イエスはここに生きている        マタイによる福音書第25章31〜46節


 「復活の主の言葉として聞く」の5回目、最終回です。それにふさわしく、この箇所は、復活信仰の「応用編」そして「総決算」です。な ぜなら、このイエスのお言葉は、イエス・キリストが復活され、今も生きておられるということを単に示すだけでなく、そのイエスがどこで、どのように生きて おられるかということまでを、教え知らせているからです。「イエス様は、きっとどこかで生きておられるだろう」というのではない、「イエス様はまさにここ にこうして生きておられる」ということまでを教えてくれているのです。さらに、この箇所は、その「今も生きておられる方」が「王」である、つまりこの世を 支配しておられる方であることを告げています。そしてついには、復活の主が「審判者」、つまり最後の審判において私たちを徹底的に、また究極的に裁く方で あることを告げ知らせているからです。
 とは言いましても、決して複雑な難しいことを言っているわけではなく、この話は大変明確で分かりやすい仕方でそれを語っています。それは、一言で言うな ら、「私たちは最後には、結局どうなるのか」ということです。これは主イエスが最後に語られた「総決算」の言葉、私たちは結局どうなるのか、どのような基 準、どのような価値によって判断され、どのような道をたどることになるのかという、「最後の審判」の教えです。ただ、それは「最後のこと」「ずっと将来の こと」に留まりません。むしろ、それは同時に「今のこと」「現在の生き方」につながり、それを決めるのです。どこをゴールとするか、何を目標とするか、ど んな将来が待っているかによって、何を最後の基準・目的とするかによって、今の行動や生き方が決まってくるのです。

 「審判者」である「人の子」が、最後の最後にやって来ます。この「人の子」とは、これを話しておられるイエス・キリストのことです。そうして最後に来ら れる審判者キリストは、「すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう」と言わ れます。そのようにして分けられた二つのグループの人々に、それぞれ申し渡される裁きは、実に決定的なものです。右に分けられた「羊」たちにはこのように 言われます。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世のはじめからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。」また左に分けられた「や ぎ」たちに向けてはこうです。「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。」まさに「天 国と地獄」です。その「中間」というようなものは全くありません。
 この裁きの基準は何でしょうか。これまた明確で、ただ一つだというのです。それは、非常に具体的に、「これらの最も小さい者のひとり」が「空腹のときに 食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた」かどうか、 つまりそのような「愛の行い・愛の業」をしたかどうか、ただそれだけです。「これらの最も小さい者のひとり」とはだれなのか、ということについてはいろい ろに考えられますが、これが全世界のすべての人々への究極の普遍的な審判であることを考えると、それはこの世界にいるすべての困り、苦しんでいる人々であ り、その一人一人であると考えるべきではないでしょうか。「ここで取り上げられている事柄は『食』『住』『衣』『健康』『自由』の五つの基本的人権に関係 している」。(本田哲郎氏、『アレテイア――釈義と黙想 マタイによる福音書』より』)かれらへの「愛の業」をした右側の人たちは「永遠の生命」へ、それ をしなかった左側の人たちは「永遠の刑罰」へと定められるのだというのです。実にはっきりとしています。
 しかし、実はここには驚くことがあります。なぜこれが唯一の「裁きの基準」とされているのか、それは「それらが良い業だから、いいことをしたから」とい うことではないということです。そうではなく、これらの苦しむ「最も小さい者」が、実はイエス・キリストその人であったということによるのです。審判者な るキリストは言われます。「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのであ る」。また、「これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである」。「靴屋のマルチン」の話を思い浮かべていただき たいと思います。
 皆様、いかがでしょうか。イエス様の話は、聞き手であったすべての人を驚かせ、時には怒らせていたのですが、これはとりわけキリスト者と教会とを驚か せ、つまずかせ、さらには怒らせるものではないでしょうか。少なくとも私自身は、この話を聞いた時、強い違和感を覚えました。私どもは、「イエス・キリス トを救い主として信じることが救いである」と教えられ、「業・行いではなく、ただ信仰によって救われる」と信じてきたのです。ところが、この「最後の審 判」では、一言も「信仰」について問われないのです。「あなたはいつイエス・キリストを信じる決心をし、何年の何月何日に何々教会でバプテスマ・洗礼を受 けましたか、その時司式をされた牧師はだれですか」なんてことは一言も出て来ないのです。「わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませた」 かどうか、ただそれだけなのです。まさに、「わざによって」裁きが行われるのです。

