一つの石が、人手によらずに              ダニエル書第2章31〜35、44〜45節

                
  イエス・キリストの降誕を待ち望む第二週目です。救い主イエスは、まさにあなたのために来られました。たとえあなた一人のためであったとしても、間違いな くおいでになったことでしょう。新生讃美歌にもあるように、「イエス・キリストが今私の心に生まれた その愛の深さに気づくクリスマス」(新生賛美歌 180)なのです。それは真理であり、まぎれもない真実です。けれどもまた、もう一つのことも確かな真実なのです。それは、「イエス・キリストは、この世 のために来られた」ということです。「この世」、この世界全体のために来られ、この世の歴史のただ中においでになったのです。今日は、その意味で、イエ ス・キリストがこの世界のため、この私たちの歴史の中においでになったことの意義と関わりを、ご一緒に聖書から聴いてまいりましょう。

  昔から、世界の歴史、人間の歴史の流れとその意味を読み解く試みが、様々な仕方でなされてきました。古代における、その一つの有力な形式は、「夢」です。 夢の中で、神は、というかもう少し広く「神々」あるいは「神仏」はと言ってもよいのですが、そういう超越的な存在者が、人間が見る夢の中で、この世界の真 のありようとその成り行きとを示される、と信じられていたのです。とりわけ、王などの権力者・支配者が見る夢は、国家や世界の成り行きに大きな影響を及ぼ すものとして見られました。
 古代の西アジア世界を支配する大帝国バビロニアの王ネブカデネザルは、一つの夢を見ました。それはこのような夢で あったと語られます。「王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観を 持っていました。その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。あなたが見ておられたとき、一つの石 が人手によらず切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場 のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を打った石は、大きな山となって全地に満ちました。」
 ネ ブカデネザル王には、この夢の意味がさっぱりわかりませんでした。それで、はなはだしく不安になり、深い恐れを抱きました。そこで王は部下の知者・学者た ちを呼び集め、厳しく問いただしました。かれらは、「まずその夢の内容をお話ください」と願いますが、王は聞き入れず、許しません。「あなたがたは、まず 私が見た夢の内容を当て、告げてみよ。そうしたら、あなたがたが本当のこの夢を解き明かす力があると認めよう。そうでなければ、あなたがたは時間を稼ぎ、 夢の意味を適当にでっち上げようとしているのだ。それができなければ、学者たちは皆殺しだ。」知者たちは恐れました。「そんなことができる者はどこにもい ない。」
 そうこうするうちに、王の家来たちは、ユダヤの地から囚われの身となって連れられて来ていた知者ダニエルたちにたどり着きました。ダニ エルは「どうしてこんなことに」と尋ねます。その答えを聞いた彼らは、皆で一緒に主なる神に祈ったのでした。「どうか、この夢とその意味を示し、我らをお 救いください。」祈り祈った末に、神の答えと示しがありました。まさに、「秘密をあらわすひとりの神が天におられる」のです。
 こうしてダニエルは、王の前に出ました。そして、あの夢そのもの、その内容をことごとく告げ、次いでその解き明かしを語ったのでした。

