イエスの舟に乗っている―――嵐を静める方と共に
マルコによる福音書第4章35〜41節
「神の良き力」、その9回目です。「神の良き力」、今日の箇所では、それは著しい力、とてつもない力として現れています。それは、イエス・キリ
ストの「嵐を静める力」です。「イエスは起き上がって、風をしかり、海に向かって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」それ
は、イエス・キリストの数々の奇跡の中でも、最も信じがたいほどのものです。クリスチャンの中でも、「癒しの奇跡は信じるが、この自然現象をも左右し支配
するようなものは信じられない」と言う人もいます。また逆に、「イエス様がそんなすごい力を持っているなら、どうしてこんな苦しみが世の中にはあり、私に
もあるのか」と問いたくなる気持ちも起こります。「それなら、どうしてイエス様は、台風や地震、また様々な自然災害、あるいはこの感染症をとどめてはくだ
さらないのか」、というわけです。
私は、聖書ではどこでもそうですが、とりわけここでは、文脈が大切だと思います。教会の歴史の中では、ここに出て来る「舟」というのは、しばしば「人
生」や「信仰」また「教会」にたとえられてきました。そのときに、どういう視点と立場に立ってものを考え、語るのかが大切だと思うのです。もし、こんなふ
うに考えていたら、どうでしょう。「私たちの人生には苦しみがあり、教会の歩みには試錬がある。そして、それがなかなか解決しない。どうしてだ。」私たち
は「舟」が「人生」であり「教会」であるとした上で、それを「私の人生」「私たちの教会」と捉えてしまっているのではないでしょうか。「私が自分の人生を
歩んでいる、私たちが自分たちの教会をやっている。そこに『嵐』が、試練や困難がやって来る、するとイエス様が私を助けてくれる。」でも、私たちが「良
い」と思うところで、私たちが「良い」と思い都合が良いように、助けや奇跡が起こることを期待しているとすれば、それはそんなふうには実現しないだろうと
思うのです。
なぜなら、今日の箇所では、事はそんなふうには起こり、進んではいないからです。こうあります。35「さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに
『向こう岸に渡ろう』と言われた。」イエス様が「向こう岸に渡ろう」と言われたから、彼らは舟で出かけていったのです。主がそう言われて出かけて行ったか
ら、舟は嵐に遭遇したのです。「向こう岸に渡ろう」と言って舟を出させたのは、イエス様だったのです。私はあまり詳しくはないのですが、船には船の決まり
と言いますか、法があるのだそうですね。船の上では、船長が絶対なのです。もし船の上で何か事件が起きてまだ警察が来ないうちは、船長がすべての権限を
持ってその対処に当たるのです。船を動かすのも止めるのも、皆船長の権限と命令に基づいて行われます。そうだとしますと、この弟子たちが乗り込んだ舟の長
は、誰でしょうか。それは、「向こう岸へ」と命令を出されたイエスにほかなりません。
この舟は、ほかでもない「イエスの舟」なのです。「信仰をもって生きるということは、私たちが整えた船に、さらに確かなお守りのように主イエスをお迎え
することではないのです。むしろ反対に、主イエスが乗っている船に私たちが招かれているのであり、その主を信じて、私たちが主イエスの船に乗り込み、共に
旅をするということなのです。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう2』より)そう考えますと、この舟がこの嵐に遭ったのも、どこまでもイエスに従いイエス
に導かれてのことです。「イエスの主導性」の中で、この出来事は起こっているわけです。そういう中での『嵐』であり、そういう中での奇跡、「神の力」であ
るのです。
そのような主イエスの主導性は、人間の「時・タイミング」に反しています。「夕方になって」、「今から行こう」と言われるのです。弟子たちは一日の働き
で疲れています。そこでいきなり何の予定も前触れもなく、「今から行こう」とおっしゃるのです。しかも、時刻は夕方から夜になります。中には「夜が近づく
と元気になる」という人もいるかもれませんが、私などはこれから夜という時に何かを始めるというのは、おっくうに感じます。「よく考えて、明日になって明
