新しい関わりを開く              マルコによる福音書3章31〜35節

                
  「イエスの母と兄弟たちとが来て」とあります。イエス様にも家族があったのです。これは、ある見方からすれば意外なことであるかもしれません。「イエス様 は神の子で、この世を越えていて」という見方、何か「浮世離れ」した方のように捉えているならば、驚くようなことです。しかし、クリスマスの出来事におい て、イエス・キリストは肉体を取り、教会の信仰告白によれば「まことの人」となられたのでした。正真正銘の人間ということです。
 それは、主イエ スが「関係の中へ」来られたことであるのです。人間というのは、いい意味でも悪い意味でも、関係の中で、特に人間関係の中で生きなければなりません。これ こそが、もっともやっかいなものではないでしょうか。多くの人が悩みの原因として、職場や学校での人間関係を挙げます。その人間関係の中でも、代表的であ り、最も基本的で、最も強いものは、今日テーマにになっている「家族」でしょう。しかしまた、これほど「やっかい」で「いやらしい」関係もないかもしれま せん。家族の関係の中にこそ、人間関係の問題性というものがいわば凝縮された形で表れているのではないでしょうか。現に家族の問題で悩んでおられる方がお られるかもしれません。でも、ここに福音があります。主イエスは、そのような私たちの人間関係のただ中に、とりわけ家族関係の中にさえもおいでくださった のです。だから、そこもまた神の救いの御心と御業が示され行われる場とされるのです。「今日、この家にも救いが来た!」
 もともと「人間関係」と いうのは、神様が私たちにくださった良いもの、必要なもの、幸いなものなのです。しかし、それが私たち人間の罪によりいろいろな問題をはらむようになって しまったのだと思います。イエス様にとっても人間関係とりわけ家族関係があったればこそ、この世に生まれ、そこで両親に養われ、兄弟や友人と交わりつつ人 として成長なさることができたのです。ところが、それが時として、最も肝心な時にこそひどい形で吹き出してくることがあるのです。イエス様の場合も決して 例外ではありませんでした。

 その家族関係の問題性とはどういうものだったでしょうか。
 第一に、「わかっているようで、全然わ かっていない関係」ということです。こういうことがありました。ちょっと前の21節ですが、「身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取り押さえに出てき た。気が変になったと思ったからである。」イエス様が神様の働きをしておられるのを、家族や親戚の者たちが「そんなことはやめろ」と、無理にでもイエス様 を連れ帰ろうとやって来たというのです。しかも彼らは「気が変になっている」という世間の評判を何の抵抗もなくそのまま受け入れてしまっていたのです。い ちばん親しい者たちです。いちばん理解してもらいたい、また理解してしかるべき者たちたちです。その人たちが、いちばんイエス様を理解せず、協力せず、そ れどころがイエス様の働きを妨害し、やめさせようとしている。そのくせ、「自分たちこそが一番理解している」と思い込んでいる。まことにやっかいな関係で す。
 第二に、「肉の近さのゆえにあまりにも近い、近付きすぎる」、そんな関係です。その肉親たちは、ついにイエス様が人々に宣教活動をしておら れるその現場までやって来ました。「イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。ときに、群衆はイエスを囲んですわってい た」。この位置関係というものが、私は、「家族」の関係と力を大変良く表していると思います。イエス様の周りを多くの人々が直接的に取り囲んでいるので す。家族はその「外」側に立っている。ですから、物理的な距離・関係としては遠く、間接的です。しかも、彼らが直接イエス様に声をかけたのではなく、「人 をやって呼ばせた」のです。しかし、母・兄弟たちは、それでもイエス様に届くと思っている、当然そうだと思っている。ここには、「家族」関係の恐るべき強 さと自信というものを感じます。そしてそのような感覚は、単に肉親たちだけでなく、イエス様の周りのイエス様の話を聞いている人たちにも共有されていまし た。彼らはそれと知って、イエス様にこう言ったのです。「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます。」彼らは、実際 にはここにはいない家族・肉親の方が、今ここで直接的にイエス様の言葉を聞いている自分たちより優先権を持っていることを当然としていたのでした。
  そして第三に、「自分たちの利益だけを守り、他者を押し退けてでも貫く」ということです。この世では、一般的に「家族」というものが、最も基本的で大切な 関係であり、集団であるとされています。「家族」が集って「町」になり、町が集って「国」になるというふうに考えられています。それは、言うならば「枠」 を決めてその中でだけ生きる生き方であると言えるでしょう。「これが私の家族」と固定的に枠を決め、ただひたすらそれを守り、その内部の幸せだけを求め る、そういう生き方です。「愛国心」というものも、同じような考えに基づいています。「国」は一つの「家族」と考えているのです。「家族」なんだから、そ の中では助け合い、愛し合う。しかし、その外は究極的にはどうなってもかまわない、場合によったらよそが滅んでも自分たちは生き残る、それが当然だ、とい う考え方であり、生き方です。

