権勢によらず、能力によらず、わが霊によるなり              ゼカリヤ書第4章1〜10節

                
  旧約の預言者は、しばしば「幻」というものを見ました。「幻」というのは、「見える」形で与えられる神の計画、神の道、神の言葉です。肉眼では見えない、 今は見えていない、しかし神は必ずこのことを計画し、実現なさる、その光景を「幻」で見せられるのです。その「幻」を、預言者は人々、民に語ります。それ はまさに、「共に見る」ためです。この「見る」ことを、人々にも共に、信仰と希望において共有してほしいのです。
 預言者ゼカリヤは、中でも多くの幻を見せられた人でした。そしてその幻を、人々に語り告げたのです。それは、神の民イスラエルもまた共に見るべき光景として、またそれによって聞き取るべき神のメッセージを語り告げたのです。

  あるとき、ゼカリヤが見た光景はこうでした。彼のところに神の使い、天使がやって来て彼を呼び覚まし、「何を見るか」と問うのです。するとゼカリヤはこん な光景を見ました。「わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が一つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に七つのともしび皿があり、そ のともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの七本ずつの管があります。また燭台のかたわらに、オリブの木が二本あって、一本は油をいれる器の右にあ り、一本はその左にあります。」
 「幻」を読み解くために大切なのは、想像力です。皆さんは、この幻の情景を視覚的に思い描くことができますか。 私はできませんでした。それで、他の人の知恵を借りました。ある教会のホームページで、この幻の図解を載せているものがあり、「ああ、そうか」と思えまし た。それによると、一本の燭台があります。それから七つの管が枝別れして伸びていって、そのそれぞれの先にともしび皿がついています。そのそれぞれの皿に は、その上にある油入れの器から油が供給されて、その油によって七つの灯火が燃えています。そして、その油はどこから来るかと言えば、燭台の傍らに生えて いる二本のオリブの木から、油つまりオリーブ油でしょう、これが滴り落ちて油入れに注いでいるのです。
 このオリブの木から注がれる油は、何を表 しているかと言えば、それは後のメッセージからしますと、「神の霊」ではないでしょうか。神の霊が上から注がれ、その霊によって、七つの灯火は燃え、周り を照らすことができる。そして、もう一つの説明は、「これらの七つのものは、あまねく全地を行き来する主の目である」というのですから、「全世界におい て、主なる神は見て、治めておられ、そして全地にご自身の霊を油のように注ぎ、それぞれの場で灯火をともし、ご自身の働きを行っておられる」ということで はないでしょうか。
 ここから導き出されるゼカリヤに対する、また神の民の人々に対するメッセージは、これです。「ゼルバベルに、主がお告げにな る言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバ ベルの前に平地となる。彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろう。」
 なぜこのような言葉が語られ、聞か れなければならなかったかと言えば、そこに「大いなる山」があったからです。「大いなる山」があって、行く手をふさいでいたからです。ゼルバベルというの は、バビロン捕囚から帰って来てイスラエルの国を再建し、信仰の中心である神礼拝の場神殿を再建しようとする、イスラエルの総督、指導者の名前です。とこ ろが、このゼルバベルとイスラエルの民の前に「大きな山」が立ちふさがっていたのです。神殿建設を阻み妨害する様々な要因と出来事の数々。まず、かれら自 身が自信をなくし、無力でした。貧しい、お金がない、物資もない、力や権限もない、だから自信がない。また社会的・政治的妨害がありました。神殿建設を喜 ばない人々や勢力からの、物理的・精神的妨害。自分たちには、力がない、お金もなく、社会的権勢もない。ならば諦めるか、あるいは世の中と妥協し、力ある 者たちにすり寄って、なんとかおこぼれにあずかろうとして進めるか。そんな誘惑と迷いの中に、ゼルバベルをはじめとするイスラエルの民はいたのです。
  そんな中に、今神による幻が見せられ、神のメッセージが届き、響くのです。「万軍の主は仰せられる。これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による のである。」「自分たちに力がない、人間的能力やこの世的権勢がないからといって、落ち込むな、失望するな。すべてはわたしの霊によるのだ。すべての良き 業は、わたしの霊によって成し遂げられるのだ。それは、あの上にあるオリブの木から注がれる油によって、七つの灯火が燃やされるようにだ。」そして、「大 いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる」のだ。あの「大いなる山」、高く、厚く立ちはだかり、到底超えられない、到底のけるこ となどできない、かと言って回避することもできない、立ち往生するほかはない、立ち止まり諦めるよりほかはないと思い込んでしまっていた、あのもろもろの 障害と妨害を意味する、あの「大いなる山」は、今主の霊、主の力によって跡形もなく取り崩され、まっさらの平地となってしまうのだ。あなたがたは共にこの 幻、この光景を見よ。そして、主によって力づけられ、主によって希望を抱け。そして主の幻は、やがてこの神殿が完成せられ、その工事の締めくくりとなる 「かしら石」の設置の光景、その祝いの様子を描くところまで進むのです。「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって、大きな山が退けられ、平らにされ る」この光景を、神の民は共に見るべきなのです。「注目すべきは、私達が携わる一つ一つのプロジェクトに、これが当て嵌まるということです。教会に関わる 業、たとえば、伝道の業が進んで多くの魂が救われること、救われた魂がきよめられてキリストの姿に作り上げられること、その魂が真の愛に根ざした共同体を 形作ることが含まれます。―――これはとんでもなく難しい仕事です。私は時々、絶望的になってしまうことがあります。一向に教会が数的にも、質的にも成長 しない、私は一体何が出来るのだろう、何をしているのだろうと。しかし、この言葉は大きな励ましです。権力によらず、能力によらず、画策によらず、議論に よらず、私の霊によるのだ、と。」(中目黒教会ホームページより)

