あなたの神、主はあなたのうちに              ゼパニヤ書第3章11〜17節

                
  アドベント、救い主を待望するメッセージ、その多くは預言者たちによって語られました。預言者は、もっぱら自分が生きているその時代のその人々に向けて語 りました。その人々が生きていた社会、かれらの世界に向けてのメッセージだったのです。それが今、私たちにとっては、私たちのために、イエス・キリストに ついての言葉、救い主イエスを待ち望む言葉となるのです。
 では、この最もマイナーな預言者ゼパニヤの時代とは、どのような時であったのでしょう か。それは、この書の冒頭に記されています。「ユダの王アモンの子ヨシヤの世に、ゼパニヤに臨んだ主の言葉。」「ヨシヤ王の世」と言えば、有名な預言者エ レミヤと同時代ということになります。詳しく言えば、エレミヤより少し先輩で、まだ「ヨシヤ王の宗教改革」というのが始まる前の時期です。
 それは、いったいどんな時代だったのでしょうか。ある注解者の言葉に聞きましょう。
  まず、「宗教は堕落していた」と語られます。「屋上で天の万象を拝む者、主に誓いを立てて拝みながら、またミルコムをさして誓う者、主に背いて従わない 者、主を求めず、主を尋ねない者」(1・5〜6)とゼパニヤは語ります。先代の「マナセ王の治めた数十年の間に社会は損なわれ、後に残ったものは真の宗教 と偽りのそれとをもはや区別できなくなった民、うわべだけの偽の信仰が生んだ侮辱と背教を感じることのない民であった。ここに存在するのは、その宗教を捨 ててしまったとは言えないが、実際捨ててしまったほうが良かったのではないかと思われる民であった。」(以下、P.C.クレイギ『十二預言書U(デイ リー・スタディ・バイブル23)』による。)
 次に、「政治は失敗であった」と語られます。「政治を司る者たちや王室の人々は、指導者としての責 任がその肩にかかっていたにもかかわらず、彼らに割り当てられた仕事を成し遂げることができなかった。」「暴虐と欺きとを自分の主君の家に満たす者」 (1・9)と告発されています。統治の仕方、行政のやり方が法の正しい精神に基づかず強硬、乱暴であり、その細部は偽りと改竄に満ちていたのではないで しょうか。
 第三に、これが最も問題であったのだと思いますが、「無感動と無関心が広がった」と語られます。「審判の日が来なければならない理由 は、そのサイレント・マジョリティと呼ばれる一般大衆にあったことがわかるのである。彼らは異端信仰や恐ろしい行為という形で悪を行ったわけではないが、 毎日の生活の中で自分たちの身のまわりに起こりつつある、混沌に向かってすべり落ちていく状態をくい止める努力を何一つ行わなかったという点で責められる べきだったのである。」かれらはこう言い合っていたのだというのです。「主は良いことも、悪いこともしない」。(1・12)「この世は変わることはないと 信じているので、彼らはそれにたいして何一つ働きかけようとせず、それが破滅へ向かって一層ひどく傾斜するのをすべり落ちるままにしておくのである。」

  このような人々、このような社会に向かって、今預言者ゼパニヤは、主なる神の審判を告げるのです。「主は言われる、『わたしは地のおもてからすべてのもの を一掃する』。主は言われる、『わたしは人も獣も一掃し、空の鳥、海の魚をも一掃する。わたしは悪人を倒す。わたしは地のおもてから人を断ち滅ぼす』。」 (1・2〜3)「地のおもてからすべてのものを一掃する」というのは、あの「ノアの洪水」の再来です。それは、地上のすべてのもの、すべての人間はもちろ ん、すべての動植物までも、混沌の底から沸き起こり溢れ出て来る大水の洪水によって、すべて飲み込まれ、滅ぼされてしまうという、全世界的、全宇宙的な審 判の光景なのです。余談ですが、こう見てくると、ゼパニヤは「マイナー預言者」と言うより、「実に大胆で、壮大なメッセージを語る人」というイメージに変 わってきます。このことは、また別に、「主の日が来る」と表現されています。「主の大いなる日は近い。近づいて、すみやかに来る。主の日の声は耳に痛い。 ―――その日は怒りの日、なやみと苦しみの日、荒れ、また滅びる日、暗く、薄暗い日、雲と黒雲の日、ラッパとときの声の日、堅固な町と高いやぐらを攻める 日である。」(1・14〜16)

