神の国のストーリーへと招く              マルコによる福音書第4章1〜9節

                
  イエス・キリストの宣教の第一声は、「神の国は近づいた」でした。イエス様は「神の国」を語り、人々にもたらしました。復活の主は今も私たちに「神の国」 を与え、私たちを「神の国」へと導いてくださるのです。「神の国は近づいた」、これこそが、私たちもまた信じ生かされている「福音」「良い知らせ」であ り、また伝えるべきメッセージなのです。そうしますと、「神の国」って何ですか、それはどういうことなのですかと聞きたくなります。

  「神の国」は「出来事」でした。「神の国」は、神の御子であったイエス様が、父なる神の元を出発してこの私たちの世界に来られたということから始まりまし た。そして、イエス様は様々な人々と出会い、かれらに向かっていろいろなことをなさり、多くの出来事を起こして行かれました。そしてついに最大の出来事 は、そのイエス様が十字架の道を歩み、苦しみを受けて死なれ、そして三日目に復活されたことです。こうした「出来事」を通して、「神の国」は私たちのとこ ろに来、もたらされたのです。
 「神の国が出来事」なら、それを伝える「神の国のたとえ」にはストーリーがあります。ストーリーには、動きがあ り、「こうなって、ああなって、そしてこうなる」という筋書きがあります。「ストーリー」の反対は、「説明」です。このたとえで言ったら、その「説明」な らこういうふうになります。「四種類の土地があります。その一つは道端、二つ目、三つ目はこれこれで、そして四つ目は『良い地』でこれが一番いいです。皆 さん、この『良い地』のようになりましょう。」これでは、ちっとも面白くないですね。
 でも、本当は違うのではないでしょうか。イエス様のお話を じかに聞いた人々は、これにストーリーを聞き取り、その展開にはらはらドキドキしながら、そしてある意味では楽しみながら聞いていたのではないでしょう か。「種まく人が種を蒔きに行った。はたして、どうなるのだろう。ある種は運んで行く途中、道端に落ちてしまった。そこに憎っくき鳥が来て食べてしまっ た。なんということ! 試練はまだまだ続く。ある種は石や岩がゴロゴロ転がっている土地に落ちた。ああ良かった、すぐ芽を出したと思ったのもつかの間、今 度は灼熱の太陽が容赦なく照りつける。ほどなく無残にも枯れてしまった。ああ、なんという悲劇! こんどこそはと思いきや、またしてある種は茨が鬱蒼と生えている土地に落ちた。ここはよく肥えた土地ではあるのだが、その分過酷な生存競争が存在したので あった。茨が意地悪くも種の成長を妨げ、種はひねくれて下へ横へと伸びるほかはなかった。ああ、失敗に次ぐ失敗、挫折につぐ挫折、はたして種々の運命やい かに?!」

 この話を聞いていた人は何を思ったでしょうか。「ああそうだ、これは私のストーリーだ、これは私たちの物語だ」ということで はなかったでしょうか。「失敗に次ぐ失敗、挫折に次ぐ挫折? それは私の人生そのものではないか。」ある意味で、私たち皆がそうです。「そうではない、私の人生は成功に次ぐ成功、栄光に次ぐ栄光だ」という人がおられ るでしょうか。おそらくあまりおられないでしょう。ほとんどすべての人が、「思うようには生きられなかった人生」を抱えています。
 ある方が、こ こからこんなメッセージを語っておられます。「種まきの譬えの中で種と言われているのは、私は命であると思っています。存在として根を張り、生き抜き、関 係につながり、実を結んでいく、そのように祈りを込められた命だと思うわけです。まず命はまかれていると、聖書に書かれているのではないでしょうか。まず 命はまかれている。しかし、ある命は道端に追いやられ、ある命は石地にあり、またある命は茨の中にある。まかれた地によって生きる現実が切り分けられてい く。まかれた命の現実によって、その命の生き死にが左右されてしまう。―――生き抜くのが困難な場、生き抜くことが困難な状況、そのようなところがいっぱ いあるのが私たちの日常ですし、この世の、この世界の、現実だろうと思います。」(本多香織氏による、北村慈郎『食材としての説教』より)
 また ある方は、こんな例を引いておられます。「フィンスターさんは、バプテスト教会の牧師として、ジョージア州とアラバマ州で八つ、あるいは九つの教会で奉仕 していましたが、1970年代の初めに、その働きに幻滅を感じるようになります。彼が言うには、4625回の説教をし、400件以上の葬式と200件を超 える結婚式をした後で、あるとき自分の教会でアンケートを取ってみたところ、彼が語った言葉を誰一人、何一つ覚えていない、ということがわかったのだそう です。そこで、彼は説教するのをやめ、物の修理―――おもにテレビや自転車―――をはじめました」。(B.B.テイラー『天の国の種』より)
 そして、何より神様の前で、私たちの人生はどうだったというのでしょう。「あなたは御言葉を聞いても受け入れず、あるいは一時は聞いてすぐに捨て、あるいは他のものに心惹かれてとうとう実を結ばなかった」ということになってしまうのではないでしょうか。
  また教会という場でこれを聞くならば、これはまさに教会の物語です。喜びが、信仰が、一致が奪い去られることを経験します。試練・困難の中で弱り、立ち止 まり、信じることをやめてしまうことがあります。この世の論理や力また誘惑に負けて、正しい道から外れてしまうこともあります。私たちもまた例外ではあり ません。「神の国」によってここに照らされるのは、私たちの偽らざる姿なのです。

