共に見て、共に望む              ローマ人への手紙第8章18〜25節

                
  どの分野・どの業界にも、「専門用語」というものがあります。その内部の人にはよくわかって「当たり前」のような言葉なのですが、「外の人」には何のこと だかさっぱりわからない、そういう言葉です。実は、キリスト教、キリスト教会にも「専門用語」があります。教会では「当たり前」のように使われますが、 「外の人」にはわかりません。
 その教会の「専門用語」の一つに、「信仰」というものがあると思います。「信仰」、「信仰」。教会では、もう本当 に「当たり前」のようにして使われます。「信仰を持つ」、「信仰によって」、「信仰に生きる」、「信仰者」などなど。先週もそんな話をしましたが、「信 仰」っていったい何ですか。実は、私たち教会人というか、クリスチャンも、よくわかっていないかもしれません。私たちは、「信仰」って、「心の中で何かを 思っている」のように思っているかもしれません。「神様って本当にいるんだ」とか、「イエス様はいつも私たちと共におられる」とか、そういうことを「心の 中でひっそりとじっと思って、考えている」、「それが信仰だ」と思っているかもしれません。

 でも、それは「違うのだ」とパウロは言って いると思うのです。では、「信仰」とは何なのか。「信仰」、それは「見ること」なのです。しかし、それはちょっとおかしいのではないか。なぜなら、今日の 所でパウロもこう言っているではありませんか。「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜな ら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」また、「もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むので ある。」つまり、ここでパウロは、私たちの「信仰」というのは、「現に見ているのではない」こと、「見ない」こと、「見えない」ことに深く関わっているの だと言うのです。「見えない」からこそ、それを信じて、希望を抱き、その実現を待ち望むのだ、と。
 そうです、その通りです。「信仰」とは、「現 に見ていること」「今見える」ことを見るのではありません。けれども、私が強く思いますことは、「信仰」とは、「現には見ていない」「今は見えない」「私 たちの肉の目には決して見えてこない」そのことを「見る」こと、「見えないはずのことを、見えるかのようにして生きる」ことなのだ。神の助けにより、「見 えない」はずのそのことを、「それは必ず実現し、すべての人にとって見えるようになるのだ」と心から思い、信じ、それを望み見て、将来の希望のうちに見 て、それによって生きることが、まさに「信仰」なのだと思うのです。

 その反対に、では、私たちが「現に見ている」こと、私たちのこの肉 眼に否応なく見えてくること、それは何でしょうか。それは、「苦しみ」なのだとパウロは言います。「今のこの時の苦しみは」。「被造物が虚無に服し」、そ して「滅びのなわめ」に捕らえられている。また、「被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている」。「被造物」というのは、「神 に造られた物」という意味です。「神様によって造られたもの」、それはこの「世界のすべてのもの」を意味します。動物、植物、あらゆる自然物。またその中 で大きな位置と意味を占めるものとして、私たち人間一人一人があります。また人間によって造られた様々な人工物があります。そういうものすべて、すべての 被造物が、今に至るまで「虚無に服し」「滅びのなわめ」の中にあり、「苦しみ」つつ、「今に至るまでうめき」を発している。それが、パウロが見た世界であ り、今現に私たちが見ている世界、私たちに見えているその有様なのです。
 「このところ、様々な自然災害が起り、多くの人々の命が失われました。 ―――『これまでに体験したことのない大雨』という表現が気象予報で用いられるようになり、それが毎年のように起っています。―――地球の温暖化をそうい う所で実感させられます。―――つまり私たち人間の活動によって地球の環境が汚染され、破壊されているのです。地球の自然は今、人間による破壊によってう めき苦しんでいる、そのしっぺ返しとして、様々な自然災害が起っていることを私たちは感じています。人間の造り出したものが環境に対する重大かつ深刻な汚 染、破壊をもたらしている、その代表があの原子力発電所の事故です。―――大気中への放射性物質の放出は止まっていないし、汚染水は全然コントロールされ ていません。メルトダウンした核燃料がどうなっているのか未だにはっきり分かっていないし、廃炉に向けての作業の間に何が起るか、全く予断を許さない状況 です。人間が、大量のエネルギーを、つまりは富を得るために造り出した施設が制御不能になり、人間が処理することの出来ない汚染物質が大量にばらまかれ、 今後何十年、何百年にわたって人が住むことの出来ない地域が生じ―――放射能のためにそこに人は住むことができない、そのように汚染されてしまった自然の うめき苦しみの声、そのような汚染をもたらした人間への恨みと呪いの声なき声が聞こえてくるようです。被造物のすべてが今うめき苦しんでいる。そしてその 責任は私たち人間にあるのです。 しかしうめき苦しんでいるのは自然だけではありません。私たち人間もまたうめき苦しんでいます。―――私たちが築いてい るこの社会も今うめき苦しんでいます。―――確かに今、豊かな者と貧しい者の格差が拡大しています。このままでは、格差が固定化し、人々の心がますます荒 み、絶望が広がり、社会の一体性が失われていくことが懸念されます。世界全体でそういうことが起っており、武力対立や暴動、テロの背景には、格差に対する 人々の怒りの高まりがあります。この社会全体が今悲鳴をあげ、うめき苦しんでいるのです。」(藤掛順一氏)

