イエスと共なるはじめ              マルコによる福音書第1章1〜11節

                
 新年明けましておめでとうございます。
  新年最初の礼拝です。私たちにとって、本当の「はじめ」とは何でしょうか。それは、この「はじめ」です。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。「イ エス・キリストの福音」に基づいて、「イエス・キリストによる良き知らせ」を聞くことから、このイエス・キリスト共にこの新しい年を始めることが、私たち にとって本当の「はじめ」であり、正しい「はじめ」方であるのです。

 しかし、その「はじめ」は実に意外な仕方、意外な言葉をもって始ま ります。それは、荒野における、バプテスマのヨハネによる「悔い改め」の呼びかけから始まるのです。「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の許しを得さ せる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた。」ヨハネはこのように言ったと言われます。「悔い改めよ。天国・神の国は近づいた。」(マタイ3・2)バプテ スマというのは、元々の意味は「水に沈める」「水に浸す」ということです。その言葉どおり、それを受ける人の全身を川などの水の中に沈め、浸すのです。何 のためにこんなことをやるかと言いますと、それは「悔い改め」を表すためです。つまり、ヨハネは「あなたがたは、悔い改めから始めなさい」と語ったわけで す。
 しかし、これは実に意外です。なぜなら、「悔い改め」というのは実に「人気がない」からです。「悔い改め」とは、要するに、まず自分の過 ち・誤りや弱さを認める、神の前に認めるということだからです。一般的に言って、何か事を始めるのに、こういうことから始めるというのは、変わっていま す。私たちの多くは、何か事を始めようという時、この正反対つまり「いかに自分は正しく、自分のしようとしていることは正当性や有効性を持っているか」を 主張してやまないのではないでしょうか。国も会社も個人も、なかなか自分の過ちを認めようとしない、あるいは決して認めない。でも、そうではなくて、自分 の誤りと弱さをしっかりと認めて、神に従うことから始めようと、ヨハネは語ったのであり、それが私たちにとって正しい「はじめ方」なのです。

  そして「悔い改め」には、もっと積極的な意味があります。それをはっきりと表わす訳し方があります。「心をすっぱり切り替えろ!」「心をすっぱり切り替え る」、それは私たちの言葉や行動を全く新しく「切り替え」、さらには生きる方向・生き方を「すっぱり切り替える」ことです。カレンダーは新しくなっても、 私たちの考え方や生き方は、ほとんど変わらないということがあります。「またいつものような年が始まり、いつものように進んで行く」、そんなふうに思って しまうことがあるのです。しかし、「福音のはじめ」は、私たちに告げるのです。「そうではない。心を、言動を、そして生き方を、この時すっぱり切り替え ろ!」
 なぜなら、「神の国」が来るからです。主イエスの宣教、その生涯はこの一つのメッセージに集約されます。「時は満ちた、神の国は近づい た。(だから)悔い改めて福音を信ぜよ。」「時」とは、「特別な、神によって定められた時」です。「その時がいよいよ来たのだ。」「その時」とは、「神の 国」の時です。「時は満ち、神の国は近づいた」のです! だからこそ、今や自分の力と考えによって生きていた誤りと傲慢と弱さとを認め、心を切り替えてこ の知らせを聞き、受け入れよと語るのです。
 「神の国」とは何でしょう。「国」と言いますと、何か場所とか空間のようなものを考えます。しかし、 ある方はこれをこう訳してくれています。「神様のお取り仕切り」。今、私たちが見るところでは、人間が様々な事柄をすべて好きなように取り仕切っている。 政治、経済、社会、文化などなど。しかし、イエス様はおっしゃるのです。「神様のお取り仕切りがある! 」イエス様は約束なさいます。「神の国は近づいた。」この「近づいた」とは、「もう目と鼻の先まで近づいてしまった」という意味です。「今まさにここにま で来ようとしている。いや、もう既に来てしまったと言っていいくらいだ。」ですから、「神の国」は私たちのところに来るのです、来ようとしているのです。
  「人間の不幸はどこから来るのでしょう。それは人が人に支配されることから来るのだと聖書は言います。金持ちは貧乏人からしぼり取り、主人は奴隷をこき使 う。力ある者は弱い者をしいたげ、しいたげられた者の声に耳を貸そうともしません。人と人の交わりはそこで決定的に破壊され、怒りと絶望と不安とが人々を 縛りあげます。しいたげる者は、いつ自分がしいたげられる立場になるかとおびえ、反逆の可能性を芽のうちから摘み取ろうと血眼になり、しいたげられた者は 復讐の機会をねらう。人の世は常に支配する者と支配される者とのあらそいです。 だが、それはもうおしまいにしようと、イエスはいいます。『神さまが人間 をおつくりになったのは、こんな悲惨な状態に人間を置くためではなかった。神さまはすべてのものが活き活きと喜びに満ちて幸せに暮す、そんな世界をおつく りになりたいのだ。さあ、気持ちを切り換えようではないか。これからは神さまが直接お前さんたちを取り仕切ってくださるのだ。―――みんな、この《よきた より》に身も心もゆだねて行こうではないか。人間の救いはそこにある。』」(山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』より)

