、他の宗教も受けいれなければ ならない。また、自分の国もできるだけ富んだ強い国にしないといけない。国全体が強くなるためには、弱い者や貧しい者に多少の犠牲が出てもやむを得ない。 「彼らの国には金銀が満ち、その財宝は限りない。また彼らの国には馬が満ち、その戦車も限りない。また彼らの国には偶像が満ち、彼らはその手のわざを拝 み、その指で作ったものを拝む。こうして人はかがめられ、人々は低くされる。」
 そんな現状に対してイザヤは、神の裁きを示し、民の悔い改めを求めていきました。「あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなたがたを見 ない。たとい多くの祈りをささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなた がたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。」
 でも、ユダの人々はイザヤの言葉に耳を傾けませんでした。そしてついにイザヤは、神様から最終的な裁きの幻を受けることになりました。それが今日の箇所 の直前の所です。10:33〜34「見よ、主、万軍の主は、恐ろしい力をもって枝を切りおろされる。たけの高いものも切り落され、そびえ立つものは低くさ れる。主はおのをもって茂りあう林を切られる。みごとな木の茂るレバノンも倒される。」神はイスラエルの「林」の中へと踏み入って行かれ、斧で枝々を切り 払い、ついにはそこに生えている木という木を次々となぎ倒されるのです。その末に、イザヤが見たのはただ点々と切り株だけが残っている様でした。それは、 荒涼とした滅びの光景であります。それは、主の裁きによりなにもかも倒され崩されて、すべてが奪われ失われた姿です。何の救いも希望もない有様です。

 しかし、ここから、この滅びの有り様の中から、イザヤに救いと希望の言葉が与えられたのです。その一つの切り株に驚くべきことが起こり、始まったので す。「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」。なんとも不思議な幻であります。その「滅びの切り株」の一つから、なんと 一本の芽が、そして若枝が生え出したのです。もう命を生み出すことのできないそのものから、なんと一つの新しい命が生まれたのです。これこそ無から有を生 み出す主なる神の御業です! そのようにして、主は王家の滅亡、国の滅びの果てに、それを越えて全く新しいことを始められる。
 それは、一人の新しい王の誕生と即位でした。「その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。」それは、本当に全く新しい王でし た。イザヤは様々な何人かの王を見てきました。大部分はひどい王たちです。目先の利益、自分や貴族ら一部の者のことしか考えない、そのためには手段を選ば ない、外国とも同盟を結ぶ、偶像崇拝を導入する、弱者を切り捨てる。中にはヒゼキヤなど、よりまともな王もいました。でもそんな彼らさえも人間的な弱さ、 善に対する優柔不断からは自由ではありませんでした。彼の最後の言葉は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」だったのです。
 主の幻のうちに示された王の姿は、どの王とも全く違っていました。それは、ただ主なる神の霊によって導かれて歩み、治める王でした。「その上に主の霊が とどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」それは、「主を恐れることを楽しみとする」ほどなのです。これほ ど神の御心を求め、御心を行おうと一心に生きた王は、今まで一人もありませんでした。
 またそれは、「人によらず」、人間的なものに支配されず、流されずに、治める王です。「その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くとこ ろによって、定めをなさず」。私たち人間とはこのような者です。「私たちは主を恐れているか。むしろ人を恐れていないでしょうか。―――私たちは周囲を見 回して、無意識のうちに自分の立場が悪くならないようにしたいという、そういう自分の目で見て、言うこと、なすことを決めるのではないか。―――私たちは ―――大きい声、力のある人の声に従って、賛成したり反対したりすることはないでしょうか。」(井田 泉『これが道だ、これに歩め』より)しかし、やがて 来るこの方は、そうではなく、神が示されることを見、神が語られることを聞いて、すべての事をなすのです。
 そしてそれは、特に「弱い者、貧しい者のために裁き、治める王」です。「正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者(苦しめられて いる者)のために定めをなし」。イスラエルの主、出エジプトの神は最も弱い者を心に留められるお方です。「最も弱い者をどう扱うかに、その国の値打ちが表 れる」と聞いたことがあります。この新しい王は、まさにその神の御心に従って「最も小さい者」を顧み助けるのです。
 結局、イザヤはその生涯のうちに、この「全き新しき王」を見ることはできませんでした。彼もまた望みのうちに死んだのです。しかし神はこの約束を反故に されることはありませんでした。イザヤから700年後、神は一人の幼子をこの世に送られました。新約聖書は、このお方こそイザヤが語った「全き新しき王」 であると信じ、語っています。そのお方こそ、私たちの救い主イエス・キリストに他ならないのです。

