神の良き力、「あれ」と語る力    
                 
創世記第1章1〜8節、1章26節〜第2章4節前半


 今年度の私たち四日市教会の年間主題は、「よき力に囲まれ、来るべき日を待とう」です。この主題について、これから、共に聖書から学 んでまいりましょう。そのシリーズの一つ目です。「よき力に囲まれ」と言いますが、その「よき力」とは何でしょうか。それは、だれの力でしょうか。それは 「神の力」です。神様のこの上なく善き力によって、私たちは囲まれている、それは「福音」、良き知らせです。
 そこで、今日からしばらく、この「神の善き力」をテーマとして、ご一緒に聖書から御言葉を聴いて行きましょう。今日は、その第1回です。「神の善き 力」、それは「創造の力」、この世にあるものすべてを創造する力、存在するすべてのものを創り出し、存在させる力、私たちに向かって「あれ」と語る力なの です。

 私たち人間にとって、「存在」が問題になる時があります。難しいことのようですが、そうではありません。実に明確で切実な問題です。「私はなぜここにい るのか。わたしはどこから来たのか。またどこへ行くのか。わたしの人生の意味は何か」。「このような問いは、危機に陥ったとき、わたしたちをとりわけ苦し めるものである。―――またときには、このような問いは、決まりきった日常の生活を繰り返す中で、予期しない形で、ふと心の中に湧き起こってくることもあ る。―――わたしたちには、幸福なときと落胆のとき、挫折のときと成功のとき―――が交互に訪れる。しかしときに、あの問いがやって来て、眠れない夜を過 ごすのである。」(ガスリー『一冊でわかる教理』より)この「問い」が問われなければならないのは、とりわけ危機の時です。、「人間」として存在し「人 間」として生きるということは、決して当たり前ではないからです。今日、人間が「人間」として扱われていない現実があるからです。人間が自分存在の意味と 価値を感じ取れない現実があるからです。「人間」として生きることが苦しい、「生きづらい」という現実があるからです。「私たちはすでに、生存の権利すら 奪われている。―――人間の命よりも経済が優先される社会のなかで。」「だからこそ、私のもとには中高生からも悲鳴のような声がよせられる。『どうしてか わからないけど生きづらくて仕方ない』『こんな世の中で生きていたくない』。」「そしていま、生きることそのものが、現実的に脅かされている。過労死も過 労自殺も、失業や就職のプレッシャーによる心の病からの自殺も、そして私の周りに多くいる、生きづらさから自らの命を絶ってしまった人々も、こんな狂った 社会の犠牲者であることは明白だ。」(以上、雨宮処凛『生きさせろ! 難民化する若者たち』より)

 イスラエルの民も、そんな危機を経験しました。バビロン捕囚という出来事です。今から二千六百年前、かれらは自分たちの国が外国バビロニアの侵略によっ て滅び、多くの人々は故郷から、家族や愛する人々から断ち切られ、遠い異国の都バビロンに連れて行かれました。それは「混沌」「闇」が支配し、猛威を振る い、あらゆる涙と苦しみ、罪と悪の根源であるような状態です。また、人と人との関係はずたずたになり、人間としての誇りも希望も地に投げ捨てられたように なり、神への信仰すら失ってしまう人々が生まれました。
 しかし今、神はその「混沌」と「闇」に向かって言葉を発せられます。「神は『光あれ』と言われた。」「光」は、あの「闇」を制限し、退け、打ち負かし、 克服する力をもつものです。神はその「光」があれとおっしゃることで、御自身があの「闇」に立ち向かい、「闇」に勝利し、「闇」を克服なさろうとするので す。「光あれ」、神は同時に私たち命を持つものに向かっては「あれ、そして生きよ」と語ってくださいました。「光」は、私たちにとって生きる力、生きる喜 び、生きる希望を表すのです。
 「神の創造の力」とは、「あれ」と語り、その相手のものを全く新しく存在させるようにする力です。「光あれ」、「すると光があった」。神が御言葉を発せ られると、そのように、その通りになるのです。神は光を創り、光をもって「混沌」と「闇」を制限し、それに勝利し、それを克服されたのです。神の言葉は力 ある言葉であり、出来事を起こし、救いを成し遂げていく言葉なのです。それはやがて御子イエス・キリストを世に送り出し、私たちの救いのために十字架の道 をも歩ませ、そして死の中から復活させる言葉となるのです。