 そして、そのようなきわめて広く、また厳しい審判の後に、ゼパニヤが告げる救いのメッセージがあるので す。それが、3章の今日の言葉です。それは、一言で言って「喜びの歌」です。主なる神への賛歌なのです。「シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び呼 ばわれ。エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。」(3・14)いったい何を「喜べ」と言われているのでしょうか。それは、主なる神が成し遂げてくださ る救いについて、「この神の救いの業を見て喜べ」と語られているのです。
 まず、主なる神は、イスラエルの民の背きの罪を赦し、それに対する訴え を取り下げ、また裁きのゆえに迫り来た敵を追い払ってくださいます。「その日には、あなたはわたしにそむいたすべてのわざのゆえに、はずかしめられること はない。」(3・11)「わたしはあなたから悩みを取り去る。―――見よ、その時あなたをしえたげる者をわたしはことごとく処分し、歩けない者を救い、追 いやられた者を集め、彼らの恥を誉にかえ、全地にほめられるようにする。」(3・18〜19)

 次に何より、主なる神ご自身が、イスラエ ルの民の間に来られ、都エルサレムの内に一緒に住んでくださるのだというのです。「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。あなたの神、主は あなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜 び呼ばわられる。」(3・16〜17)「主があなたのうちにおられる」、これこそ喜び、幸いの根源であり、中心なのです。ある人が場の中に加わると、急に その場が和み、活気づき、喜ばしくなるということがあるでしょう。「ムードメーカー」というものですね。それと同じように、いやはるかにその次元を超え て、主なる神は人々のただ中に来て、ご自身の存在そのものによってかれらが生きる場の性質とあり方そのものを全く変えて、そこに生きる力と喜びと愛、そし て希望をご自身から発して豊かに与えてくださるのです。
 このすばらしい約束は、私たちの信仰によれば、イエス・キリストによって果たされ、クリ スマスの出来事によって実現しました。まさに「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1・14)のです。「わたしたちはその栄光を見た。そ れは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。「これは、『神われらと共にいます』という意味である。」(マタイ1・23)

  そしてさらに主なる神は、イスラエルの中に「残りの者」「残りの民」を残し、この人々によって、ご自身の救いの業を具体的・現実的に成し遂げてくださるの です。「あなたは重ねてわが聖なる山で、高ぶることはない。わたしは柔和にしてへりくだる民を、あなたのうちに残す。彼らは主の名を避け所とする。イスラ エルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、その口には欺きの舌を見ない。」(3・11〜13)「残りの者」という思想は、聖書の全体にわたって見られ るものです。厳しい徹底的な裁きの中でも、ごく少数の者だけが「主に従う者」として憐れみによって残され、その人々を通して、神の愛と救いが全体の人たち に再び及んで行く、というものです。
 そして、なんとこの約束は、あのナザレのイエスのうちに完全に実現されました。なんと、あの「神われらと共 にいます」ということそのものである方が、まさにこのような方だったのです。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わ たしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11・29)なんと、私たちのただ中に来て、共に住んでくださった 神ご自身が、「残りの者」の「第一号」となってくださったのです。主なる神は、このお方を「出発点」として「残りの者たち」「残りの民」を創り、集めてく ださいます。このお方を「かしら」として生きる人を生み出し、このお方の存在と言葉と生き方に基づいて生きる人々を、主なる神が創り、与えてくださるので す。かれらを遣わし、導き、用いて、ご自身の愛と平和の業をこの世界のただ中で実現しようとしてくださるのです。