 ところが、主イエスはここで驚くべき言葉をお語りになります。「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのこ とか。」これは、この世の関係とそれに基づく秩序を根底から問い直し、揺すぶり、ひっくり返してしまう言葉です。イエス様はそれに向かって真っ向から問い かけられるです、しかも当の家族のいるところで。それは単に、イエス様が「破壊主義者」のように振舞われるということではありません。イエス様は、ここに 全く新しい道と生き方を開き、示しておられるのだと思います。さらに言えば、「全く新しい家族」「全く新しい人間関係」というものを設定し、宣言しておら れるのだと思います。
 それは、先ほどからの話で言いますと、「枠を外す」あり方・生き方です。ここを読むと、私はつい「よきサマリヤ人」の話を 思い出すのです。あそこで、イエス様に議論を挑んだ学者は、「私の隣人とは誰のことですか」と問いました。彼の考えは「枠」に基づいていました。「私の 『隣人』とは、家族であり、同国人であるに決まっている。その中の人たちを愛するのが当然なのだ。」しかし、イエス様は、その彼にびっくり仰天するような 話をされました。「強盗に襲われて道に倒れている人がいた。その人を助けたのは、日頃から敵意を持たれ、差別され、抑圧されていた外国人のサマリヤ人だっ た。」その上で学者にこうお尋ねになったのでした。「だれが、この倒れていた人の隣人になったか。」
 これです。これがここでも、イエス様のおっ しゃりたいことではないでしょうか。私たちは「家族」という「枠」、あるいはさまざまな人間関係や集団の「枠」を固定化し、「その中か外か」ということで しか考えない。しかし、イエス様はその「枠」そのものを問われるのです。「わたしの母、私の兄弟とはだれか。」確かに私たちの多くの者には「肉の家族」が いますし、「親しい愛すべき隣人」がいることでしょう。その人々を愛することは「神の戒め」です。しかし、神は主イエスにおいて、いつもその「枠」そのも のを問いかけ、揺さぶっておられるのです。それはこう問いかけられながら生きる道ではないでしょうか。「だれが、わたしの家族なのか。だれが、この人の家 族となるのか。」

 実際、イエス様の周りには、そう問われずにはいられない人々が集っていたと思います。当時の古代社会は、現代と同じよ うにあるいはそれ以上に「家族、血縁中心社会」でした。そういう傾向・風潮・制度があまりにも強いために、そこに入れない人たち、そこからはじき出された 人たちが、多くいたのです。例えば、孤児、寡婦、外国人、病人、障害者といった人たちです。この人たちには、自分を理解し、受け入れ、愛し、守ってくれる 「家族」がいませんでした。
 でも、そこに主イエスはやって来られて、彼らを招きいれて「新しい家族」を宣言し、創り出されるのです。34「そし て、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして言われた、『ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれで も、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。』」この「新しい家族」を基礎づけ、形作るのは、ただ一つ「神の御心」です。それはなんでしょうか。私 は、今までのイエス様のメッセージの中にそれが現れていると思います。主が語られたのは、「すべての罪は赦される」ということであり、また神の律法が命じ るのは「命を救うこと」だということでした。「すべての罪を赦し、ひたすらに命を救おうとする」、この「神の御心」こそが進んでおり、この「御心」こそが 実現しようとしている。それが行われる場こそが「神の国」でしょう。だからこそ、主は「神の国は近づいた」と宣べ伝えられたのだと思います。この「御心」 は、人間とその罪が作り上げたすべての「枠」と「壁」「溝」を越えて、「御心を行う者はだれでも」という途方もない広がりを導き出し、憎み合い敵対し合っ ていた者たちにさえ和解と平和を与えます。この「御心」を信じ、受け入れ、それに従って生きようとする人々の中に「新しい家族」が創造されるのです。
  では、私の「肉の家族」「愛する隣人たち」はどうなるのか。その人たちもまた、もちろんこの「神の家族」中へと招かれているのです。しかし、全く新しい姿 と関係と生き方をもってです。クリスチャンの皆さんが信仰に入られたとき、きっとご家族の中に葛藤が起こり、悶着が持ちあがったのではないでしょうか。で も、それは神があなたのご家族の中にこの新しい関係と新しい道を開き、そこにあなたの愛する家族をも招こうとされているからです。イエス様がこの世におい でになったときにも、悶着がありました。でもそれは、そこには新しい世界が始まっているからなのです。