 そのような世界のただ中で、 そのような私たちの社会、私たちの有様にありながら、「信仰」は、神によって助けられて、「見ていないこと」「目に見えないこと」を、神に信頼を置くこと によって「望み見る」のです。「神様は、この世界をそのままには捨て置かず、私たちにこれらのことをしてくださるのだ、このことを必ず実現してくださるの だ」と確信して、それをあたかも既に今「見ている」かのようにして望み、その「見る」ことに基づいて生きること、それが信仰なのです。
 では、 「信仰」が望み見ていることとは、何でしょうか。パウロは言います。「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由にいる望みが 残されている」。また、「わたしたち自身も―――子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」。それは、短く端的 に言えば、私たち自身が回復され、この世界が新しく創られることです。この世界の「虚無」「滅び」、私たちの「苦しみ」「うめき」、それらは神様が望んで おられたことではありません。神様が「よし」としておられることではありません。神はこの世界と私たちを決して見捨てず、そのすべての破れ、「虚無」「滅 び」「苦しみ」を克服し、すべての傷をいやし、欠乏を埋め、いやそれどころか、今まで以上の世界、「すべてが生きる」、すべての被造物が喜びと誇りと輝き をもって生きる、争わず苦しめ合わずに、祝福と調和のうちに共に生きる、そのような私たちと世界を新しく、全く新しく創り出してくださる、その業を、その 様を、信仰と希望のうちに「見る」「望み見る」のです。「何物も忘れられていない。何物も失われていない。何物も取り消されていない。すべての人、すべて の物に考慮が払われている。すべての人が救われ、すべてのものが成就される。―――泣いていた者も、たとえ今絶望の涙、死の悲しみ、悔悟の苦しい涙のゆえ に泣いていても、再び笑い、『今やすべてのものは良い』と言うことができる。」(ゴルヴィッツァー『新しい天と新しい地』より)
 なぜ、そんなこ とを「見る」ことができ、「望み見る」ことがゆるされるのですか。それは、「イエス・キリストのゆえだ」とパウロは言います。「希望は失望に終ることがな い。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5・5)「ご自身の御子をさえ惜しまな いで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」(8・32)

 私たちは、これらのことを、まさにこのことを「望み見る」「共に見る」ことによって、「救われる」のです。「わたしたちは、この望みによって救われているのである。」
 「救われている」、それはどんなこと、どんな有様、どんな生き方なのでしょうか。
  それは、まず、このようなものの見方、このような評価ができるということです。「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに表されようとい する栄光に比べると、言うに足りない。」(18節)それは、「言うに足りない」と見、評価できるということです。もっと積極的に言うならば、「今の苦しみ に負けない」、「今の苦しみのゆえに、虚しくならない、希望をなくさない」、だから「この世の悪や力に妥協や自粛や忖度をしない」という見方・考え方・あ り方であり、生き方また生きる力です。
 また次に、「被造物のうめき」を聞き取り、その「うめき」に合わせて自分たちもまた「うめく」、この世の 苦しみ、苦しみうめく人々に連帯し、共に生きようとすることができる力であり、生き方なのです。「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産み の苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。」それは、なかなか知られない、いや、多くの人は知りたくないから聞こうとしないのです。けれど も、私たちが信じるとき、神はその「うめき」を聞かせてくださり、聞けるようにしてくださるのです。「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわた したち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」
 私たちだけが「う めく」のではありません。私たちと共に、いやむしろ、神の霊、イエス・キリストの心、聖霊こそが、私たちのために、私たちと共にうめき、苦しみを共にし、 よって信仰を共にし、希望をも共にしてくださるのです。「この世の測り知れない悲惨に直面して私たち自身が惨めになるとき、地上の残虐な行為に対してほと んど何もすることができないために、私たちが弱り果てるとき、聖霊は私たちの弱さを助けてくださいます。聖霊は安価な慰めによってではなく、その都度、最 も身近にあることをするように私たちを勇気づけてくれます。」(E.ユンゲル説教集『霊の現臨』より)