 「神はその光を見て、良しとされた。」神は存在することとなった「光」に向かって「よし」「これは良い」と語られました。神様は、この後天地の中に生き るすべてのものを、同じように御言葉をもって創造し、存在させられます。そして、そのようにして存在させられたすべてのものに向かって、「よし」と語って くださったのです。「よし」、それは愛の言葉であり、生かす言葉であり、祝福の言葉です。「神の善き力」「神の創造の力」とは、「よし」とし、愛する力な のです。神は創られたものたちに向かって、初めに「よし」と語り、それから後もずっと「よし」と語り続けていてくださるのです。まさに、「君は愛されるた めに生まれた」のです。「愛されるために創られ、愛されるためにここにいる」のです。
 とりわけ私たち人間は、この神様から特別に愛されています。それは、私たちが「神のかたち」として創られたからです。あのバビロン捕囚の中で、イスラエ ルの人々は、まったく「人間」扱いをされていませんでした。バビロンにおいては、王様こそが「神のかたち」とされていました。それに倣う形で、バビロン人 が「神のかたち」のおこぼれをもらい、イスラエルの人々は人間として扱われない「奴隷」としての毎日を送らなければなりませんでした。しかし、今神は言わ れるのです。「『われわれのかたちに、われわれにかたどって、人を造り―――』神は自分のかたちに人を創造された。」すべての人がそうなのです。すべての 人が、何の例外もなく、一切のどんな条件もなく、「神のかたち」に創られたのです。何かを持っていなければ、何かができなければ、何か業績をあげればとい うことでは、決してないのです。どの人、どのような人であっても、神によって、生まれながらにして「神のかたち」に創られているのです。人間は、人間とし てあることだけで、もうそれだけで、「神のかたち」としての意味と価値と大切さを与えられて、持っているのです。その意味で、私たちは、神様からそれぞれ がそのままに「よし」とされ、神様から特別の愛をいただいて生かされている存在なのです。

 そしてさらに、「神の創造の力」とは、「共に生きる力」、「どこまでも、最後まで共に行く力」なのです。聖書は、この後、とてもショッキングなことを告 げます。この「神のかたち」、こんなに大切なはずの「神のかたち」を、私たち人間は忘れ、投げ捨て、失ってしまったのだというのです。聖書のこの後の展開 は、この「罪」の道を描くものであるのです。その証拠に、私たちは他者の「神のかたち」を認めません。「人でなし」と平気で他の人を思い、言い、扱ってし まうのです。そのためにこそ、自分の「神のかたち」をも知ることができません。「自分は愛されていない、自分には価値がない、自分には生きる意味がない」 と思ってしまうのです。そのようにして、「人を人として思わず、扱わない」、このような世、このような社会、世界を作り上げてしまうのです。
 しかし神様は、そのような「罪」に生きる人間と共に生きようとなさるのです。「わたしはあなたを創った。でもあとは、あなたの自己責任だ、自分で生きて いきなさい。あなたの罪も、あなたが背負い、自分で何とかしなさい」とは、神様は言われませんでした。神様は人間と共に生き、人間に対して責任を持ち、ど こまでも共に生きようとなさいます。それが、聖書であり、神様の人と共なる道なのです。「生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち 運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運 び、かつ救う。」(イザヤ46・3〜4)
 そして神は、本当にこの道を最後まで行かれました。それが、まさに救い主イエス・キリスト救い主イエス・キリストの道だったのです。このすぐ後の「創世 記」第2章は、私たち人間は、神様によって「土のちり」から形づくられ、神が「命の息をその鼻に吹き入れられ」る、そのことによってはじめて、私たちは 「生きた者」となるのだと語ります。(2・7)「命の息を鼻に吹き入れる」とは、横たわっている者の上に屈みこんで、ちょうど溺れた人などに人工呼吸をす るように、屈みこんで口から鼻へと息を吹き入れる、そんなイメージ、光景なのです。それは、自分の罪によって倒れ伏した人間、死の危険に陥っている人間、 破滅の淵に沈んでいる人間の上に、あえて自分が屈み込み、その口を直接人間の鼻に触れさせ、そこから命の息を吹き込んでくださろうとする神のお姿です。そ れは、救い主イエス・キリストのお姿です。罪と死に脅かされている私たちのすぐ隣にまでまで来て、どこまでも私たちと共におろうとし、遂には十字架の死に までも至る、神の御子のお姿なのです。