 「とくに感銘を受けたのが、富山 の元日赤看護師の惣万佳代子さんと同僚二人が立ち上げた、『地域共生ケア』を理念とする宅幼老所『このゆびとーまれ』や、それに刺激を受けて阪井由佳子さ んという若いシングルマザーが始めた『デイケアハウス・にぎやか』。どちらも今では、『富山型』デイサービスとして、全国にその名を知られています。 ―――年寄りも障がい者も子どもも、別け隔てなく預かるのが『富山型』。―――いろいろな人がごちゃごちゃといられる居場所を作りたい、という思いを前か ら抱いていた伊藤さんは、『これだ』と確信をもった。宅老所で子どもと老人の両方を預かるようになると、高齢者と子どもがいっしょに遊びはじめて、どちら からも笑い声が出はじめる。老人は子どもの世話をすることで元気になるし、子どもは老人に甘えたり。やがて、知的あるいは身体の障がいを持った大人や子ど もも、やってくるようになった。健常児が障がいをもった子どもの世話をしたり、認知症の高齢者が子どもと遊んだり、自分で食事ができない高齢者に子どもが スプーンで食べさせたり。」(高橋源一郎・辻信一『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』より)

 「教会は神の家族」と言われます。確か に、この主イエスの御言葉はそれを基礎づけるものです。しかし、また同時に私たちをひたすらに問い、裁く言葉でもあるのです。私たちは確かに「神の家族」 とされました。しかし、それはただ人間的な近さ・親しさ・気安さによるのではなく、ただ一点「神の御心」によっているのです。一般的・常識的な「家族」の イメージが教会に持ち込まれるのではなく、ただ神の御言葉と御心だけが、常に私たちの関係と交わりを基礎づけ、日々に新しく悔い改めさせ出発させるので す。「すべての罪を赦し、すべての人をひたすら生かしつつ、あらゆる人間の『枠』と『壁』と『溝』を乗り越えて行く、神の御心」、それに従い、それに生 き、それを行う、ここに私たちの「家族」である根拠があります。
 そう問われると、私たちははなはだ心もとないです。でも、ここに福音がありま す。「御心」が既にあり、それは既に成し遂げられているということです。主イエスこそが、この「御心」を行うために、あのゲッセマネの苦闘する祈りを経 て、十字架の道を歩み、復活の勝利へと至ってくださいました。この御心は確かに立てられ、確かに始まり、確かにその完成への道を進んでいます。あの「御 心」があるからこそ、この「信仰」と「服従」があることができるのです。「神の御心を行う家族」として、ただこの一点に立ち続け、歩み続けてまいりましょ う。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、私たちを御子イエス・キリストにおいて極みまで愛された神よ。
 あなた のもとから私たちのこの世界へとおいでになったイエス・キリストは、また私たちの様々な関係の中へとおいでになりました。その中で私たちにとって、最も深 くまたやっかいでもある家族の中へもおいでになりました。ここに主イエスが来られて「だれが私の家族なのか、だれがこの人の家族となるのか」と問いかけて くださったことによって、私たちのただ中に新しい関係が開かれ、「神の国」の関わりが始められました。私たちもそこへと福音によって呼ばれ、招かれていま す。
 どうか信仰と希望をもって、この主イエスの招きに応え、私たちが今いる関係を問い直しつつ、あなたから与えられる新しい出会いと新しい関わりとに、心と身体と生き方すべてをもって開かれて行くことができますよう助け、お導きください。
まことの道、真理また命なる世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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