どこまでも共に行く神と共に                   出エジプト記第3章7〜15節


 「神の良き力」、その3回目です。「神の良き力」、それは愛をもって共に生き、共に歩み行く力なのです。
 一つの弱く、貧しく、苦しむ民、人々がありました。その名はイスラエル。「苦しむ」は、もっと正確に言えば「苦しめられている」人々なのです。イスラエ ル、この民が、奴隷の苦しみと辱めをエジプトでなめ、味わっています。異国の地エジプトで奴隷とされて自由と尊厳を奪われ、苦しめられ、痛めつけられ、傷 ついていました。そのゆえに、うめき、泣き、叫んでいるのです。
 この民を助けようとした人がいました。今日の一人の主人公、モーセです。しかし、彼はかつてそれに失敗し、挫折しました。彼は若い頃、イスラエルの民を 助けようとして、エジプト人を殺し、イスラエルの人々からも支持されず、ミデアンの地に逃亡して来ていたのです。その地に来てもう50年余りの長い歳月が 過ぎました。彼にはもう、イスラエルに対する関心も、まして愛情や熱心など、一つも残ってはいませんでした。
 しかし、このイスラエルの民を助けようとする神がおられました。人は忘れ、捨てても、神は忘れず、捨てておられませんでした。この神が、そんなモーセに 今呼びかけ、語りかけられます。「モーセよ、モーセよ」。「主はまた言われた、『私は、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者の ゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている』。」それは極めて共感的・連帯的な神の姿です。「わたしは彼らの悩みをつぶさに見、その 叫びを聞いた。わたしはかれらの苦しみを知っている。」神様は、いわば「五感をフルに活用して」、全身全霊で、苦しみ悩み、悲しみうめき叫ぶ者の声を、聞 き、聞き取り、感じ、感じ取り、そしてその心に共感して、自分の身をもって味わい知り、さらには自分自身も泣き、震え、うめき、叫んでおられるのです。
 またそれは、驚くべき能動的・行動的な神の姿です。「わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、 乳と蜜の流れる地ーーーに至らせようとしている。ーーーさあ、わたしは、あなたをパロ(エジプト王)につかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプ トから導き出させよう』。」神は、この苦しむイスラエルを救おうとなさいます。神は、同じように、今も苦しむ者たち、悲しみ嘆く人々、また自分の罪・人間 の罪やこの世の悪・不正によって苦しめられ、生きる力と道を失っている者たちを救おうとなさいます。神は、そのための力を持っておられるのです。「神の良 き力」があるのです。「神の良き力」、それが今も働くのです。

 「神の良き力」、それはいったいどんな力なのでしょうか。この力は、モーセに対して示され語られた神様のお名前において表わされており、わかります。 モーセはこの重大な使命を与えられて、恐れおののきました。それで神に求めました。「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先 祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、何と答えましょう か』。」「名は体を表わす」と言うように、古代の人々は「名前」はそのものの本質・実体を表わし示すと考えていました。このモーセの切なる求めに、神様は 気前よく答えてくださいました。そうして、ご自身がどのような神であり、どのような方なのかということを明らかに開き示してくださったのです。「神はモー セに言われた、『わたしは、有って有る者』。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたの ところへつかわされました』と。」
 「わたしはある」、この神の御名の中に、「神の良き力」が表されています。それは、「存在の力」です。「わたしはある」、それは何よりまず「絶対に確か な存在」を表します。「わたしはある」、神様こそは自信をもって、確信をもって、常に、いつまでも断言することのおできになる方です。私たちは違います。 「私はこの朝ある、生きている。しかし、明日、いや今晩、私はあるだろうか」、そのことを確信をもっては決して言うことのできない、許されない者なので す。「あるだろう、あると思う、あるんじゃないか、あるといいな」。しかし、神、この方こそは確かにおられます。「わたしはある」。神、この方こそ確かに おられ、何ものよりも確実に、強く生きておられるのです。なぜなら、このお方こそ、ただ一人、すべてのもの、全宇宙、私たちを作った方であり、すべての根 源なるお方だからです。人間の権力(パロも!)、この世的・人間的な様々な力(経済力、政治力、情報力、軍事力)、自然の力、死の力など、どんなに強くあ るように見えるものも、この方にはかないません。この方は、何ものにも打ち勝つ、その存在の力によって言われるのです。「わたしはある。」

 「わたしはある」、その御名に表された「神の良き力」、それはまた「愛の力、共に生き、共に歩む力」です。「わたしはある」、この名はまた「わたしはあ ろうとする」とも取ることができます。「意志を伴う未来」なのです。神様はただなんとなくおられるのではありません。目的と意志をもっていようとなさるの です。「わたしはあろうとする」、どうあろうとなさるのでしょうか。神はモーセに言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる」。神は、このモーセと共 に、罪と挫折により失望し、沈み込んでいるこのモーセと共にいるために、彼をこそ用いてイスラエルを救うという恵みの業をなさるために、存在しようとなさ るのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」、神はまたイスラエルと共に、エジプトで痛めつけられ、苦しめられ、うめき、泣き、叫んでいるあのイスラエル と共にいるために存在しようとなさるのです。なぜでしょうか。「愛している」からです。彼らを心から愛しておられるからこそ、何ものも覆せない意志をもっ て神はおっしゃるのです。「わたしはあなたと共にあろうとする、わたしはあなたを愛し、どこまでも共におり、最後まで共に行こうとする」。