 さらに進んで、聖霊は、神の業が 実現することを信じることを通して、私たちのこの「苦しみ」のただ中で、「希望のしるし」を見せてくださり、それによっていっそう信じ、望み、喜ぶことが できるようにしてくださいます。その「希望のしるし」とは、「イエス・キリストが、今ここから私たちと共にいてくださる、私たちの思いを超えて生きて働い ていてくださる」ということです。
 戦後日本の歴史の中で、北部九州にある筑豊という地区は、より一層しわ寄せを受け、苦しめられて来たところで した。石炭を産出する炭鉱の多い地方でしたが、石油へのエネルギー転換により切り捨てられたのです。その筑豊に60年代から入り住み、50年にわたって牧 師として働いてこられた犬養光博先生が証をされています。「福吉伝道所の開所が1965年ですが、『福吉は暗い谷間だ。この暗い谷間に光を与えなければな らない。福吉伝道所にはキリストがおられる。キリストがおられないこの福吉に、筑豊に伝道しなければならない。宣教しなければならない』と当初考えていま した。―――五年のあいだに、ぼくは福吉伝道所でいろいろな経験をしました。そして、教会の中におられるキリスト、教会の側にある光、教会の外の筑豊には 光がなく、キリストはおられないという考えを根底からつぶされました。―――ぼくは気づきます。伝道している、宣教していると言うけれども、ぼくが筑豊に 行くよりもずっと前からキリストはおられ、働いておられるということ。それで、そのキリストの業に筑豊の人たちといっしょに参与して驚きたいと思うように なったのです。力を込めてキリストを伝えなければならないとか、教会を建てなければならないとか、教会がなければそこにキリストはおられないとか、そうし たことを言えるのか。ぼくなどが行くずっと前から、筑豊の人が認めようが認めまいが、そんな事に関わりなくキリストはここで働いておられた。そういう経験 を何度かしたのです。」(犬養光博『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』より)

 私たちは共に望み、共に見、共に信じる、だからこそ私た ちは力を受けて、今ここで小さな私たちの業、限界を持つ私たちの働きをも、確信と期待をもって全力で行い、続けて行くことがゆるされるのです。「神が必ず や涙をぬぐって下さるゆえに、ここで既に涙をぬぐい、防ぐことは意味を持っています。『最後の敵』である死が必ず取り去られるゆえに、医者の死に対する戦 いは、それ自身としては無益と見えても、今既に大きな意味を持っています。―――神の国が必ずや自由の国として存在するであろうゆえに、ギリシャや南アフ リカやその他あらゆるところの存在する抑圧に対する戦いは、今既に神の国に対する意志表示になります。」(ゴルヴィッツァー、前掲書より)

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストによって私たちを最後まで愛してくださる神よ。
  「御子をすら惜しまないで、私たちすべての者のために賜った方が、どうして万物をも賜らないことがあろうか」、その通りです。神よ、あなたは私たちに「万 物」をも下さいます。今は、この「苦しみ」「虚無」「滅び」「うめき」の中にある、私たち一人一人、全被造物を、主よ、あなたは全く救い、回復し、さらに 新しく創造してくださいます。
 この希望を望み見て、信仰によって、それゆえに愛によって互いに助け、共に生きることができますように。この道、この福音を見て、語り、行い、証しする信仰者一人一人また教会として、今ここからお用いください。
まことの道、真理また命なる世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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