「あなたは祝福となれ」                      創世記第12章1〜9節


 シリーズ「神の良き力」、その2回目です。
 「神の良き力」とは何でしょうか。それは、どんな力なのでしょうか。「神の良き力」、それは「祝福の力」です。神の祝福、その目指すところは大きく、広 いのです。3節に、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」とあります。そうです。神の祝福は、「地のすべてのやから」を目指すのです。「地 のすべてのやから」、それは本当に「すべての」人々です。全世界の人々、この世に生きるすべての人です。全ての時代、すべての場所、すべての状況に生きる すべての人です。あなたもわたしも、そこに含み込まれています。「地のすべてのやから」が神様によって祝福される、よしとされ、愛され、生かされる、これ が私たち一人一人に与えられた約束であり、目標であり、神によって導かれる道なのです。

 なぜなら、この世界がぜひとも祝福を必要としているからです。世界は、神の祝福をどうしても必要としている、このことを、創世記はここまでの章でずっと語ってきたのです。
 「はじめに神は天と地とを創造された」。「神は自分のかたちに人を創造された」。「主なる神は土のちりで人を創り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そ こで人は生きた者となった」。こうして、私たち人間と、創造主なる神様との歴史、その共なる道が始まりました。けれどもその道は、悲劇的な歩みをたどりま した。聖書によれば、最初の人間アダムとエバは神の命令に背いて「善悪を知る木」の実を食べて、神に頼らず、自分の力で善悪を判断し、それによって生きて いこうとしました。それは、「よし」とされていた世界の真ん中に割れ目が生じた出来事でした。そこから、神がとどめてくださったはずの「混沌」の力が息を 吹き返し、入り込んで来たのです。
 それは、人間には「呪い」の力となって、神との関係、人と人との関係を引き裂き、破壊していきました。「祝福」「よし」の反対は何でしょうか。「だめ」 ですね。「呪い」の力は、「だめ」と言う力です。「だめだ、だめだ、もうだめだ」、私たちは、世の中で起こる甚だしい出来事、個人的な様々な出来事に遭っ て、そう言います、「だめだ、だめだ、もうだめだ」。また、私たちは人に対して「だめ」と言い、また私たち自身が人から「あなたはだめだ」と言われていま す。「死ね」とか「いないほうがいい」とか、言い合っています。
 アダム以後の世代の中で、次々と悲惨な事件、残念な出来事が相次いで起こっていきます。アダムの息子カインは兄弟アベルを、嫉妬と憎しみによって殺しま した。レメクという人が現れて、独裁と復讐による政治を行いました。ノアの時代の大洪水によって、世界が一時滅んだほどになりました。そこから一旦回復し たものの、バベルの塔工事の中で起こった大混乱により、再び人類は分裂と争いの道へと踏み込んでいってしまいました。何か神話的お話のように思うかもしれ ませんが、実は聖書・創世記はまさに「私たちの今」を描いていることに気づかれされます。ここに起こっていることは、まさに私たちの間で、そのただ中で起 こっていることに他ならないのです。

