わたしは新しい天と新しい地とを見た              ヨハネの黙示録第21章1〜4節

                
  キリストの教会は、「見る」ことによって生きるのです。教会は、この光景をじかに見ることを目指して生きるのです。「わたしはまた、新しい天と新しい地と を見た。」やがての時この光景を見るために、今この光景をまさに見ているかのようにして生きるのです。「わたしは新しい天と新しい地とを見た。」
  この光景が示されたのは、それとは真反対の現実のただ中においてでした。この「ヨハネの黙示録」が書かれた時代、一般的に一世紀の後半、おそらくは90年 頃と言われていますが、それは一言で言うなら「混乱と危機の時代」でした。この五十年の間に、いろいろな、いたってひどいと思われる出来事、事件が数多く 起こったのです。まず、あちこちで戦争が起こりました。そしてユダヤではついにあのエルサレムが陥落し全面的に破壊されました。60年代には暴君ネロの恐 怖政治が行われ、その後は政情不安が続き、次々と皇帝が交代します。多くの地震などの自然災害が発生し、79年にはイタリアのヴェスヴィオ火山が噴火し、 有名なポンペイの埋没が起こっています。90年代はじめには各地で飢饉がひどくなり、多くの犠牲者が出ました。
 そういう大変な時代の中で、特に キリスト教会は、とりわけ貧しく弱い立場に置かれていました。多くのメンバーが、奴隷など下層階級の出身です。伝統もなければ、きちんとした礼拝施設もあ りません。クリスチャンたちはローマの国家宗教行事に加わらないので、「非愛国的」と言われていました。また「主の晩餐」が誤解を受け、「教会は人喰いを している」などというデマを流されました。おまけに「教祖」のイエスは、ローマの政治犯・反逆者として処刑されています。それに対する強い反感があり、少 数者であることによる社会的・経済的差別があり、異教文化の中での緊張、葛藤、そして攻撃が降りかかりました。さらには、皇帝崇拝の強制が行われ始め、 「大迫害」の予感が高まっていました。
 悪と不正が社会を覆い、人間の苦しみと涙が満ちあふれている、人々の人権と尊厳が奪われている、「こんな 時代が、こんな世界がいつまで続かなければならないのか」、そう問わざるを得ないのです。それは、あの古代も、そして今私たちが生きるこの時代も、全く変 わりはありません。
 そのような時代の教会の人々に向けて、このヨハネという長老は、今こう語り始めます。「あなたがたの兄弟であり、共にイエス の苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしはヨハネは、神の言とイエスのあかしのゆえに、パトモスという島にいた。」彼は「神の言とイエスのあか し」、つまり神の言葉を宣べ伝え、主イエスを証ししたがゆえに捕らえられ、パトモスという島へ流され、おそらくはその牢獄の中にいたのです。そこから、彼 は「全世界にいる教会」に向かって、すべての「悪い時代」の中で苦しむクリスチャンたちに向かって、神から示され託されたメッセージ、ビジョンを語るので す。「来たるべき神の業、神の国の光景を見よ、これを見てあなたがたは生きよ。」

 「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。」
  ここでヨハネから聞くべきこと、見るべきものは何でしょうか。それはまず何より、「新しい」ということです。それは、全き新しさ、完全なる新しさなので す。二つの「新しさ」があります。一つは、私たちが知っている「新しさ」です。それは、「新品の新しさ」だと言えるでしょう。ぴかぴかの新品も、時間が経 てばいつか古びて衰えます。しかし、もう一つのこの「新しさ」は、神による新しさ、全く古びることも滅びることもない新しさです。しかも、「先の天と 地」、つまり今私たちが生きる罪と悪の世界、闇の世の性質と内容を、完全に克服した新しさなのです。「自らの罪を告白することによって互いの関係を立て直 すという努力を諦めたように見えるこの世界のことである。げんこつを振り上げて相手を脅すことが社会正義を実現する唯一の道であるかのように勘違いしてい る我々の世界のことである。地雷や劣化ウラン弾やクラスター爆弾―――などの使用が人類の将来にどれほど致命的な影響を及ぼすかについて全く想像力を欠い た我々の貧困な世界のことであり、憎しみと報復の絶望的な悪循環をどうしても断ち切ることができない我々の無力な、哀れな世界のことである。」(村上伸 『ヨハネの黙示録を読もう』より)これらを完全に克服した新しい世界なのです。