るくなってから出かけてもいいのではないか。」でも、「今から」と言われる。
また主イエスの導きは、人間の「知識・経験」に反しています。弟子の中には漁師もいました。彼らは湖の風向きや気候の変化に敏感であったことでしょう。
素人ではわからないような兆候を彼らは感じていたかもしれません。そういう中で、「ここで舟を出すのは止めた方がいいですよ」と彼らの知識と経験は教えま
す。でも、イエス様は「行こう」と言われる。
さらに主イエスの命令は、人間の「思い・気持ち」に反しています。この岸辺にはイエスを慕って「もっと話を聞きたい」という群集が残っているのです。彼
らをさらに導くことこそ、良いこと・うれしいことではないか。それに反して、向こう岸は「異邦人の地」です。そんな者たちに神の愛なんて伝わるのか、この
人々を置いてまで伝える必要があるのか。でも、イエス様の思いは向こう岸の、しかも悪霊に苦しめられ人々と社会から見捨てられた一人の人に神の愛を伝えた
いということだったのです。それがゆえに、主は「今行こう」と言われる。
また逆の面から考えてみると、この「嵐」は、そういう主イエスの計画と業に対する「抵抗・妨害」と見ることもできます。古代の人々はこのような自然現
象、特に「水」の現象の中に悪の働き、悪魔・悪霊の業を見て取りました。あの一人の人が助けられることを願わない勢力が、今イエスの道行きを阻もうとして
いるのです。これもまた、イエスの舟が主を乗せて行けばこその「嵐」なのです。「イエスの舟」、そこに私たちは乗っているのだ、私たちの人生も教会もイエ
スが先立ち、イエスが命じて私たちを導いている「主イエスの舟」なのだ、このことゆえの「嵐」なのだ、聖書は視点の根本からの転換を私たちに迫るのです。
「そこで、彼らは群集を後に残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。」
そういうわけですから、その舟には、当然にようにほどなく嵐が襲って来ます。「すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうに
なった。」弟子たちは「これは自分たちの舟だ」とまだ思っていたでしょう。漁師であったペテロたちは、「自分たちはプロなんだから、ここは自分たちがなん
とかしなければ」と全力でがんばったでしょう。しかし、この「嵐」の程度は彼らの経験と力と思いを超えていました。「もうどうにもならない!」その時彼ら
の意識はふっと一つのことを思い出しました。「元はといえば、この舟旅はイエス様の指示だったのではないか。当のイエス様はどこにいる?」そう思って見る
と、なんとなんと「ところがイエスご自身は、艫の方でまくらをして、眠っておられた」という状態です。彼らの中に怒りというのでしょうか、憤りというので
しょうか、そんな感情がふつふつと沸いて来ました。そしてこう叫んだのです。「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」。
ここなのです。ここでこそ、彼らの信仰は問われているのです。そして同時に、それは明らかに晒され、裁かれ、「不信」の宣告を受けているのです。彼らは
この舟が「イエス様の舟」だということを忘れてしまっているのです、いやそれをそもそも知らないでいるのです。どうなのでしょうか。この「イエスの舟」の
上で、イエス様は「弟子たちがおぼれ死んでもかまわない」と思っているのでしょうか。いいえ、決して。主はまさにこの「舟」に驚くべき仕方で共に乗り合わ
せておられるのです。同じ「舟」です、逃げも隠れもできません、彼らが死ぬならイエスも死ぬ、イエスが生きるなら彼らも生きる、そのように切っても切れな
い「一心同体」のようにして、主は彼らと共にこの「舟」に乗り合わせていてくださる。
しかも、このイエスが「眠っておられた」とは、どういうことでしょうか。それは、神への信頼、全き信頼にほかなりません。「わたしは安らかに伏し、また
眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」この「舟」の上で、弟子たちは誰一人信頼・信仰に生きることはできていな
い、その中にあって主はただ一人「信じる者、信頼する者」として、この「舟」に乗り合わせていてくださる。誰も信じることができないそのところ・その時に