 この夢とその解き明かしには、二つの要点があります。
  まず一つ目は、「像の四種類の金属から成る四つの部分は、四つの世界を治める大帝国を表し、その四つの国が次々に起こって、興亡を繰り返す」というもので す。「王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力を勢いと栄えとを賜い―――ことごとく治めさせられました。あなたはあの金の頭です。あな たの後にあなたに劣る一つの国が起ります。また第三に青銅の国が起って、全世界を治めるようになります。第四の国は鉄のように強いでしょう。―――鉄がこ れらをことごとく打ち砕くように、その国はこわし砕くでしょう。」
 一番の重点は、最後の第四の国、「鉄の国」にあります。それは、「鉄のように こわし砕く」、破壊的な政策と支配を行う、最悪の国なのです。このダニエル書の解釈には、いろいろな違いがあるようです。そもそもこのダニエル書が書かれ たまさにその時代には、ユダヤの地をアレキサンダー帝国から別れたシリアとう国が支配しており、アンティオコス・エピファネスというとんでもない王が君臨 していました。この王は、イスラエルの信仰に正面から挑戦し、エルサレム神殿に異教の神々の像を造りそれを拝ませ、さらには自分自身を「神」として拝ませ るという、悪と暴虐の限りを尽くしていたのです。
 あるいは、この「鉄の国」を「ローマ帝国」と取る見方もあります。「第四の王国は、鉄と粘土が 人間の種によって混じり合うと記されますが、これはローマ帝国が様々な異なった文化をまとめることで未曾有の世界帝国となることを指していると思われま す。それは現代の多国籍企業の原点であり、人間の知恵による組織化の成功の模範のようなものです。」(高橋秀典『今、ここに生きる預言書』より)そしてそ の支配は巧妙であるが、苛烈で残酷なのです。読者は皆、自分が生きる時代を、「この鉄の国の支配」に当てはめて読むべきなのです。
 しかしこの解 き明かしが告げるのは、「この国も過ぎ行く」ということです。第一から第三の国々が、それぞれ繁栄と栄華を誇りながらも、乗り越えられて滅ぼされて、次々 に過ぎ去って行ったように、この「鉄の国もまた過ぎ行く」。しかも、これらすべての国々の滅び行き過ぎ去り行く成り行き、その興亡の歴史を治め、導いてお られるのは、天におられるただ一人の神、主なる神なのです。そこからこの書は、励ましと慰めのメッセージを語るのです。「どんなに、この鉄の国がひどかろ うとも、その支配はつかの間であり、それは神によって滅び去り過ぎ去り行くのだ。だから、あなたがたも、ダニエルたちのように、信仰と忍耐と祈りに基づい て語り行い、正しく愛と希望において生きよ。」

 この夢とその解き明かしの第二のポイントは、それらの国々の末に起こる「一つの国」のこ とです。「それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらの もろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。一つの石が人手によらず山から切り出され、その石が鉄と、青銅と、粘土 と、銀と、金とを打ち砕いたのを、あなたが見られたのはこの事です。」この「一つの国」とは「神の国」であり、「一つの石」とはそれを実現するメシア、救 い主です。「一つの石」、どこからともなく、神の手によって切り出された一つの小さな石が、あの四つの部分からなる大帝国の像を打ち、砕くのです。そして この「神の国」の支配こそは立って全世界に及び、永遠にわたって続くのだと言うのです。
 私たちが知り信じているのは、ローマ帝国の時代に、まさ に「一つの石が人手によらず、ただ神によって切り出された」ということです。それは、私たちの救い主イエス・キリストの誕生を指し示し、告げているのでは ないでしょうか。それはまさに「人手によらず」、人にはほとんど知られずただ神によって起こされました。しかもそれは小さい「石」であり、さらには「人々 から捨てられた石」とまでみなされました。「イエスは彼らを見つめて言われた、『それでは、「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』―――すべてそ の石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう。」(ルカ20・17〜18)
 しかしこの「人から捨てられた石」が「隅のかしら石」となったのです。人々から捨てられ裁かれて十字架で死なれたこのイエスが、神によって起こされ立てられて復活の主、世のまことの救い主、全世界の主とされたのです。
  このお方のご支配は、今までの「四つの国」とまるっきり異なっていました。ダニエル書の後半で、今日の箇所と似通った所が出て来て、その中で人間の国々は 「獣の国」と言われています。つまり、「欲望と競争によって争い合い、強い者がそうでない者たちを押さえつけ、苦しめ傷つけて支配する国」としてイメージ されているのです。これに対して、神によって立てられた国は、「人の子」が支配する国と言われています。そこには、良い意味での「人間的」な支配のあり方 が示されているのです。つまり「人間的な国」、人間の権利と尊厳とが回復され守られる統治のあり方が語られているのです。「それに対して、『一つの石』か ら始まるキリストの王国は、鉄の強さによってではなく、一人ひとりの心のうちに働く御霊の力によって、地道な愛の交わりを作り出し、世界に広がって行きま す。―――多くの人々は、競争者の台頭や、より優秀な人によって仕事が奪われることを恐れています。しかし、歴史は優秀な者が劣った者を淘汰するという流 れで進むわけではありません。私たちが真に恐れるべき方は、すべての王国、すべての人を支配する『天の神』であり、私たちが望みを置くべきは、目に見える 王国ではなく、『一つの石』から生まれる永遠の国のことなのです。」(高橋秀典、前掲書より)