 次にここで言われていることは、その「新天新地」は、「共に住む 場所」であるということです。「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下ってく るのを見た。」「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして」。「神の国」とは、私一人が何となく楽し いとか嬉しいということではなく、「共に住み、共に生きること」なのです。神と人が共に住み共に生きる、それに基づいて人と人もが共に住み、共に生きるの ことです。そしてそれは「都」、一つの場であり、空間であり、さらに言えば一つの社会なのです。
 さらにここで私たちが聞き、見るべきことは、そ れは「ない」という言葉によって表現される、全き慰めと救いです。「神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや死もなく、悲 しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」そのような世界を、残念ながら私たちはあまり良く思い浮かべることができませ ん。それほどにこれらのものは、私たちが日々に直面する厳しく悲しい現実そのものです。しかし、やがて、それらの一切のものが「もはや、ない」と語られる 日が来るのだと、神のビジョンは見せ、約束するのです。

 どのようにしたら、これほどの神の約束、ビジョン、神による全く新しい世界というものを信じることができるのでしょうか。
  神の初めの創造を信じるならば、この来たるべき新しい世界とその創造をも信じることができるでしょう。私たちは、「神様が初めにこの世界を創られた、創造 された」と信じています。でも、本当にそう信じているでしょうか。もし信じているなら、この新しい創造をも信じられます。一度この世界を創られた神様な ら、もう一度新しくこの世界を創り直すことがおできになるでしょう。そして、真実なる愛の神様ですから、「もうだめだ、もうやめた」とこの古い世界を投げ 出さず、見捨てずに、完全に良い、新しい世界を創ってくださるに違いなのです。
 さらに、私たちの救い主イエス・キリストの生涯と、そこに完全に 表された神の愛を信じるなら、なおさら私たちはこの新しい世界の約束を信じることがゆるされます。その私たちとその世界に対する神様の愛は、いったいどれ ほどのものなのでしょうか。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。」(ヨハネ3・16)「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたし たちすべての者のために賜ったかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。」(ローマ8・32)と語られています。すべてを渡して 捧げ尽くす愛、命がけの愛、自らを完全に与える愛、それがイエス・キリストによる神の愛です。これほどに愛される神だからこそ、この新しい世界を約束し、 実現なさると信じられるのです。
 さらに進んで、そのような愛と真実の神、イエス・キリストの神ならではのみ心とご計画が示され、見えてくるから です。九州の炭鉱地帯筑豊で長らく伝道をされた犬養光博先生は、同時に「カネミ油症事件」の被害者やその家族の支援活動をも行ってこられました。そのカネ ミ本社前での座り込み運動で出会った紙野柳蔵さんの言葉を引きつつ、このような洞察を語っておられます。「『考えてもみてください。私たちがまだ行ったこ ともない、また会ったこともない中東のだれかが、ちょっと儲けてやれというので石油の輸出を制限したり、その値段を上げたりすると、日本の私どもまでその 影響を受けて困るわけです。―――石油という媒介物を通して、私たち地球上の人間はみなお互いに結び合わされていることを知らされました。―――』人間が お互いに網の目のように結び合わされているという認識は深いものです。―――網の目のように連なっているのですから、どこかでだれかが悪い思いを持つなら ば、それは必ず全体に影響を及ぼします。逆に、どこかでだれかが良き存在たれば、網の目全体も良き存在になるのです。―――『教会』もまた、この網の目の ように張りめぐらされた人間と人間の絆の中に存在しています。そして、『教会』はイエス・キリストによって贖われた存在です。そうであれば、教会は世界 大、宇宙大に広がっていることがよくわかります。『教会』がイエス・キリストによって新しくされるならば、それはこの世界が新しくされることです。」(犬 養光博『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』より)教会を救い、一人一人の信仰者を救ってくださった神は、必ずやこの世界、この宇宙全体をも救ってくださ る、そのように信じ、望むことがゆるされるのです。