 真の王として来られる方、この方の下でイザヤはさらなる大きな幻を神によって見ます。「おおかみは子羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、 若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳飲み子 は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。」これは驚くべき光景です。人間の世界のみならず、すべての自然界までもが、すっかり変えられ てしまうのです。敵対するもの同士、けっして共に生きるなどできないと思われていたもの同士が、ここでは不思議にも共存しています。人間同士、人間の国同 士のみならず、全ての生き物、全ての神に造られたもの同士の間に、全世界に全き、何ものも損なうことなく共に、幸いに生きることのできる平和が到来し、実 現するというのです。
 聖書の初め、創世記の最初の言葉についてこんな言葉を読みました。それは、このイザヤの言葉にも当てはまるものだと思います。「この頃、ユダヤの人々 は、バビロン捕囚の中に置かれていたと考えられています。つまりバビロンという国にユダヤが滅ぼされて、そして主だった人々がはるか遠くのバビロンという 国まで、徒歩で、裸同然で数珠つなぎにされて行進させられた。そしてたどり着いたバビロンの地では嘲られ、罵られる生活を60年も強いられる。―――だと すれば、この物語の著者が―――実は強い国が弱い国を叩きのめすような弱肉強食の世の中はもういやだと叫んでいるのだと読めるのです。―――強い者が弱い 者を虐げて、弱い者がいつまでも強い者たちに踏みつけにされるような現実は、本来の人間や本来の世界の姿ではないのだ。そうこの著者は語りたかったのでは ないか。」(谷本仰「聖書研究:聖書と状況の対話を聞く」、日本バプテスト連盟ホームレス問題特別委員会編『「ホームレス」と教会』所収、より)「私は、 教会というのは、もうこんな世の中はいやだと叫びながら夢を語る者たちでなければならないと思います。現実を知れば知るほどこの現実に埋没しないで、異質 な者たちとなって、こんな世界はうそだと言い張ってやまない者たちでなければならないと思っています。」(同上)

 この幻を聞く時、私自身はまことにそれにふさわしくない者だと痛感させられます。私たちは、神の幻よりはむしろこの世の有様に捕らわれそれに流され引き ずられて生きているからです。しかし、「何もないエッサイの切り株から救い主を生え出させれられた」神はそんな私たちをも飽きずあきらめず見捨てずに、希 望の御言葉を語り続けていてくださいます。それによって、私たちも神によって「夢見る者」、全き平和の夢を見、信じ、待ち望み、語る者たちとされて行くの です。「アメリカの公民権運動を駆り立てた中心的確信の一つは、『神は道なきところに道をつくる!』という励ましの合言葉でした。―――この世界のなかで 和解(注 すなわち平和を)探求することとは、神と共に行く旅です。―――神は―――共に冒険に出ようと私たちを招いておられるのです。」(カトンゴレ、 ライス共著『すべてのものとの和解』より)

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 神よ、私たちのこの世界、この社会は、決して平和ではありません。けれども、その中にあって、その中へと、あなたは預言者を遣わし、平和の夢と幻を語らせられました。この平和こそ、あなたからの救い主イエス・キリストによって語られ、実現され、与えられたものです。
 私たちも、あなたの御言葉に聴き、平和の主イエス・キリストを信じるとき、世の現実に流されず、世の言葉に囚われず、世の力に支配されてしまわないで、 あなたによる全き平和の夢を見る者とされ、まさにそのような一人一人また教会として生き、歩み、仕えることができると信じます。どうか、私たちを今力づ け、送り出し、用いてください。
まことの道、真理また命なる救い主、平和の主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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