解放の神、きりひらく神 出エジプト記第14章13〜29節
「神の良き力」、それは解放の力です。
主なる神、聖書の神、私たちの神とは、どういうお方なのでしょうか。聖書において、このことをはっきりと語り示す、二つの出来事があるというのです。
「聖書の物語には、神の正義を理解するうえで格別に重要な出来事が二つ出てきます。」(クリス・マーシャル『聖書の正義 イエスは何と対決したのか』よ
り)
一つは、私たちの信仰にとっては、言うまでもなく、イエス・キリストの到来、その生涯、とりわけ十字架と復活の出来事です。
もう一つ、それがこの「出エジプト」の出来事であるというのです。「一つは、奴隷であったヘブル人がエジプトから解放され、神の律法のもとで生きる契約
共同体が作られたことです。」(同上)奴隷として苦しめられ苦しんでいた人々イスラエルを、神はエジプトの支配と権力から解放し、救い、ご自分の民とされ
たのです。ここに、「神様」とはどいう方であるかが、如実に表されているのです。先取りして言えば、イエス・キリストは、この神の現われの「完成形」と言
うことができるでしょう。
では、この「出エジプト」において、ご自身を表わされた神とは、どのようなお方なのでしょうか。
主なる神は、こうしてイスラエルという民を選び、探し、見つけ、導いて、ここまで来られました。まず、このことそのものが、神というお方を示し、表わし
ています。神が目を留められるのは、「特別な人」です。それも、私たちが考え、期待するような「特別な人」ではなく、その正反対のような人々です。主なる
神は、「奴隷の民イスラエル」を選び、愛されたのです。神が目を留め、愛し、救おうとされるのは、抑圧され、差別され、搾取され、軽蔑され、苦しめられて
いる人であり、そのような人々です。「主は天と地と、海と、その中にあるあらゆるものを造り、とこしえに真実を守り、しえたげられる者のためにさばきをお
こない、飢えた者に食物を与えられる。主は捕われ人を解き放たれる。主は盲人の目を開かれる。主はかがむ者を立たせられる。主は正しいものを愛される。主
は寄留の他国人を守り、みなしごと、やもめとを愛される。」(詩篇146・6〜9)「義なる神が、助け主、救い主として身を向ける人々は、旧約聖書のすべ
ての個所において、苦しめられ抑圧されているイスラエルの人々である。イスラエル自身が、無力であり、権利を持たず敵の圧倒的な力に引き渡されている。そ
のイスラエルの中では、特に、貧しい者、寡婦、孤児、弱い者、権利のない者に神は身を向ける。神は、常に、無条件に、そして熱情的に、この者たちの側にの
み立つ。」(シャーリー・C・ガスリー『一冊でわかる教理』より)「彼らに罪がない」というのではありません。これまでも、これからも、イスラエルの民
は、指導者モーセに逆らい、神への不信仰に生きて行ってしまうのです。しかし、神は彼らのそうした罪を引き受け、担いつつ、彼らを愛し続けられるのです。
イエス・キリストは、このような人々に届き、彼らから始まる神の愛とその救いを、ご自身の身をもって、その全生涯をもって表し、行われました。主は「取税人と罪人の友」と言われ、軽蔑と辱めとを受けて行かれたのでした。
主なる神は、今イスラエルの民を、「葦の海」という海の岸辺へと導きます。そこへ、エジプトの王パロが軍隊を率いて、追いかけて来ました。それは、当時
の「世界最強の軍隊」です。この世のだれも、それにかなうことはありません。それに引き換え、イスラエルは全くの丸腰、全くの無力です。着の身着のまま出
て来たような人々、長い荒野の旅で疲れ切って、よれよれになってしまったような人々です。前は広い海、後ろは恐ろしい残忍な敵。彼らは完全にパニックに
陥ってしまいました。イスラエルは思わず、不信と反抗の言葉をモーセと神にぶつけ、叫びます。「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたした
ちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。―――荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、私たちには
よかったのです。」(14・11〜12)
この時、当の主なる神は、何をどうなさっていたのでしょうか。「このとき、イスラエルの部隊の前に行く神の使は移って彼らのうしろに行った。雲の柱も彼
らの前から移って彼らのうしろに立ち、エジプトびとの部隊とイスラエルびとの部隊との間にきた」。(14・19〜20)「神の使」や「雲の柱」という表現
は、神ご自身とその臨在を表します。だから、主なる神ご自身が、今までイスラエルの先頭に立って、彼らを守り導いて来られたのです。しかし神は、この危機
に当たり、あえて彼らの後ろ「しんがり」に回り、彼らを後ろから追いかけ、来たりくるエジプト軍との間に身を置いて、イスラエルを守ろうとなさるのです。
絶体絶命の危機、ここにおいても、神はイスラエルと共にあり、彼らを担い、守り、彼らのためにたたかおうとなさるのです。
主なる神は、モーセに命じて言われました。「イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分
け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。」(14・15)「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を
退かせ、海を陸地とされ、水は分れた。イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。」(21〜22)左近淑(き
よし)という旧約聖書学者の方は、このような神のお姿を「きりひらく神」と表現されたそうです。「聖書の神、キリスト教の神は、われらの救いのために、
何の取りえもない、何の力もない者のために、ひとり闘い抜く神であって、最大の危機を最大の救いに、事態を一変する=B左近牧師は―――日本人は〈時〉や
状況を存在するものが緩み流動していくことだと捉えていると、私たちが決定論・宿命論に支配されていることを語っています。この決定論・宿命論に立つと、
厳しい〈時〉や状況に直面した際に、人間は無気力になっていくというのです。『どうせだめだ、先は見えている』、こうした見方や考え方に深く支配されがち
だというのです。―――『しかし』と左近淑牧師は切り返しておいでです。これらに対して、聖書宗教、キリスト教の〈時〉や状況の理解は、…〈時〉はきり