 来年9月に中部連合で お呼びすることになった川上直哉先生という方がおられます。川上先生は、東日本大震災後、東北ヘルプという団体を立ち上げ、被災地の支援にキリスト者の立 場からずっと携わって来られました。川上先生のメッセージの中に、このイエスによって開かれ与えられた「柔和にしてへりくだる民」の生き方とそれによる救 いの道を教えられました。
 「この世の終わりだ、と感じる経験を、私たち東北の人ひどは、つい最近、いたしました。地震が起こり、津波が襲い、原 子力発電所が爆発した、それは、ついこの間のことです。この世の終わりだ、というのはどういうときでしょうか。それはおそらく、人間が人間として扱われな い、自分が人間扱いを受けなくなってしまうときだろうと思います。まことに残念ながら、そういうことは起こる。―――もし、皆さんが、誠実に、目の前の人 を大切にして生きていこうとするなら、きっといつか、皆さんは、自分が人間扱いされない、という屈辱を味わうと思います。残念ながら、私たちが生きている 世界には競争があるのです。生き残ろうとして他人を出し抜き、あるいは足を引っ張り合いながら、私たちは生きている。その意味で、世界は残酷です。」「絶 望しないで、苦しみの中で、目の前の人を大切にしなさい。そうすると、人々は、『いいカモだ』と言わんばかりに、あなたたちをいじめるでしょう。そして、 あなたたちの間で、『やっぱり、人を大切にするのは無駄だ、自分も生き残りたい、ほかの人たちがそうしているように、自分も他人を蹴落として、楽に生きた い』という思いがわいてくる。裏切り者が、出てくる。そして、やはり、嘘がはびこる。『目の前の人を大切にしても、意味がない』という嘘が、はびこる。そ して、恐ろしいことに、愛ですら、冷え切ってしまう。」
 「そういう世界をどうしたら『まし』にできるのでしょうか。イエスという人の生涯が、そ の答えです。つまり、だまされ、馬鹿にされ、侮られ、利用され、使い捨てられても、人を大切にし続けること。そうすることで、世界はやっと、すこしずつ、 優しくなる。イエスという人は、そのことに徹した。それでイエスはついに、人間扱いされなくなり、酷い目に遭って殺されていった。どうしてそんなことがで きるのか。多くの人が不思議に思いました。そして、多くの人がイエスのように生きようと思いたち、少しずつ、世界は優しいものとなっていきました。たとえ ば、150年前、明治政府からの圧力により、仙台で生まれた子どもたちは、教育を受けるチャンスが奪われていました。戊辰戦争に負けたからです。それで、 仙台の若者は差別され、人間としての扱いを受けることができなくなっていました。その状況に心を痛め、仙台の人々を大切にしようとした一人の米国人女性が いました。(アニー・サイレーチ・ブゼル)クリスチャンでした。彼女は学校を作り、人々を助けました。その学校がこの尚絅学院です。」(川上直哉『被災地 の日常から』より)
 「シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び呼ばわれ。エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。あなたの神、主はあなた のうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。」「わたしは柔和にしてへりくだる民を、あなたのうちに残す。」まことにあのイエスこそが、復活の勝利 のうちに今も私たちの間、ただ中で生きておられ、このような方として今もその働きをなし、その道を私たち共に生き、歩んでいてくださるのです。私たちはこ のお方を待ち望み、このお方の到来と臨在を喜び祝い、分かち合うのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  ゼパニヤが告げた預言の通り、主イエスは「共にいます神」として私たちのただ中に来て、共に住んでくださいました。今も「柔和にしてへりくだる方」とし て、私たちの間で生きて働き、その愛と救いの業を続けていてくださいます。このお方の到来であるクリスマスを、多くの方々と心から喜び祝うことができます ように。また、このお方を喜び迎えるにふさわしい生き方と道を、私たち一人一人と教会に開き、与えてください。この道の上で出会う一人一人を大切にし、共 に互いに助け合って共に生きる力をお与えください。
世のまことの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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