 「神の創造の力」、「あれ」と語る力、「よし」とし愛する力、共に生きどこまでも行く力、この「善き力」によって、私たちは囲まれている、これが「福 音」、良き知らせなのです。まさにこの「力」によって、私たちは愛され、生きることができるからです。この「力」によって、私たちは赦され、立ち直り、再 び生き直すことができるからです。
 「知的しょうがい」を負う人たちの生きる場に、ラルシュ共同体というものが世界中にあります。そこでの証です。「クラウディーアは、ホンジュラスの聖 フェリッペの施設からやって来ました。ごく幼いときに捨てられ、目が見えず、自閉症を持っていました。ナザレの家での最初の数年は、ひどく混乱し、苦悶 し、絶えず叫んでいました。今、彼女は平安になりつあります。作業所で働き、食卓に着きます。つい二年前、立ち寄った際、彼女に目がとまりました。そのと き彼女は、絶えず歌を口ずさみ、微笑んていたのです。わたしは彼女に尋ねました。『ちょっと聞いてもいい?』『はい、ジャン』『クラウディーア、どうし て、そんなに幸せそうなの』あまり話さない彼女は『神さま』とだけ答えました。―――見捨てられ、誰からも望まれなかった彼女が神の友になっているので す。」(ジャン・バニエ『永遠の泉』より)彼女は、「神の善き力」を受け、知ったのです。「あなたはあれ、あってよい、あなたは愛されるために生まれた」 と語り、「よし」とし、どこまでも自分と共に生き歩んでくださる神を知り、その神の「善き力」を彼女は受け、それによって囲まれているのです。
 「神の善き力に囲まれ、来たるべき日を待とう」。この試練の中にあっても、私たちは日々にそう呼びかけられているのです。また、私たちお互いの間でも、 そう呼びかけ、励まし合い続けること、それが私たち教会の道です。また、この言葉を知らない世の多くの人々に向かって、これを伝え、そう呼びかけ続けるこ と、それが私たち一人一人また教会の使命なのです。「神の善き力に囲まれ、来るべき日を待とう」。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエスを死と罪の中から起こし、引き上げ、復活させられた神よ。
 「はじめに神は天と地とを創造された」。これはまさに「福音」です。あなたは私たちに「あなたはあれ」と語って生かし、「よし」と愛の言葉を語り、さら に罪に生きてしまう私たちとどこまでも共に生きてくださいます。この「善き力」によって私たちは囲まれています。日々に、常に囲まれています。それが私た ちの力であり、喜びであり、希望です。
 どうか、この困難・試練の日々にも、あなたの「善き力」によって囲まれていることを、絶えず思い、信じ、それによって生きて行くことを教え、学ばせ、導いてください。この「福音」を共に分かち合い、宣べ伝え、証しする、私たち一人一人また教会とならせ、お用いください。
まことの道、真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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