 こうして、こ こに神の子、世の救い主イエスが登場されます。しかしまた、そのイエスの登場の仕方もまた実に意外なものです。私たちのイエスは、このヨハネのバプテスマ への呼びかけを受け入れ、自分も悔い改めのバプテスマを受けようと、ヨルダン川へと足を踏み入れて来られたからです。「そのころ、イエスはガリラヤのナザ レから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」イエスは、私たちの誰にも先立って、この道へと足を踏み入れられました。私たち に人気がなく、私たちがためらってなかなか進もうとしない、この悔い改めの道、自分の誤りと弱さを認め、心をすぱっと切り替えて、「神様のお取り仕切り」 を受け入れ、それに従い、それに基づいて生き始めるという生き方へと、率先して、「お手本」を示しつつ進まれたのです。
 バプテスマの大きな特徴 は、低く下って低みに立つことを表すものです。考えてみますと、この時ヨハネからバプテスマを受けようとするなら、その人はきっと川の中に入って行って川 底に立たなければなりません。川底というのは、一般的に言って、一番低い地点です。その川底に立つ、一番低いそこにこそ立つ、今まで「自分は正しいのだ、 強いのだ、できるのだ」と思い上がっていたその思いを捨てて、一番低いそこに立つ、その時に今までとは全く違った視点から全く違った世界と人々の姿が見え て来る。そこから新しく始める、新しい生き方に歩み出す、これを「悔い改め」と言うのです。その時はじめて、神の国が見えてくる、神様のお取り仕切りに気 づき始める、神の隠れた広いご支配と、私たちが思いもしなかった意外で不思議な導きに気付かされていくのです。「絶対確実なものは、どこにあるのでしょう か。それは、この世界の片隅にあります。片隅には、理不尽がしわ寄せられ、矛盾が吹き溜まっている。そこに行くと、私たちの心は震える。これはおかしい と、動き出す。」(川上直哉『被災後の日常から』より)イエスは、私たちの誰にも先立って、この道へと踏み入り、振り返って私たちを呼び招かれるのです。 「私がこの道に先立っている。あなたも、この私に続いて、私と共に、この道を歩かないか。この、人気は全然ないが、でも本当の幸いと喜びまた命に続くこの 道を、私と一緒に歩き始めないか。」そしてこの道には、神の祝福の声が響いているのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」