おいて、主は彼らに代わりまた私たちに代わって「信じて」いてくださるのです。この舟は「イエスの舟」なのです。
船の最終責任を取るのは、船長です。ならばここでも、いやこの「舟」でこそ、その主なるお方は責任をお取りになります、「イエスは起き上がって」。弟子
たちの慌てふためいた熱心と求めがイエスを起こしたのではありません。主はそれをも聞き入れつつ、しかし神の御心と時と道に従って「起き上が」られまし
た。「起き上がる」、文字通りには「起き上がらされる」です。これは聖書において大変大切な言葉です。なぜなら、それは主イエスの復活に関わる言葉だから
です。「神はイエスを死人の中から起こされた!」神によって起こされ復活された方、すべての神に敵対するもの、罪と死の力、この世のあらゆる諸々の勢力に
勝利して起こされたお方、自然と歴史の主とされた方が、ここでも起こされ、起き上がってくださいます。そして、この御業を行ってくださるのです。「イエス
は起き上がって風をしかり、海に向かって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」
以前に紹介した、香港キリスト者による「深淵から呼び求める七日間の祈り」を、再びご紹介します。「神よ、私たちは、確かに恐れと不安を感じています。
私たちは、これまで享受してきたさまざまな自由を失うことが怖いのです。話した一言の言葉、所有している一冊の本、壁に貼った一枚の標語などが理由となっ
て、容易に処罰されることが怖いのです。恐怖のゆえに『自己規制』をしてしまい、あなたが私たちに与えてくださった自由を、自ら放棄してしまうことが怖い
のです。―――あなたの御言葉と聖霊の力により、私たちを一歩ずつ前へと導き、勇気をもって闇の力に向き合い、恐れに打ち勝つことができるようにしてくだ
さい。―――主よ、あなたをほめたたえます。あなたが共にいてくださり、あなたが平安を与えてくださるので、私たちは再び怯えることがありません。―――
そうです、主よ、風や湖さえ、あなたに聞き従うのですから、私たちはもはや誰を恐れることがあるでしょうか。」(松谷曄介編訳『香港の民主化運動と信教の
自由』より)
嵐が静まった時弟子たちは、と言えば? 「イエスは彼らに言われた、『なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか』。」彼らの思い通りにはな
りません。彼らは助けられて慰められるのではなく、イエス様から叱られるのです。でも、彼らは「イエスの舟に乗っている」のです。「彼らは恐れおののい
て、互に言った、『いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは』。」彼らは救われて満たされるのではなく、恐れに捕らわれつつしかしまだ悟らな
いのです。でも、彼らは確かに「イエスの舟に乗っている」のです。イエスが始められた旅の中で、イエスが導かれる道を歩むときに、イエスが行っていかれる
働きに参加していく中にこそ、私たちにも「嵐」は襲ってくるのであり、その「嵐」においてこそ「神の良き力」は現れるのです。なぜなら、嵐をも静めるお方
が、私たちをこの「舟」へと招き導き、このお方が常にあらゆる時と場合において私たちと共におられるからです。
(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
「向こう岸へ行こう」と言われて、主イエスは弟子たちを舟に乗せ、彼らをご自身の働きと道、その旅へと招き入れて、出発されました。それゆえにこそ、その舟を嵐が襲い、その嵐を主は静められました。
私たち一人一人また教会も、主イエスによって招かれ、主イエスによって導き入れられて、「イエスの舟」に乗り、イエスと共に旅を続けます。この旅に、ほ
かでもない主イエス・キリスト、嵐をも一言で静めたもうお方が、「一心同体」、徹底的にどこまでも共におり、共に生きていてくださいますから、心から感謝
し、すべてを委ねて従います。どうか、御心にかなう時に、あなたの良き力を表し、御業をなし、御栄光を表してください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。