ひらかれていく、と見ます。神が時間の中に働き、闘いとるというのは、神が今のこの絶望的な暗い時と見えるものを〈きりひらく〉ということです=B出エジ
プトの旅、荒野を40年(当時の人間の一生の長さに等しい期間)も彷徨い歩く中で、人々は何度も苦境に立たされました。それでもこの旅を最後まで貫徹でき
たのは、絶望的な暗い時を、神が何度もきりひらいて、新しい状況、希望へと人々を導いてくださった故ではないでしょうか。神は、私たちの生きている現実に
確実に働きかけられ、力強く闘われて、私たちのために新たな道をきりひらいてくださるのだというのです。」(日本キリスト教団早稲田教会ホームページ、古
賀博牧師メッセージより)
「時をきりひらく神」、それは、あのイエス・キリストの十字架と復活の出来事において、余すところなく完全に、決定的に表されました。罪人である私たち
人間が神の御子イエスを十字架につけ、殺した、それはこの世の罪がどん底を極め、この世の闇がもう何も見えないほどに深まり沈み込んだ時ではなかったで
しょうか。イエスはそのまま死に、もう何の救いも希望も無くなったかのように見えました。しかし、「神は時と道をきりひらかれた」のです。神は、人の罪の
ゆえに殺されて死んだイエスを、死の中から起こし、引き上げ、神の力と勝利とをもって復活させられたのです。
この神が、イスラエルをエジプトの奴隷から救い、解放されます。主なる神、イエス・キリストの神は、「解放の神」なのです。神は、悪を裁き、倒されま
す。「そのとき主はモーセに言われた、『あなたの手を海の上にさし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい』。モーセが手を
海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに帰り、エジプトびとはこれに向かって逃げたが、主はエジプトびとを海の中に投げ込まれた。水は流
れ返り、イラスエルのあとを追って海にはいった戦車と騎兵及びパロのすべての軍勢をおおい、一人も残らなかった。」(14・26〜28)私たちは、イエ
ス・キリストにおいて、神は「悪人」は愛し続けておられると信じることができますが、神は「悪」とその支配に対しては、これを裁き、されを打ち砕き、倒れ
させられるのです。
その上で主なる神は、イスラエルの人々を自由な民、神と共に神に従い神によって生きる自由の民として作り、そのようになさるのです。こうして、神と人と
の関係、人と人との関係が、イスラエルの民の中で回復され、またやがてはすべての人の中で回復されるであろうことを語り、示されるのです。この「出エジプ
ト」の出来事は、後にパウロによって、イエス・キリストを信じて私たちが受けるバプテスマの出来事に比べられ、たとえられています。「わたしたちの先祖は
みな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。
すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。」(Tコリント10・1〜4)イスラエルが神によって解放さ
れ、自由な神の民とされたように、私たちもイエス・キリストを信じて、神との関係、人との関係を正しく回復され祝福されて、新しい人とされ、新しい生き
方・道へと歩み出させられるのです。
「神の良き力」、それは解放の力であり、時と道をきりひらく力です。私たちもまた、この「良き力」によって囲まれ、導かれ、用いられるのです。
最後に、今も苦難の中にある香港のキリスト者による、一つの祈りの言葉をご紹介して終わりたいと思います。「主なる神よ、悲しみ嘆く私たちの声に耳を傾
けてください。私たちは、香港人が大切にしてきた価値観が蝕まれ続けているのを目の当たりにし、さらには『一国二制度』が変質しつつあることを憂慮してい
ます。ある学者は香港人の鬱々とした悲観的な感情を『憂鬱と絶望の極み』と表現していますが、実に多くの香港人が、すでに敗北感や無力感などの悲観的な集
団心理に困惑させられ、将来に対して希望を抱くことができなくなっています。―――苦難によって命や生活に対して無感覚・無関心・冷笑的になり、そして諦
めや絶望に陥ってしまいます。―――主イエスよ、私たちはあなたの十字架と復活の出来事を忘れることはありません。たとえ暗闇が依然として支配しており、
私たちが将来を悲観したり絶望したりしたとしても、あなたの十字架と復活は、苦しみを担われた主であるあなたが復活の命によって私たちを生かし、私たちを
絶望させることがないことを思い起こさせます。―――主よ―――目に見えないものを待ち望めるようにしてください。それこそが、目の前の悲観的な現実に左
右されることのない真の希望であり、また個人的な願望の成就ではなく、主であるあなたのあらゆる可能性に対して開かれている希望です。信仰の創始者であり
完成者である全能の主よ、現実において『不可能』と思える状況の中においても、私たちは深い忍耐をもって、あなたが与えてくださる『全く新しい可能性』を
待ち望みます。私たちの忍耐と希望は、『最初のものは過ぎ去った・・・見よ、わたしは万物を新しくする』という、終末におけるあなたの約束に基づいている
からです。勝利の主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。」(松谷曄介編訳『香港の民主化運動と信教の自由』より)
(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死と罪への勝利をもって復活させられた神よ。
あなたは貧しく弱い民、苦しめられている民イスラエルを、エジプトの支配と権力から解放し、自由な神の民とされました。「解放の神、きりひらく神」、それがあなたであられ、あなたはイエス・キリストによって私たちをも解放し、ご自身のもとへと導いてくださいました。
どうかあなたと共に歩み生きる信仰を、もう一度新しいものとしてください。また、あなたによって生かされた者たちとして、私たち一人一人また教会が、お
互い同士共に生きることを学び、また歩むことができますよう、お助けください。またあなたが出会わせてくださる一人一人を愛し、共に生きる力をも、豊かに
お与えください。
まことの道、道また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。