 その「種」がいったいどうなるというのでしょう。ス トーリーには、「クライマックス」があります。それは、ただ一つの焦点、クライマックスを目指して進んで行くのです。すべてのストーリーは、そこへと向 かって行くのです。「ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった。」この「大収穫」、これこそ がこのたとえの「クライマックス」であり、主イエスが私たちに伝え、届けたかったただ一つのことなのです。
 では、前の三つの土地の話は何なの か。それは、ほかのいろいろなストーリーを考えればよく分かります。前に何もなかったら、それこそ「お話になりません」。いきなり主人公は「仲良く、幸せ に暮らしました」では、面白くもなんともありません。主人公はそこに至るまでに、幾多の試練や困難を経験するのです。それがあるから、最後のクラスマック スが生きてくるのです。もうおわかりでしょう。あの「三つの挫折の物語」は、最後の「大収穫」から見るならば、「前準備」「引き立て役」に過ぎないので す。
 主イエスは、この「神の国」のストーリー、物語へと、私たちをも、私たちの教会をも、そして私たちの世界をも招き、引き入れ、巻き込んで いってくださるのです。すると、このような挫折・失敗の向こう側に、あの大いに豊かな実り、大収穫が見えてくるのです。「神の国の実りは豊かなのだ。この 上なく豊かなのだ。あなたの人生も、あなたがたの歩みも、この神の国を知り、信じて、そこに生かされ、生きるとき、どのような失敗と挫折と、そして罪に満 ちたものであったとしても、それは豊かな実りへともたらされるのだ。」主イエスは、この掛け値なしの福音、「神の国の福音」を宣べ伝えて言われるのです。 「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ。」

 そう聞かされても、私たちは疑い、ためらいます。「そんなの、うますぎる。うまい話 にはご用心。それにイエス様は楽観的過ぎる。この世の中、そんなにうまく行くものか。」イエス様は現実をご存じなかったのでしょうか。これからご自分にま すます押し寄せ、イエス様を苦しめてくる、人間の頑なさ、弱さ、貪欲、それら一切の罪の闇を予想もされなかったのでしょうか。
 答えは「否」で す。イエス様がそうしたことをご存知でなかったはずは決してないのです。なぜなら、これは何よりイエス様ご自身のストーリー、イエス様ご自身の物語だから です。イエス様のご生涯こそ、この世的・人間的に見るならば、「失敗に次ぐ失敗、挫折に次ぐ挫折」だったのではありませんか。人々は最初はイエス様の業を 見て大勢押し寄せて来ました。しかし、イエス様に近づきわかってくるにしたがい、イエス様を離れて行きました。弟子たちでさえイエス様の御心を理解せず、 自分の出世と栄光のみを求め、主が捕えられる時には愛する師を見捨てて逃げ去りました。「あなたと一緒にどこまでも」と語ったペテロには、「そんな人は知 らない」と三度も否定されました。そして、その最後はあの十字架、当時にあって最も卑しめられ呪われた者としての死を遂げられたのです。
 「しか し、神の国はそれで終わりではない」、主イエスはかつてそう語り、それに御自身を献げ懸けて生きられたのでした。まさに神は、このイエスをお見捨てになり ませんでした。あの「神の国の福音」をまさにそのとおりに実現してくださいました。主イエスを復活させ、その勝利をもって「百倍の実り」をもたらしてくだ さったのです。

