弱さと苦難によって働く力                   イザヤ書第53章1〜12節


 「神の良き力」、その6回目です。
 「神の良き力」と言いますが、「力」という言葉を聞くと、どういうことを思い、どんなことを想像するでしょうか。おそらく、私たちはたいてい、こんなこ とを考えることでしょう。「力」、「できる、能力がある、強い」。ところが、ここに語られたこの預言者のメッセージは、それを逆転し、ひっくり返して、私 たちの度肝を抜くのです。預言者は、ここで、一人の「神の僕」の姿とその生涯を描き、語ります。それは、いわば、神様がご自身のお姿をこの「僕」の中に映 し出して、示しておられるかのようなのです。それは、弱さと苦難の中にあり、その苦しみの中をずっと生きてきた人の姿です。
 それはまず、「生まれたときからずっと苦しみと弱さを負い続ける人」の姿です。「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。」 「ここでは、僕は『乾いた地に埋もれた根からはえ出た若枝のように育った』といわれています。十分な水分と栄養分を取らずに育つ若枝は、干からびて貧弱で 弱々しい姿をしています。この人はその様な弱さを持って育ちました。」(鳥井一夫氏)そのようにして成長した「しもべ」の姿と有様は、こうです。「彼には われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。」「主のしもべには、@『見とれるような姿がない』A『輝きがない』B『人が 慕うような見ばえがない』とあります。面影、風格、容姿においてまさに落第なのです。この世の価値観からすれば、評価すべきものが何一つ『ない』ので す。」(同上)さらにはこのしもべは、人々から軽蔑され、呪われ、見捨てられるのです。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また 顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」社会的に何一つ成功を収めることができず、人々の好意をも尊敬をも 受けることができず、むしろ否定と悪意と排除を被っただけなのです。
 そしてついには、その生涯の最後、死においても、それは実に悲惨で不名誉な死でありました。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかっ た。」「彼は暴虐な裁きによって取り去られた。」「彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪を なす者と共にあった。」彼を苦しめ傷つけ殺したのは、この世の不正と暴力でした。そして死後も、彼は「悪い者」として烙印を押され、おとしめられ続けるの です。この人の姿、その生涯の中に、いわば神ご自身が経験され味わわれた弱さと苦難とが映し出されているのです。

 このような一人の人の姿と生き方について聞いて、私たちが常識的に考えるのは、こういうことでしょう。「どうして、そんな人が、そんな弱さと苦しみを担 う人が、わたしを助けることができるだろうか。どうして、そんな人に、私たちを救う力があるだろうか。きっと、ありっこない。絶対にあるはずがない。」 「しかるに、われわれは思った、彼は撃たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。」
 しかし、預言者は告げるのです。「主の腕」は、神の力は、この人によって、この弱く、苦しむ人を通して現わされ、現れた。「しかし彼はわれわれのとがの ために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼は自ら懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされ たのだ。」この人の弱さと苦しみとによって、私たちは平安を与えられ、いやされるのだ。この人の苦難には、人をいやし救う力があるのだ。それどころか、こ の人の苦しみと弱さとには、それ以上の大きな力があるというのです。それは、後々までも、また遠くの地・国々までも、そして数え切れない多くの人にまで影 響を及ぼす、救いの力を持つのだ。「彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼 の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。」

 こうして、この預言者が描き出す「しもべ」の姿、それははっきり言ってしまえば、これこそ神によって約束された方、来たるべきメサイア、救い主の姿と道 なのだというのです。これを聞いたその当時の人々は、「えっ―? そんなばかな」と思ったに違いないのです。だから、「だれがわれわれの聞いたことを信じ 得たか」と言っています。これは、いったいどういうことなのでしょうか。いったいなぜ、このような弱さと苦難とを負う人、しかもそれらを徹底的に担い、負 う人に、そんな救う力があるというのでしょうか。
 この預言者の言葉を聞いた人々は、それでも、いろいろと考えました。「そうか、そんな人が来るのか、それはいったい誰なのだろう。」色々に考えられまし た。イスラエルそのものの苦難の運命だとか、この預言者あるいはその師匠であるとか。それぞれに、それなりにもっともで、理があります。けれども、「これ だ」とぴったり来る人はなかなか現れませんでした。
 そういう中で、あのナザレのイエスに出会い、イエスに従った人たちは、そのイエスの生涯、あのベツレヘムの飼葉桶から始まり、とりわけその最後に歩まれ たあの十字架の道を、復活の光の中で振り返ってみたときに、「これだ」と思ったのです。あの「苦難のしもべ」の姿が、イエスのお姿の中に次第に集中し、収 斂していくのをまさに見て、信じたのです。「これだ、このお方こそ、あのイザヤと呼ばれる預言者が語り告げた『苦難のしもべ』そのものであり、神が約束し 実現されたメサイア、救い主そのものなのだ。」

 ニコデモと共に、私たちもきっとこう言いたくなるだろうと思います。「どうしてそんなことがあり得ましょうか。」その答えを、預言者は神に導かれて解き 明かすのです。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕か れたのだと。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」それらの苦しみと辱めは、神の しもべ自らが自分の果たすべき使命、受け入れるべき道として受け取り、引き受け、担ったものだからだ。それは、これら預言者たちに当てはまりましたし、ま さにナザレのイエスに間違いなくぴたりと当てはまりました。イエスは、この罪と不正と暴力の世、この理不尽で不条理な世に自らやって来られて、自ら世の悪 と人の罪とをその生涯に引き受け、負い、担って行かれたからです。
 「私たちはすでに、神ののろいの世界、罪に満ちた世界のただ中に置かれているという点です。私が証券会社で働いて身にしみてわかったのは、どのような仕 事にも矛盾がつき物だということでした。私たちは悪の支配するこの世の組織の歯車のひとつとして組み込まれているかのようです。―――途方に暮れるほどに この世界は病んでおり、不条理がまかり通っています。しかし、イエスはその中にご自分から入ってこられました。私たちの主は問題を無くす代わりに、引き受 ける者となってくださいました。」(高橋秀典『今、ここに生きる預言書』より)