 広島の原爆の悲劇をリアルに描き続けた文 学者、原民喜と彼に影響を受けた人々のことが紹介されています。1905年広島に生れた原民喜は、「唯一の希望であった妻貞恵との生活が彼女の死と共に奪 われ、さらにその直後、原民喜は広島の原爆を体験し、この世の地獄を体験します。絶望につぐ絶望。ところが、不思議にもこの絶望の中で生きる道を見つけま す。彼は広島の惨劇をそのまま直視し、その悲劇とその中にある人間をありのままに描くことを始めたのです。多分、この悲劇の中にある人間を直視することに よって、その向こうにある何かを探りとろうとしたのではないか。―――原民喜は妻の死と広島の悲劇の中で、死者と共に祈りうる世界、すなわち永遠の命の世 界を垣間見ながら、それ世界に至るための唯一の道、愛と祈りを語り続けたのです。」(加藤潔『イエスを探す旅』より)
 しかし民喜は、1951年 鉄道自殺を遂げてしまいます。「戦争と、原爆と、その後の大国の世界独裁の野望が、ひとつの純粋な魂を無残にも引きちぎり、悲しみと苦悩の末にやっとつか んだ復活の世界を、踏みにじったのです。―――ところが、彼の祈りは終わっていなかったのです。彼の祈りの心は、もう一つの悲劇を経てから現在に受け継が れています。」民喜の祈りを受け継いだのは、作家大江健三郎をはじめとする人々であったのだと言われます。「大江健三郎は原民喜、峠三吉とその妻、そして 広島・長崎の原爆で殺された人々の命を愛そうとしています。その命を受けつごうとしています。広島・長崎の地獄から出発する命の歴史、愛の歴史を信じよう としています。戦後の日本、現在の日本に、このように愛と命を見つめる人間が存在すること、それは事実です。歴史の表舞台には出ないかもしれないが、あの 原民喜が垣間見た愛と平和の祈りの世界を、いまなお信じようして、そのことのために生涯を貫いて、一切の努力を捧げて惜しまない人々はいるのです。――― ただ一つ言えることは、平和を祈る祈りは確実に地球を覆っているということ、その祈りこそが歴史を作りつづけるであろうということです。―――平和という なにか完璧な状態がどこかにあるのではなく、それは愛と命の貴さを信じて生き、時には挫折し、時には強く立ち上がり、人から人へ、世代を超えて受けつがれ る命の歴史そのものである。―――『神はイエス・キリストによって平和を告げ知らせた』。―――すなわち、イエスというお方が地上をかく歩まれた。その生 涯そのものが神から人間に与えられた平和の知らせなのだ。―――私たちにできることがあります。すなわち、歴史の舞台の隠れたところで、愛と命と平和の祈 りが捧げられている。その苦悩に満ちた、しかし復活の世界を垣間見る祈りをわがものとして祈る、そのことはできるのです。イエスの生涯が平和を告げていま す。ゆえに私たちは、神は絶対にこの世界を見捨てないとの確信を抱き、伝えることができます。人間は確かに苦しみ、悲しみ、絶望する。教会もまた絶望する 時がある。しかし、絶望しつつ希望を語るという離れ業があるのです。すっかりめげてしまっても、なおもしたたかに生きるという逆転の極意があるのです。か くして私たちは小さな群であってもイエスの平和の福音を伝えつづける者としてここに存在するのです。」(加藤潔、同上)
 「一つの石が人手によらず山から切り出され」、「天の神は一つの国を立てられます、この国は立って永遠に至るのです」。この「石」イエス・キリストを、私たちは待ち望み、信じて、彼と共に歩むのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  私たちの「救いの石」なるイエス・キリストによって御国は始められ、今完成を目指して急いでいます。どうか私たちもこのお方によって立てられる者として、 共に生き、互いに仕えて歩む一人一人、また教会としてください。来るクリスマスが御心にかなう多くの人々にとって、喜びと希望の時として祝われ、豊かに分 かち合われますように。
神の国の主、世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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