心と命に刻まれた愛―――人を変える力                エレミヤ書第31章31〜34節


 「神の良き力」、その7回目です。「神の良き力」と言うときに、それは、人間には到底「不可能」と思えるようなことを成し遂げ、実現 する絶大な力という意味合いがあると思います。私たち人間にとって、一番難しいこと、絶対に実現できないこととは、いったい何でしょうか。前にも聞いたよ うに、「死を滅ぼす」ことでしょうか。それももちろんそうです。しかし実は、もっと難しい、「絶対に不可能」と思えることがあります。それは、「人を変え ること」です。ただでさえ、私たち人間は変わりにくいものです。一般的、人間的な意味でも、「人を変えること」は極めて難しいのです。私たちが直面する問 題、悩みのほとんどは、「自分を変えようとはせず、他の人ばかりを変えようとしていること」から来ると、聞いたことがあります。
 まして、聖書の視点から見れば、神様の視点からするならば、それはなおさらのことです。預言者エレミヤに与えられた、人間に関する神様の洞察の言葉があ ります。「ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。」(エレミヤ13・ 23)動物の豹が自分の体についている斑点を変えるなんて無理ですよね。「豹が整形手術をした」なんて、聞いたことありません。それと同じくらい、いやそ れよりはるかに、人間が自分自身の性質を変えることは難しい、いや不可能だ、と神は言われるのです。なぜなら、人間はそもそも神に背いた「罪人」だからで す。それは「悪に慣れた」、豹の斑点から体に初めから付いていて決して離れないように、悪の性質が根っから、体と心に染み込み、染みついている、そういう 人間なのです。だから、そういう人間に「変われ」と言っても無駄なのです。そういう人間を「変えよう」としても無理なのです。そういう人間が自分で「変わ ろう」と思ってもできないのです。

 このことは、とりわけ、主なる神と神の民イスラエルとの間の、契約の歴史において表われ、明らかとなりました。聖書の信仰、聖書の神を信じる信仰は、 「契約を結ぶ」という形で行われます。なんとなく神様がわかるのでもなければ、自然に神を知り神を信じるというのでもなく、神様がはっきりとイスラエルに 代表される人間に語りかけ、これこれこういうことで私を信じなさい、そして私と約束を交わしなさい、あなたがたはそれに基いて私を信じ、私の言葉に従って 生きていきなさい、というのが聖書の「契約に基づく信仰」なのです。それは、イスラエルにとって「出エジプト」に引き続く契約でした。神様が、エジプトで 奴隷の苦しみを味わっていたイスラエルを、不思議にも救い出して「神の民」としてくださった上で結ばれるという、一世一代の、これ以上ない、これ以外ない といほどの、決定的な契約だったのです。
 しかしイスラエルは、その神様との「契約」、大切な約束を守ることができなかったと言われるのです。「わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわた しの契約を破ったと主は言われる。」この言葉の背後には、あの神様の深い洞察があります。イスラエルの契約違反は、ただの一時的なものではない。「たまた ま破った」のではなく、「次から頑張ればよい」というものでもない、イスラエルに代表される人間の性質はあまりにも悪くて、その悪さは変えようもなく、人 は神との契約、神に対する真実、その信仰を破り、神に背き続けるものなのだ。「ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に 慣れたあなたがたも、善を行うことができる。」(エレミヤ13・23)
 預言者エレミヤも、このことを、自分自身、身をもって痛いほどに経験してきたのです。イスラエルが分裂してできたユダの国で、人々は、預言者がどんなに 言っても、神の言葉を聞こうとはしませんでした。偽りの神々、偶像を慕い求め、自分たちの欲望を追求し、弱く貧しい隣人たちを見捨て、苦しめました。その 結果、バビロニアの襲来により国が滅んでも、その悪の生き方は変わりませんでした。神は「おとなしくバビロニアに従い、バビロンへ捕らわれて行き、そこで 暮らせ」と言われたのに、それに逆らい「エジプトに逃げて行って、再起を待とう」という人々がいたのです。それは、あの「出エジプト」の神の業に逆らい、 それを無にするような、最悪の業・生き方であったのです。その「エジプト落ち」の集団の中にエレミヤはいました。無理やり彼はその中に引き入れられ、連れ て行かれたのです。

 それほどに人は悪く、変われない。人間が変われないなら、どうするのか。神様は「契約違反だ、もうだめだ、契約は廃棄し、あなたがたをもう見捨てて、助 けないことにする」とは言われなかったのです。主なる神は、今預言者エレミヤに向かって、全く新しいこと、いまだかつて聞いたこともない言葉を与え、語ら せられます。「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエ ジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。」
「あなたがた人間が変われないなら、わたしの方が変わろう」と考え、語ってくださったのです。「新しい契約を立てよう、新しく約束を結ぼう、それによって 新しい関係、新しい時代を築こう」と言ってくださるのです。「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」
 私が昔名古屋にいた時に通った大学でお世話になった、磯部隆という先生が、「エレミヤの生涯」という小説の形で、エレミヤのメッセージと生涯を書いてお られます。磯部先生は、想像力を働かせて、この言葉を「エレミヤ最期の預言」として描かれます。エレミヤの弟子バルクの語りです。「あの日、私は賦役の仕 事を終えると、いつものように急いで戻りました。―――エレミヤは壁に背をもたせ、寝台の上に座して私を待っていました。―――私が両手を握ると初めて、 『バルク』と聞き取れぬ程の弱々しい声を出し、それからはもう声も出せぬ状態に陥ったのでございます。私は寝台に横たえてさしあげたのですが、エレミヤは わずかに首を振り、何かを語ろうとしました。私は唇の動きを読んで、『バルク、神の言葉が臨んだ』と声を出して言うと、エレミヤは瞼を一、二度開閉し、肯 定したのです。―――呼吸を乱しながら、エレミヤは唇をゆっくり動かします。『見よ、われイスラエルの家とユダの家とに・・・新しい契約を立てる日が来 る・・・と主は言われる』―――これがあの方の最期の預言でございます。―――神のこの契約は、エレミヤが神の愛を知っていたからこそ預言できたものでし たが、それと同時に、敢えて申せば、エレミヤがその神から勝ち取ったとも言えるものでございます。」(磯部隆『エレミヤの生涯』より)
 