 「わたしはある」、この御名に示された「神の良き力」、それはさらに「自由と真実の力、驚くべき自由によって行動し、それによって愛を真実に貫く力」で す。「わたしはある」、この御名はまた「わたしはなろうとする」と取ることもできます。ヘブライ語で「ある」と「なる」とは同じ言葉です。「わたしはなろ うとする」、神はイスラエルを愛される、愛するがゆえに、ただ「共にいる」のではない。「わたしはなろうとする」、神はモーセのために、イスラエルのため に、「何にでもなろう、何でもしよう、どういう者にでもなろう」とされるのです。神はイスラエルのために言われました。「わたしは、エジプトにいるわたし の民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手か ら救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地―――に至らせようとしている。」。神は、「愛して、共にいよう」とする者のため に、「見る」ことができるのです。それ以外に、ここには、神の行為・行動を表す動詞が何と多く出てくることでしょうか。「聞く」、「知る」、「降って行 く」、「救い出す」、「導き上る」!
 聖書の神は、愛する者のために「何にでもなろう」となさる神です。 そうです。神は、罪人である私たち人間を救うため、ついに私たちと同じ人間となって しまわれました。それが、「ナザレのイエス」です。また、神は「何でもしよう」という神なのです。主イエスは、私たちのため、あの十字架の道を歩まれ、つ いに、罪のない方が「犯罪人」となって、私たちが受けるべき裁きと呪いを受けられたのです。しかし、神は最後に宣言なさいました。「私はある。」神は、死 の力・罪の力よりも強かった。イエスは復活し、勝利されました。

 「わたしはある」、そう語りかけ、そう宣言される方の力、「神の良き力」がイスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出しました。そして今も、「神の良き 力」、それが私たちを取り囲み、私たちをも助け、導くのです。私たちもまたこの神によって動かされ、力づけられ、用いられるのです。「さあ、わたしは、あ なたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう。」その時、モーセも、そして私たちも、この神により、少しだけ神様 に似た者とされるのです。
 私たちも信仰によって言います。「私は、主にあって、あることが許される」。この神が共にいて、私を生かし、守ってくださるがゆえに、わたしはパロの権 力も、エジプトの病も災いも、死の力さえも恐れないで、「ある」ことが許される。神が望み、許される限り、私は生き、私はある。
 また「私も、主にあって、共にあろうとする」。この神が私と共にあり、私を愛してくださるがゆえに、私も神が出会わせてくださる人々と共に生きよう、互 いに愛し合おうと願い、努力し、それを祈り求めて生きることができる。モーセは、この後、頑固で不従順なイスラエルの民と、荒野の道を最後まで共に行った のです。
 そして、「私も、主にあって、なろうとする」。モーセは、この神に従って、思いもかけない者になり、何でもすることになりました。いやなエジプトに行 き、パロに語り、預言者となり、奇跡を行い、民の牧者となり指導者となりました。イエス・キリストの使徒パウロは、「福音のために、あらゆる者となろうと し、なった」と語りました。私たちも、この神に招かれ呼びかけられるゆえに、思いもかけないことをし、予想もしなかった者となることが求められ、導かれ、 そしてそうする力が与えられていくことでしょう。

 数年前にアフガニスタンで使命の途上で召された中村哲さんを覚えておられるでしょう。彼はキリスト教の信仰を持ち、私たちの日本バプテスト連盟の教会で バプテスマを受けられました。中村さんは、もともと医師であり、医療の奉仕をするために、多くの戦争や内乱また自然災害そして社会的な不公正や貧困によっ て傷つき傷んでいるアフガニスタンという国を訪れたのでした。そうしてアフガニスタンで医療活動に携わっていたわけですが、そのうちに「医療の限界」を感 じ取るようになります。「2000年から始まったアフガニスタンの大干ばつは、凄まじいものでした。ーーー大干ばつの後、我々の診療所にやってくる患者 は、子どもたちがほんとうに多かった。その背景には、栄養失調と水不足があるんです。それが、子どもたちを直撃したんですよ。水不足で農業ができなくな り、村そのものが消えてしまったところも珍しくない。」
 そこで、中村さんと仲間たちは、「今は医療よりも、まず水ではないか」と思うようになります。そこで、「井戸を掘る」という事業に乗り出します。「井戸 掘りを始めたのが、2000年の7月でした。それは、すでに1670本になりました。そのおかげで、40万人以上が村を離れずにすんだんです。ーーー水が なければ農業が続けられない。日々の糧を得ることができないんですから、生きて行きようがない。それに、きれいな水がなければ、伝染病などが蔓延するのを 防ぐことだってできない。だから、我々の現在の仕事は、用水路の建設と医療の2本立てなんです。」そしてその後、中村さんは「医者」ではあるのですが、そ れと共に「土木技師」というような仕事・生活を送られることになるのです。(以上「マガジン9」ホームページ、「この人に聞きたい 中村哲さんに聞いた  アフガニスタンという国で、9条をバックボーンに活動を続けてきた」より)「私も主にあって共にあろうとする、私も主にあって何にでもなろうとする」、こ の主なる神の存在の力が、中村哲さんを突き動かしていったのです。
 「神の良き力」、この力によって私たちは囲まれているのです。「わたしはある」と語られるこのお方が、今週も、そしてどこまでも私たちと共にあり、私たちを導き、用いてくださるのです。この共にある神と共に、私たちも共に歩んでまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての神、御子イエスを死の中から起こし、勝利をもって復活させられた神よ。
 「わたしはある」、あなたはモーセに言われました。存在の力、共に生きる力、自由をもって愛し行動する力をもって、あなたはイスラエルを救われました。 「神の良き力」、この力によって私たちもまた囲まれています。それゆえに、私たちもまた、あなたと共に、あなたによって出会ったすべての人と共に生きて行 くことができますよう、私たち一人一人と教会を支え、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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