 あの、牧師をやめたフィンスターさんはどうなったでしょうか。「彼は説教するのをやめーーーましたが、1976年、聖画 を描きなさいという神の声を心に聞きます。『いえ、できません』。彼はその声に向かって言いました。『無理です、プロじゃないんですから』。『なぜできな いと思うのか』。その声にうながされ、フィンスターさんのアーティストとしての人生が始まりました。美しくありながらも奇妙な彼の作品の数々とともに、こ れまた非常に魅惑的ななのが三エーカーの土地に広がる『パラダイス・ガーデン』です。―――古い時計、ギア、宝石類、ビー玉、陶器のかけらなどが埋め込ま れた小道を歩いていくと、次々と目に入ってくるのは、芝刈り機のハンドル二本で作られた十字架のそびえる、古い自転車を積み上げてできた20フィートの 塔。2トンもあるコンクリートでできた片方の靴、コカコーラの瓶でできたポンプ室。三本足の鶏の骨が入っている水槽に、古いミシンでいっぱいの小屋があ り、流し込まれたセメントで彫刻された6フィートの蛇の山。さらに、チューインガムのガチャガチャ、バネむき出しの二段ベッド、空っぽの額縁、とこにも通 じていない一連の階段。―――『あながた捨てた物をわたしは拾い、夜も昼も組み合わせた。雨が洗い、日が乾かし、あるゆるものが一つとなった』。――― 『この公園を壊れたもので造ったのは、壊れた世界を直すため』。―――『わたしの作ったものは黙っていません』。最近のインタビューで、彼はこのように話 しています。『自分が死んでも、わたしの作品は、わたしがここにいたときと同じようにきっと語り続けてくれるでしょう。主イエスは、大切なことを人々にわ からせるために、身の回り物を用いて語っておられます。―――神のメッセージは、あるゆる場所に転がっているのです』。」(テイラー、前掲書より)彼は、 人の様々な評価は脇に置いて、「自分の作品は黙っていません」と言えるような「収穫と実り」を、「神の国」においていただいたのではないでしょうか。

  「神の国のストーリーへ」と、あなたをイエス・キリストは招いておられます。あの「大収穫」へと私たちをも招いておられます。「神の国は近づいた。悔い改 めて、福音を信ぜよ。」「悔い改め」とは、この主イエスの御言葉を聴き、その神の約束に自らを委ねて、一歩を踏み出すことです。「主よ、失敗と挫折のこの 私たちの歩みを、私たちの教会の業を、涙と叫びに満ちたこの世界の道行を、あなたの御国の恵みにお委ねいたします。どうか、あなたの大収穫に向けて、私た ちをも導き、あなたのご栄光をあらわしてください。」 この祈りと共に、救い主イエス・キリストに、信仰をもってつき従ってまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  失敗と挫折と罪に満ちた私たちの歩み、つまずきと破れと不信に満ちた私たち教会の歩み、不正と偽りと残酷に満ちたこの世界の歩み、そのただ中に主イエスは 「神の国の福音」、その「種」をまき、ひたすらにまいてくださいました。この「種」のゆえに、私たちの歩みも、不思議にも「神の国のストーリー」の中へと 招き入れられ、巻き込まれて、「百倍の収穫」へと導かれます。この「良き知らせ」、恵みの言葉を心より感謝いたします。
 どうか、先立ちまた伴いたもう復活の主に向かって、私たちの小さな信仰をもって踏み出し、つき従って行けるよう励まし、促し、導いてください。またこのように呼びかけていただいた者として、私たちも私たちの隣人に呼びかけ、共にこの道を歩ませてください。
まことの道、真理また命なる世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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