 「新しい契約」とは、はたして何でしょうか。その「新しさ」、決定的・究極的な「新しさ」とは、いったい何なのでしょうか。「それらの日の後にわたしが イスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。」かつての「出エジプトの契約」は、「十 戒」の映画にも出てきたように、その約束・命令の言葉が、二枚の「石の板」に刻まれ、記されました。ところが、今度の新しい契約では、その神様の言葉は、 「石の板」ではなく、人々の「うちに置かれ」、その「心に記される」ことになるのです。
 これは、いったいどういう意味でしょうか。それは、単に「心の中」とか「内面」というようなことだけではありません。むしろそれは、神様の言葉、神様の 語りかけ、またそこに表わされている神様の心・思いが、人間の命そのもの、私たち一人一人の丸ごとの命そのものに刻み記され、ずっとそこに残り続け、留ま り続け、働き続けるということなのです。「ここで注目すべき『新しさ』は『心』に表わされています。『心』とは、心臓を意味する言葉であり、単に私たちの 内面のことではなく、まさに命そのものに刻まれる契約であることを意味しています。」(『聖書教育』、同上)
 なぜなら、こう語られているからです。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの神となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教え て、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。」それは、何か、 私たち人間の心が変わり、心がけが変わるというようなことではありません。もしそうであれば、私たちはいつか、近いうちに神の前に行き詰まってしまうで しょう。そうではなく、神様が、神様の方が、私たちとの関係を変えてくださる、私たちへの働きかけ方、その方法、その内容、その道を変えてくださるので す。それは、「主を知るようになる」ということです。「知る」とは、日本語の「知る」よりもはるかに深い言葉です。それはむしろ「愛する」ということで す。それは神様の方から「知って」「愛して」くださるのです。一方的に、そして圧倒的に、神様の方から私たちを愛し、知ってくださる。
 私は、イエス・キリストが話された、あの「放蕩息子」の話を思い出すのです。息子はもうあきらめています。なんとか常識の中で、父と話をしようとしてい ます。絶望的な計算も目論見もしています。しかしそれは、彼がずっとこれまで犯してきた罪、不幸、そして裏切りからしたら、どれほど力があるのでしょう か。しかし、今や、この息子のところに、父が、父の方から駆け寄ります。父の方から、彼を抱きしめ、彼を受け入れ、彼を赦し、彼を飾るのです。「いなく なっていたこの子が帰って来て、死んでいたこの子が生き返った」と。神の方から私たち、背いた者たち、裏切った者たち、神を知らないように無視していた者 たちに駆け寄り、大いなる赦しのうちに語りかけ、愛してくださるのです。この底知れない愛をもって、神は私たちの近く、ごく近くにまで来てくださり、共に いて、い続けてくださるのです。神が私たちを深く知ってくださる、そのときにはじめて、私たちもまた神を少しだけ「知る」「愛する」ことをし始めるので す。

 「新しい契約」、これが最も大切な言葉です。「新しい契約」、ここから「新約聖書」の信仰は始まりました。私たちキリスト者またその教会は、この「新し い契約」は、ほかならぬイエス・キリストによって表わされ、成し遂げられ、与えられたと信じ、生きるのです。イエスの到来とその生涯そのものが、この「新 しい契約」の始まりであり完成です。イエス・キリストご自身が、あの最後の晩餐で、「新しい契約」を語られました。「主イエスは、渡される夜、パンを取 り、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事のの ち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』。」(Tコ リント11・23〜25)神様の方から、私たちのところへと歩み寄り、駆け寄ってくださいました。神様のところからイエス・キリストが来て、私たちのただ 中にいてくださるのです。「からだと血」とをもって、それをすべて注ぎ、投げ出し、ささげて私たちを愛しつつ、主イエスは私たちのただ中に、私たちの極め て近くにいてくださるのです。
 しかもイエスは、私たちが今まで決して知らなかった「新しい人間」として、いてくださるのです。「神を知り、神を愛し、また神が創られた人を極みまで愛 して、そのために丸ごとの自分をささげて生きる人間」です。「神を愛して、神のためにすべてをささげる人間」として、イエスは生き、死に、そして復活して くださいました。このお方が、この私たち自身をも、私たちの教会、私たちの生活、私たちの人間関係をも、私たちのこの社会、この世界をも新しくしてくださ います。このお方が、私たちの心、命そのものに、神の愛を刻んで約束し、それを実現、完成へと至らせてくださるのです。「見よ、わたしがイスラエルの家と ユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死から起こし復活させられた神よ。
 あなたは預言者エレミヤを通して語られました。「見よ、わたしが新しい契約を立てる日が来る」。それは、到底変わることができない私たちとこの世界のた めです。そのためにこそ、イエス・キリストは到来し、あなたの方から私たちに走り寄り、私たちを抱きしめて、ご自身のもとへと回復してくださいました。
 どうか、私たちにもあなたを「知る」こと、あなたを愛することを与え、教え、日々にお導きください。このまことの知識によって、お互いを愛し、あなたの愛を分かち合い、それによってこの世にあなたを証しする一人一人また教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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