 この道を、イエスに続いて、イエスと共に歩み始めた、多くの人々がいます。
  岩村昇というクリスチャンのお医者さんがいます。岩村先生は1927年生れ、「日本で最初に設立された国際協力NGOの一つである日本キリスト教海外医療 協力会(JOCS)からの派遣ワーカーとして、1962年ネパールに赴任した。当時国民の平均寿命が37歳というネパールで、以後18年間、結核・ハンセ ン病・マラリア・コレラ・天然痘・赤痢等の伝染病の治療予防として栄養改善のために―――活躍し、『ネパールの赤ひげ』と呼ばれた」ということです。 (Wikipediaによる)先生は、パイオニア、先行者とも言うべき存在で、続いて多くの人が福祉や社会奉仕の事業に踏み出しました。
 この岩 村昇さんに、「悔い改め」の瞬間が訪れ、「イエスと共なる新しいはじめ」が起こります。「岩村先生がタンセンの病院にいる間は、地域にはたくさんの病気の 人がいて、結核患者もいるのだから、医療器具が揃い、医者がいて、薬もある病院へ来ればよいのに、と思っていました。ところが、自分がその地域の中へ入っ てみて、その生活を見てみると、住民たちにタンセンの病院は見えないのです。自分の発想の中にまったくないのです。それでは、ここの人たちは病気になった らどこへ行くのかというと、『占い師』のところです。『占い師』など、タンセンの病院からすれば敵のような存在です。ああいう者がいるから、変なことをさ れて、さらに病院に来るのが遅くなる、と。占いなどというものは撲滅しなければいけない、と考えているわけです。」「岩村先生に決定的なことが起こりまし た。タンセンの病院を出て、二、三日経ち、薬も何もかも地域の住民のために使ってしまったところで、自分が下痢の止まらない症状を示すようになるのです。 そして、明らかに赤痢であると判断しますが、薬もないし、自分でもどうしようもなくなります。すると、ふらふらになってしまった先生の周りに地域の人たち が集まってきて、そこの族長みたいな人が手を取り、こう言うのです。―――『おまえは私の身内だから、助けてやる』―――岩村先生は悪い予感がするのです が、担架に乗せられて、『占い師』のところへ連れて行かれます。そして『占い師』に祈ってもらって治るのです。ところが岩村先生はそこで大きな発見をなさ います。下痢が祈りだけで治ったわけではなくて、その『占い師』が、ネパールにたくさんある薬草を上手に使っていたのです。『占い師』は実際に医師でも あったわけです。薬草で病を治し、祈って治してくれたのです。お腹の具合が悪くなって、『おまえはわしのーーー身内だ。おまえを助けてあげる』と言われた ときに、自分は医師だとか、日本人だとか、あなたがたのために働いてあげるとか、という立場はまったく意味がありませんでした。連れて行かれた『占い師』 に祈ってもらい、薬草を飲ませて治ったときに、タンセンの病院で先生が考えていたことはガタガタと崩れてしまいました。『占い師』はもはや敵ではなく、同 労者でした。これ以後、岩村先生は『占い師』たちと組んで、薬草のことを学び、『占い師』たちには近代的な医学を知ってもらうようにし、まさに『共に生き ること』がどういうことかを知っていくことになります。教会やキリスト者も外に出るならば、もっと豊かになり、教会の外でなされるわざがどんなに福音的な ものになることでしょうか。」(犬養光博『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』より)岩村昇さんは、この時イエスに招かれてヨルダンの底に下り、そこで 「心をすぱっと切り替え」て、神の国の広さと豊かさを味わい知らされ、イエスと共なる「新しいはじめ」に踏み出されたのだと思うのです。

  「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。この新しい年の初めに、私たちもこの道の始まりへと招かれています。このイエスを信じ、このイエスに続いて、 このイエスと共に歩み生きる歩み、生へと、呼ばれているのです。私たちの教会でも、イエスを信じ、イエスに従い、イエスと共に生きようとする信仰のしるし として、バプテスマを行っています。それは、イエスと共に水に沈み、イエスと共に水から上がって新しい命に歩み出し生きて行くことを表しています。このイ エスに合わせられ、イエスと一心同体、イエスと一つとされて歩み出す、私たちの本当の「新しいはじめ」なのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたは、私たちのこの世界へ向けて御子をお送りになり、私たちに向かって「福音」、良き知らせ、「イエス・キリストと共に歩み出す新しいはじめ」を宣べ 伝えられました。私たちの心と生き方は、「新年」と言いながら、「古いもの」「古い道」に囚われています。私たちの誤りと弱さを認められず、それゆえにあ なたから外れて傲慢に生き、心をすぱっと切り替えることができません。どうか、私たちに先立ってヨルダン川の低みへと踏み入って行かれたイエスに続き、こ のイエスと共に、本当に「新しいはじめ」へと、私たちも信仰をもって踏み出すことができますよう、私たち一人一人と教会を励まし力づけてお導きください。
まことの道、真理、命なる、世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


戻る