 「最後の審判」がこのようなものだとしたら、キリスト教信仰、イエス・キリストを信じることには何の意味もないのでしょうか。いいえ、いいえ、大ありです。
 何より、そもそもイエス様を信じることがなければ、彼が語るこの「最後の審判」の話を「ほんとうだ」と受け止め、信じることは決してできないのです。復 活されたイエス・キリストを信じ、イエスが語られる言葉を信じるときはじめて、この世界には隠れた秘密の秩序があり、それに基づく裁きがあると、はっきり と知ることができるのです。救い主イエス・キリストは、死と罪に勝利して復活され、今も生きておられる、しかもイエスは「王」としてここに、このように生 きておられると、はっきり知ることができるのです。もしイエス・キリストを信じなければ、すべての苦しむ者の背後に主イエスがおられる、いやそれどころ か、その飢え・渇き・宿なしであり、裸であり、病み、獄に閉じ込められている人が、まさに「イエスその人」であるなどと知り、信じることは決してできない のです。みんながみんなそうではないでしょうが、この世において、例えば「ホームレス」の人たちは「生きる価値がない」かのように扱われています。また、 「お金がすべて」であり、「強い者が勝ち、多くを取るのが当たり前」のように思われています。また偉い人、力ある勢力のために働くこと、たとえば「天皇陛 下のために」とか「お国のために」生きることがすばらしいことであるかのように語られます。しかし、イエス・キリストへの信仰によって私たちは、この世の 真実は決してそうではなくて、審き主イエス・キリストが「最も小さい者のひとり」のところにおいて生きておられ、そこにおいて全世界を支配しておられ、 「最後の審判」において私たちとは全く違う基準によって全ての者を裁くのだということを知り、信じることができるのです。
 ブラジルに「その名はイエス・キリスト」という讃美歌があるそうです。「その名はイエス・キリスト 飢えに苦しみ、飢えのために叫んでいる 私たちは彼 を見ながら通り過ぎる 時には教会に向かって その名はイエス・キリスト 家も無く、歩道脇で眠っている 私たちは彼を見ながら通り過ぎる 酔っぱらって 寝ているんだと言いながら 私たちの間におられるのに、私たちにはわからない 私たちの間におられるのに、気づかずに、私たちは彼を軽蔑している。」(松 本敏之『マタイ福音書を読もう3』より)「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」

 また、このように語られるイエス・キリストに出会うとき、私たちは本当に自分の罪を知らされるのです。この話を聞く時、いつも思い出すもう一つの話があ ります。それは、あの「善きサマリヤ人」の話です。エリコの町へ向かう街道を旅している中で、強盗に襲われ、身ぐるみ奪い取られ、瀕死の重傷を負い、道ば たに倒れている人がいます。最初にそこを通りかかった祭司やレビ人は、この人をちらっと見たけれども、すぐに目をそむけ、通り過ぎて行きました。しかし、 次に通りかかったサマリヤ人は、彼を哀れに思って、歩み寄り、介抱し、助けたのです。私はこの人たちの中の誰だろうと考えるとき、いつも思うのは、「私は 祭司やレビ人のようだ」ということです。何度そして何人の横を、私は通り過ぎて行ったことだろうか、幾度「最も小さい者の一人」が「空腹のときに食べさせ ず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さなかったか」と思うのです。もしイエス・キリストと出会わず、その言葉を聞かなかったなら ば、「それも一つの生き方、この世の知恵」とあまり心を痛めずに「通り過ぎて」行ったことでしょう。しかし、イエス・キリストを知るとき、これらのことは まさに「私の罪」として迫ってくる。そして、「私の罪」を知るときに、その私の罪を引き受け、担って十字架に死に、その「罪の私」が新しく生きるために復 活して来てくださったイエス・キリストの救いを求め、信じることがゆるされるのです。