 「人は、ビジョンによって生きる」と言われます。何を見、何を信じ、何を望むかに よって、その人の生き方が決まるのです。ビジョンなき人、希望なき人は、こうだというのです。「希望を棄てた人は、より良き将来を期待することも、他者に 対して善意を持ち続けることも、忍耐することもできなくなる。短絡的になり、自暴自棄になって直ぐに暴力に訴えようとする。暴力こそは絶望のしるしだ。今 の世界は、正にこれではないか。絶望の泥沼!」(村上伸、前掲書より)
 しかし、この神による幻、ビジョンを見、その約束を聞いた人は、それとは 違うように、全く違うように生きるのです。今ここから、神の国の作法・メソッド、「新天新地」のやり方・流儀で生きるのです。この地の有様を諦めず、そこ に生き住む人々を見捨てず、神を第一の方・唯一の方として礼拝しながら、希望を失わずに生きる。神から自分たちに与えられ委ねられた働きを、確信と喜び、 そして希望をもって行いつつ生きるのです。
 そのように生きる一人であるミトリ・ラヘブ牧師の言葉をご紹介します。「私は、イスラエルの占領下に 生きるパレスチナ人である。私を捕えるものは、日々私の生活をさらに困難にする方法を捜し求めている。彼らは私の民を有刺鉄線で囲み、周囲に壁をめぐら せ、その軍隊は私たちの周りに多くの境界を設ける。―――しかしこれらのすべての努力にもかかわらず、彼らは私から夢を奪うことはできなかった。彼らの抑 圧は、彼らと共にある共同について私が考えるのを妨げられなかった。―――私には、私自身の子どものように大切に育て、世話をしている夢がある。―――私 には、ある日目が覚めると、二つの平等な民が互いに隣接して住み、地中海からヨルダンまで伸びているパレスチナの地に共存しているのを見る夢がある。これ ら二つの民は、この小さな一片の地を分け合うことを学んでいる。彼らは、自分たちの運命はすでに分けることはできず、唯一の可能性は共に生き残ることであ り、そうでなければ共倒れであるという確信に至っている。―――私には、壁で分けられることのない二つの民という夢がある。―――停戦協定と小さな戦争 は、もはや私たちを満足させない。二つの民に必要なのは、平和、すなわち現実的で正当で真実の平和である。―――私が夢見るエルサレムは、もはや東側と西 側を分けるアーモンド門をもたない。それは、二つの民を受け入れるのに十分な大きさを持つ開かれた町である。その数々の小道と大通りは、三つの一神教すべ ての信者と、あらゆる民族の諸個人を運ぶのに十分な広さを持つ。―――私には、相互に平和に隣り合って住み、無為に費やされるだけの武器に莫大な資源を浪 費する必要のない二つの民の夢がある。これらの二つの民は、軍備競争にそのエネルギーを浪費せず、その代わりに社会正義に基づいた健康的な経済の建設で力 を競うだろう。」(ミトリ・ラヘブ『私はパレスチナ人クリスチャン』より)
 それは、ある意味では「地上の平和なエルサレム」を望む夢でしょう。しかしラヘブ牧師は、あの「新天新地」と「新しいエルサレム」を見ておられるのです。あのビジョンを信じ、見、望むからこそ、この夢を見、この希望に生き、働いておられるのです。
 私たち一人一人と教会もまた、このビジョンを望み、見ることによって生き、仕え、働くのです。「見よ、私は新しい天と新しい地とを見た。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを最後まで愛し通される神よ。
 あなたは、悪しき時代、悪しき世にあって、ヨハネを通して「新天新地」のビジョンを語られました。それは、最初の天地創造に基づき、何よりイエス・キリストによる愛と真実とのゆえに、必ず果たされ、実現されるべきものです。
 どうか今、この幻を私たちにも語り、見せてください。そして私たち信仰者一人一人とその教会もまた、この「新天新地」を信じ、見、望み、それによって生き、働き、歩む者たちとしてください。
平和と希望の主、世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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