 それにしてもわからないのは、弱さと苦しみをあえて自分が引き受け担うということが、どうして救いの働きと力を持つのか、ということです。私は思い、ま た信じるのです。それは、「そこに共感と連帯が、愛があるからだ」ということです。どんなに力を持っていてそれで人を助けたとしても、それが「上から下 へ」という差別的な関係の中でなされるならば、それはまた新しい上下関係、支配関係を生み出すだけではないでしょうか。けれども主イエスは、「他者のため に自分のはらわたが傷つき、ちぎれる」というほどの「憐れみ」、共感、連帯の思いと生き方と道をもって、その生涯を人々と共に歩み、生き、そしてついにあ の十字架の苦難を引き受け、その道を歩み通されました。それは、神の御子が自ら進んで、愛のゆえに引き受けられた苦しみであり、私たちへの愛のゆえに担い 取られた人の罪とこの世の悪であったのです。だからこそ、それは救いの力を持つのです。私たちが、すべての苦しみと罪にもかかわらず神を求め、それらを乗 り越えて神を信じ、神と共に喜びと希望をもって生きることのできる救いと恵みへ、私たちの命と歩みを転換させる力を持つのです。
 ある人は、この経験を証しています。「ある時、本当に手痛い挫折を経験し、この山から転げ落ちました。もうこれより下はない谷底に落ちたのです。――― すると、その私がはいつくばっている地面の延長線上に、初めて目にするみすぼらしい十字架が突き刺さっています。さらに目を上げると、そこにはりつけにさ れた、弱り切ったイエスがいるではありませんか。そのイエスが、私に息も絶え絶えにこう言っている気がしました。『お前はひとりか?』『はい』『私もそう だ。弟子たちはみんな逃げていった。―――』『―――お前はさびしいか?』『はい』『私もそうだ。どうやら私たちは仲間だ。同だ、ここで、ひとまず私と一 緒に絶望しようじゃないか。』『・・・はい』 十字架は山の上にあったのではありませんでした。谷底にあったのです。神の存在など期待できないこの場所 で、私はひとりぼっちだと叫ぶこの地べたに、イエスが先に来て待っていてくれたのです。2000年前、十字架にかかって死ぬ間際に『わが神、わが神、なぜ わたしをお見捨てになったのですか』と叫んだイエスは、今も昔も谷底で、両手を広げて私たちを出迎える方でした。この谷底の十字架を見出した時、私は初め て『イエスに従おう』と素直に思えました。―――この谷底で出会ったからこそ、私はもう一度立ち上がる力と希望を与えられたのです。」(塩谷直也『視点を 変えて見てみれば 19歳からのキリスト教』より)

 私たちも、この「苦難のしもべ」ナザレのイエスに出会うとき、その飼葉桶から始まり十字架に至る生涯から発せられる光に照らされるとき、この神の力を知 るのです。弱さと苦難のただ中で働く、神の不思議な力を知るのです。そしてさらに、神が創り、導き、完成しようとされているこの世界の本質と目標を知らさ れるのです。それは、パウロが自分の重い病を通して悟らされた言葉でした。「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」(Uコリント12・9)
 イギリスにある、死を間近にした子どもたちのホスピス、マーティン・ハウスを巡っての対話です。「死んでいく子どもっていうのは最弱の存在でありなが ら、周りを変える力があるんです。真ん中にいる子どもたちに、みんなはやさしい視線を注いでいる。そして、みんな物静かで、多分ずっと考えているんです、 いろんなことを。そして、不思議なことに微笑みを絶やさない。―――子どもはみんなブライト(聡明)なんだ、と。そしてそのブライトネス(聡明さ)を周囲 が受け継いでいく。つまり、そこにいる人たちもブライトになっていく。たとえば、ユーモラスになったり、人の気持をいっそう思いやるようになったり。」 「一番弱い存在の子どもが、周囲をそういうふうに変えていくわけですね。」「死んでいく子どもの前では、大声でどなったり、自己中心的なことを言ったり、 聞きかじりのことをしゃべったり、くだらないうわさ話なんて、恥ずかしくてできないでしょう。―――そういう力がそこかしこにあり、元をたどればそれは、 子どもたちが発しているものだとわかる。そこに存在しているだけで強い影響力を発することができるんですね。だって寝たきりでしゃべれない子どもも多いん ですよ。にもかかわらず、ポジティブな力を親だけじゃなく、周りに及ぼしていく。すごいことですよね。」(高橋源一郎・辻信一『弱さの思想』より)
 私たちも、この「苦難のしもべ」ナザレのイエスに出会うとき、弱さと苦難のただ中で働くこの神の力を知るときに、私たちの物事や人への見方、考え方、そ して生き方、歩む道が変えられていくのではないでしょうか。そのような小さな、しかし確かな一歩が、今週も喜びと希望のうちに歩み出されることを、切にお 祈りいたします。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 預言者が告げた「苦難のしもべ」は、まさにナザレのイエス、その人でした。主イエスこそ、私たちのとがと罪とを引き受け、私たちの苦しみ、そして死まで も担って、十字架の道を歩まれました。この弱さと苦難の道こそ、私たちをいやし、救う力を持っています。どうかこのイエスとその道とを、信仰によって受け 入れ、それによって希望と愛とに生きて行けるよう、私たち一人一人と教会を助け、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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