 私たちの主イエス・キリストは、幼い頃から預言者の書に親しんで成長 されました。そしてご自身もまた、一人の預言者、大いなる「預言者の中の預言者」としても働かれました。その主イエスが、ゼカリヤと似たようなことを言わ れています。「だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろ う。」(マルコ11・23)「神の国を何に比べようか。―――それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さい が、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる。」(マルコ4・30〜32)主もまた私たちに、 「神の霊、神の力によって、大きな山が動き退く光景を見よ。一粒の最も小さい種が、神の力、神の霊によって、最も大きな木にまで成長するその光景を見よ」 と言われるのです。
 何よりも、主イエスのご生涯こそ、この幻、「権勢によらず、能力によらず、わが霊によるなり」を、如実に示し、実現するもの でした。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12・24) イエス・キリストは、「一粒の麦」として、「地に落ちて」十字架の死を遂げられました。それは「呪われた死」「惨めな死」そして「無力で、無意味な死」さ らには「絶望的な死」のように見られ、思われました。しかし、この「一粒の麦の死」こそが、神の「豊かな実」をもたらし、すべての人の命と救いの出来事と されたのです。主イエス・キリストは、ご自身の「一粒の麦の死」の向こう側に、「豊かな神の収穫」の幻をまざまざと見、それに基づいてご自身の生涯を進ん で行かれたのでした。