 神の祝福は、この「呪われた世界」のいやしと回復と再興を目指すのです。神様は、そのために、意外で不思議な一つのことから始められました。それは、 「選び」です。一人の人を選ぶのです。全世界が問題なのに、どうして「一人の人」なのか。ずいぶんと遠回りのような方法ではないか。でも、これこそが神様 の方法であり、神様の道なのです。
 しかも、神が選んだのは、実に意外な人でした。その人の名はアブラハム、神様から呼ばれた時の名はアブラム、当時75歳にもなっていました。それに彼と その妻サラには、ずっと子どもがなく、その頃の価値観の中では「もう自分たちには将来がない」と思われているような状態でした。「混沌」と「闇」が支配す るような世界の中で、自分たちにも「将来はない」と希望をなくしていた人が、神様から呼びかけられたのです。
 「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あな たを祝福し、あなたの名を大きくしよう』。」神は、アブラハムに向かって「あなたを祝福する」と言われました。「祝福する」とは「よしとする」ことです。 「よしとする」、「よし」と言う、「あなたは良いんだ」「あなたは大丈夫なのだ」と神様はアブラムに言ってくださいます。
 それは、この「呪われた世界」のただ中において、ということです。神は、今アブラムに向かってこう言われるのです。「わたしはあなたをよしとする。過去 に何が起こったとしても、今何が起こっているとしても、これから何が起こるにしても、わたしはあなたとよしと言う。あなたがどんな者であろうとも、どんな にひどく頑なで不真実で不信心な者であろうとも、そのあなたに向かってよしと言う。この『だめだ、だめだ、もうだめだ』という言葉と行動と出来事に満ちて いるこの世界のただ中で、わたしはあなたによしと言う。それらの『呪い』の力に逆らって、その力とたたかいながら、その力に打ち勝ちつつ、わたしはあなた によしと言う。そして実際にあなたをよしとし、助け、『生きよ』と言い、あなたを生かす。」

 それだけではありません。神は、アブラハムに向かって、さらにこう言われたのです。「あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う。」
 「あなたは祝福の基となるであろう」。神様はアブラハムに「あなたを祝福する」と言われただけではありません。それ以上のこと、とんでもないほどのこと を言われたのです。「あなたは祝福の基となるであろう」。これはもっと短くずばりと言うことができます。「あなたは祝福となれ。」「あなたは祝福にな れ」、「祝福の何か」になれというのではないのです。「あなたは祝福となれ」、「わたしの祝福そのものとなれ」、祝福そのものとなって、そこで生き、そこ を歩め。アブラハムが生きるところで、人々は神様の祝福を聞き、信じ、そして受け取ることができるのです。アブラハムがいるところに、まさに神様の祝福が あるのです。神は、アブラハムによってこの道を始められ、ついに神の御子、救い主イエス・キリストによってこの働きと道を完成されました。「キリストは、 わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出してくださった。―――それはアブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストに あって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」(ガラテヤ3・13〜14)

 こうしてアブラハムに与えられ託された「神の祝福の力」、この世の呪いに立ち向かいながら「よしとする力」、それはいったいどんな力なのでしょうか。
 「神の祝福の力」、それはまず「生かし、支え、導く力」です。ここから新しく始まるアブラハムの生涯、そのすべてにこの神様が共におられ、彼の命と生活 を支え、導いて行かれます。そもそもこの世、罪の世で生きること、「呪いの世界」で生きて行くことそのものが大変なのです。その上に、その生の歩みには、 絶えず困難や苦難、試錬が襲ってきます。しかし神は、アブラハムに、また彼が出会うすべての人々に、この祝福の力をもって共におられ、必要なすべての助け を与え、知恵と力と愛をもっと導いて行かれるのです。
 「神の祝福の力」、それはまた「罪を赦し、立ち直らせ、再出発させる力」です。こうして神に選ばれ、神の呼ばれ、神の使命を与えられたアブラハムという 人は、決して、全く「完璧な人」ではありません。彼は、欠点も弱さも罪も持っている、ただの人に過ぎません。これから聖書は、アブラハムの多くの過ち、失 敗、罪を語って行くことになるでしょう。にもかかわらず神は、その度に彼に赦しの機会と導きを与え、その失敗を乗り越えて立ち上がらせ、もう一度この神の 祝福に従って生きるようにと促し、再出発をさせるのです。これが、「神の祝福の力」のもう一つの働きなのです。
 「神の祝福の力」、さらにそれは「出て行かせる力、新しい生き方を選ばせる力」です。そもそもアブラハムは、この祝福の道へと歩み出すために、「出て行 く」ということをしなければなりませんでした。「あなたは祝福となれ」。この神の約束と招きに答えるために、アブラハムは離れ、別れ、出て行かなければな りません。「主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい』。」今まで慣れ住んだ場所、家族、人 々との関係、社会の慣習・束縛、そういうものを断ち切って、それらに別れを告げて、全く新しい、何の「保証」もないかに見える道へと歩み出すのです。それ のためには、とてつもない力、エネルギーを必要とします。またその道で、アブラハムは全く新しい生き方をして行くのです。「あなたは、今までとは違い、世 の中の常識や決まりとは違う、神を信じ神に従う新しい生き方を選び、新しい道を行きなさい」。それはまた、「ちょっと変わってるね、いや、ずいぶん変わっ てるね」と言われるような生き方を選ぶことでもあるのです。それは、とても大変なことであり、道です。しかし、「神の祝福の力」は、アブラハムにそれを選 ばせ、この道を行かせるのです。