 そして、イエス・キリストを信じるとき、この「最後の審判」がまさに恵みによってなされた裁きであることがわかってくるのです。この「右側に分けられた 人たち」は、はたして「いいこと」だけをしてきたのでしょうか。おそらく、いやきっと、そうではないでしょう。かれらもまた、いやかれらこそ、他に数えき れないほどの罪過ちを犯してきたに違いないのです。しかし今キリストは、それらの数々の罪過ちには全く触れず、かれらが行なったたった一つの善い行いに目 を留め、それを見つけて来てこう言われるのです。「この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからも れることはない。」(マタイ10・42)「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」しかも、「右 側の人たち」は、自分たちがした業にまったく気づいていないし、覚えてもいないのです。はたして私たちにこんな生き方ができるでしょうか。私ならこうなっ てしまうのではないでしょうか。「最も小さい者にしたことはイエス様に対してしたことになるんだ。―――これまで随分《イエス様に対して》善いことをして きたはずだ。もう既に相当ポイントが貯まっているはずだ。このままいけば確実に羊の側に違いない」。(日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生氏説教より)それは、むしろ「左側の人たち」の生き方です。イエス・キリストを信じるとき、私たちははじめて、新しい生き方へと新しく生まれるこ とがゆるされる、「右手がしたことを左手に知らせない」生き方へと新しく変えられるのです。
 一人の聖書学者が語った「最後の審判」のイメージをご紹介します。「それは自分が死んで―――天国への階段を登ってゆくというシーンなのです。―――そ こには門番のペトロさんが待っていて、来た人の名前を名簿で確かめて、天国の中へと入れてくれる場所があります。そこで―――ペトロさんに自分はこういう 者ですと申告すると、ペトロさんは首をかしげて、そんな名前は名簿にないがなあ、と言う。いや、自分はシュヴァイツァーという者で、牧師でもあり、新約聖 書の研究もして、こんなに沢山の本を神さまのために書きました、と説明するのですが、ペトロさんは『そんな本は知らないなあ、残念だが私はあなたを知らな い』と言うのです。自分が途方に暮れてそこに立っていると、天国の中から小さな子どもが出て来て、『この人はある時、今では自分でも完全に忘れているけれ ども、ぼくと一緒にいてくれて、ぼくのために祈ってくれたことがあるんだ』と証言してくれるのです。そこで自分は、長年牧師をしたからというのではなく、 聖書について本を一杯書いたからというのでもなく、自分で意識して数々のいいことをしたからというのでもなく、ただその子どもが証言してくれたおかげで、 救われるということがあるではないか。天国とは、そういう所ではないか。人間の救いとは、そのような出来事ではないか。」(片山 寛『風は思いのままに』 より)
 「イエスはここに、こうして生きておられる」、復活の主は今日もそのように私たちに出会われます。復活の主は今日も新しく私たちを招かれるのです。

(祈り)
御子イエスを死の中から起こし、引き上げ、復活させられた、私たちすべての者の神よ。
 復活されたイエスは「王」であり、「審判者」です。しかも、「いと小さき者の一人」として、今も私たちの前に現われ、出会って来られるお方です。このお 方と出会わされ、このお方を知らされるときに、私たちは「信じます、不信仰なわたしをお助け下さい」としか言えません。どうか、私たち一人一人と教会を、 あなたとの出会いの中で、御心にかなう者、愛の働きと道に生きる者へと創り変えてください。
復活にして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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