 だから私たち自身も、幻を見るべきです。私たち自身も共に、神のビジョン、神の計画、神の道を、信仰と希望のうち に見るのです。「大きな山が退けられ、平らかな土地となる」その光景を、「一粒の麦が地に落ちて死んで、豊かな収穫を得る」をその喜びと幸いを、共に望み 見ることがゆるされているのです。
 旧東ドイツで全体主義体制が支配していた頃、そこにあったキリスト教会は政治的に圧迫を受け、社会的に不利な 弱い立場に立たされ、苦しんでいました。その地にあったクリスチャンたちの前には、「大きな山」が立ちふさがっていたのです。そこで、かれらは有名な神学 者であったカール・バルトに手紙を書きました。「バルト先生、私たちはこんな大きな山を前にして、この山に阻まれ圧迫されて、いったいどう生きて行けばよ いのですか。」
 バルトは、愛とユーモアのこもった返事を書きました。その中でバルトはこう語るのです。「そのような中でも、そんな『山』を前に しても、あなたがたは福音を信じなさい、イエス・キリストの福音、神の国の福音を信じ続けなさい」と。「世に向かって到来しつつある神の支配、あらゆる経 済的・政治的・イデオロギー的・文化的・かつまた宗教的人間王国に対するその優越と勝利との中にある神の国、―――この神の支配/国についての証しを、単 に小声で伝えるのではなく、声高に伝えること、なのです。」「そちら同様こちらでも繰り返し強く求められている自発的な体制順応主義を避けること、しかし また不毛な反対や反論も避けること、事柄に留まりそして耐え抜くこと、すなわちそちら同様こちらでも妥当し、そちら同様こちらでも奇妙なものであり好まれ ざる〈自由なる恵みの福音〉に留まり、そしてこの福音のもとに耐え抜くこと、であります。―――互いにこの重荷を担い合い、しかしまた―――その重荷を担 わねばならぬすべての者にとって確実であるただ一つの喜びを分かち合う」。「どうか、ご自身同様、あなた方の無神論者をも、勇気をもって神の側に数え、神 の所有(もの)として語りかける、というあり方が、あなた方に備わっていますように。―――確実なのは、神はかれらに敵対してはおられず、かれらの味方で もいますのだ、ということです。そして、まさにこれこそを、あなた方はご自身の側で、かれらのために、かれらに代わって、信じることがゆるされているので あり、また、信じなければならないのです。そうして、あなた方は―――かれらのためにも死んで復活し給うた主の証し人であることがゆるされているので す。」(天野有訳『バルト・セレクション6 教会と国家 V』より)
 そしてバルトは言うのです。「この神の福音、神の霊によって、この大いなる 山は退き、崩れ去るのだ、あなたがたはこの幻を共に見て、希望を抱くのだ」と。「あなた方は神の自由なる恵み信じておられますか?―――そうであれば、あ なた方は、あなた方のところで支配している体制を(それに加えて直ちに私たちの体制をも!)、まさにその律法主義にこそ存するこの体制の決定的無力におい て見抜かねばなりません。そしてそのとき、神の優越性は、この点においてもまた、明瞭に、かつあらゆる恐れを追い払いつつ、あなた方の眼前にあるので す。」(同上)これを読んだ一人の旧東ドイツの牧師は、後にこう語ったそうです。「私は、当時あのバルトの言葉がよくわからず、励ましもあまり感じなかっ た。しかし後に、ベルリンの壁が崩れ去り、あの大きな山のような体制も倒れ去った今になって、あの言葉がまさに真実であったことがよく分かる。」

 「権勢によらず、能力によらず、わが霊によるなり」、この幻こそ、私たちの力です。この幻を共に見ることこそ、私たちの希望また喜びなのです。この希望また喜びを、しっかりと信仰において胸に抱きつつ、今日もここから主によって送り出されてまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  「権勢によらず、能力によらず、わが霊によるなり」と、預言者によって示し、さらに今また、誰にもまさってイエス・キリストによって語り見せてくださいま した。この幻こそ、これを共に見ることこそ、私たちの力であり、私たちの希望であり、私たちの喜びです。どうか、この幻・ビジョンを共に見つつ、キリスト の体なる教会またその一人一人として、共に働き仕え、共に歩み生きて行くことができますよう、今日ここからお導きください。どうか私たちも、この地、この 社会、この世界にあって、キリストの証人、僕として、人々に仕えて生きることをさせてください。
まことの道、真理また命なる世のまことの救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

戻る