 北海道浦河地方にある、精神障がい者の人々が集い生きる場である「べてるの家」、この「家」と共に歩んで来た浦河教会の出発もまた、多難に満ちた、将来 も希望も感じ取れないものでした。「浦河町のある日高地方は、東京都の二・二倍の広さを持ちながら、管内人口は約八万人足らずという過疎地域である。当時 は、道内で空港から最も遠く、失業率、生活保護受給率、そして精神病有病率が際立って高い地域だった。―――特にアルコール依存症の背後には、アイヌ民族 出身者への差別問題があった。―――しかも、浦河は、戦前の強制徴用で来道して十勝で強制労働に従事させられた朝鮮人が、戦後、日高山脈を越え、麓のコタ ン(アイヌ語で集落の意)にかくまわれ、家族を形成してきたという歴史を持っている。そして、二重の差別をかかえながら生きることを余儀なくされてきた。 そのような町の一角に、浦河教会はあった。―――浦河教会は、地域の中で、もっと弱く、小さく、遠ざけられ、生きることに困難を強いられていた人たちと出 会うなかで、共に悩み、共に孤立し、共に困難を強いられる歩みをたどることになった。」
 しかし、そんな「べてるの家」と浦河教会が、疲弊し傷ついた地域社会を癒し、助ける「祝福の基」として導かれ、用いられていくのです。「町の片隅にあ る、牧師のいない教会堂に集う精神障害をかかえた当事者の『社会復帰から社会進出へ』をキャッチフレーズにはじまった活動は、長い歳月を経て『べてるの 家』の歩みとして結実し、今、静かに地域社会にあるひとつの存在感を持ちはじめている。誤解や偏見の中身もだいぶ変わってきた。『精神障害者は恐ろしい』 『べてるは得たいの知れないところ』という“誤解と偏見”がいつしか、相変わらずの金欠にもかかわらず、『べてるの家はだいぶお金を持っているらしい』と か『次にあのビルを買収するらしい』というように変わってきた。そして『昆布も売ります。病気も売ります』というキャッチフレーズにあるように、べてる流 の生き方、ビジネスの仕方が、本やビデオとなって発売されている。―――さらにそれらが―――『べてるの家』から全国各地に流通する時代が来るなどとは、 だれも想像もしなかったことである。―――この二十八年を貫いてきた思いはただひとつ、『障害をかかえる当事者の体験のなかには地域社会が学ぶべき有用な 生活情報、地域の再生に向けた知恵が集積されている』という実感であった。―――障害を体験した市民の経験を通じて、地域社会を変革していくことができ る。」(向谷地生良『「べてるの家」から吹く風』より)
 「あなたは祝福となれ」、「神の祝福として生きよ」、私たちもまたこの「良き力によって囲まれ」ているのです。この約束と使命が、イエス・キリストにあって、私たち一人一人とその教会にも、確かに、ただ恵みによって与えられているのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死者の中から起こし、復活させられた神よ。
 「あなたは祝福となれ」、そう語りかけて、あなたはアブラハムを呼び出されました。あなたの祝福の力は、イエス・キリストによって私たちにまで及び、私 たちをも囲んでいます。どうか、私たち一人一人また教会も、この「良き力に囲まれ」つつ、あなたの呼びかけと使命に答えて、この祝福と恵みのゆえに、新し い生き方と道へと、小さくともその一歩を踏み出して行くことができますよう助け、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る