共に見ることがなければ              箴言29章18、22〜26節

                
  「聖書を読むときのこつ」はいろいろあると思いますが、私はその一つに「文体に合わせて読み方を変える」というのがあると思います。今日の聖書箇所の中心 は、18節です。1節だけです。その特徴は、「短い」ということです。「短い」ときには、どうするか。ある意味で細かい所にこだわり、言葉の意味を深く掘 り下げ、多様に考え読もうとするのです。今日は、そんなふうに読んでみましょう。
 「預言がなければ民はわがままにふるまう。」この文の意味は、 いったい何なのでしょう。まず、「預言」。こういうときは、色々な翻訳聖書を比べてみるのが、おすすめです。他の訳を見ますと、こんなのがあります。「啓 示」「黙示」、よくわからないですね。ですが、「預言」、「啓示」、「黙示」、ここには共通点があります。それは、すべて、「神から来る」ということで す。「神から来る言葉、導き、教え、戒め、律法」、そういう感じです。今日は、その中で一番おすすめの訳をご紹介します。それは、「幻」という言葉です。 「幻」という言葉に付いている特別な意味合いは、「見る」ということです。「幻」は「見る」ものなのです。神様からの導き、教えは、「見る」ことができる 仕方で来る、与えられる。実際には、肉眼では見えません。ですが、神様からの導きと助けにより、神への信仰と希望によって、「見えないものを、あたかも見 えるかのようにして見る」のです。神がこれから成し遂げ、実現しようとされる出来事、その光景を、今もうすでにそれが実現したかのように、「幻」において まざまざと「見る」のです。しかも、「民」ですから、一人だけで見るのではありません。まさに、「共に見る」のです。
 さて、次の「わがままにふ るまう」です。これも、いろいろな訳があります。「堕落する」、「ほしいままにふるまう」、「弛緩する」(「だらっとする」という意味ですね)、もう少し きつい言い方ですと「荒廃する」、もっと行くと「滅びる」と読むものもあります。「幻のない民は滅びる」とするわけです。もう少し説明的に訳しますと、こ うなります。「神からの導き、教えである幻を共に見ることをしない民は、わがままにふるまい、堕落する。ほしいままにふるまい、その生き方は弛緩する。さ らには、その民は荒廃し、ついには滅亡する。」これは一体、どういうことを言っているのでしょうか。具体的には、たとえばどういう状況や過程を述べている のでしょうか。

 それを知るために、次におすすめなのが、この同じ言葉が、聖書の他の箇所でどのように使われているのかを知ることです。
  それを知る典型的な箇所があります。「出エジプト記」の32章25節です。「モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。」この「ほしいままにふるまっ た」が、まさに今日の「わがままにふるまう」と全く同じ言葉なのです。イスラエルの「民がほしいままにふるまった」、それは具体的に言えば、神からの戒め 「十戒」に背いて、「金の子牛」の像を作り、それを「主なる神」だと言って拝んだことです。これに対して、神様は大変強く激しく怒られました。民は、こう して「ほしいままにふるまった」、なぜでしょうか。その言い訳ととして、民が語っている言葉があります。「わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのた めに造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセは、どうなったのかわからないからです。」(出エジプト32・23)かれら が「ほしいままにふるまった」理由は、「どうなったのかわからない」ことでした。頼りにしていた指導者モーセは、シナイ山に登って行ってしまい、「どう なったのかわからない」。それはすなわち、この先も「どうなるのかわからない」のだと、思ってしまったのです。将来が見えなくなったてのです。多分「明 日」という日は来るだろうけれど、それを希望と目標とをもって見ることができないのです。「神による幻を共に見る」ことができなくなり、なくなったので す。
 こうして、民は「ほしいままにふるまい」、「わがままにふるまい」ました。それは、神に従わず、神の戒め・律法に従わないことであり、ひる がえって、自分の欲望に従い、自分が求め欲するままに振る舞い、行動するということです。それは同時に、隣人の領域を侵し、他者を踏みにじり、ついには権 利を侵害し、奪い取ることにまで発展して行きます。旧約聖書が描くイスラエルの歴史は、まさにこの過程を痛いほどに示しています。
 その意味で、 今日の箴言の言葉の後半は、この有様を描いているように取ることができます。「民がほしいままにふるまう」とき、社会全体、世界全体が悪くなって行くので す。「怒る人は争いを起こし」、「人の高ぶり」がその人と共に他の人をも「低くし」、「盗人にくみ者」が起こり、「人を恐れ」「治める者(権力者、政治家 など)の歓心を得ようとする人」が多くなり、「悪しき者は正しく歩む人を憎む」のです。そのようにして、社会のモラルは低下し、破綻し、「愛が冷え」、関 係は破れ決裂し、だんだんと世の中そのものが沈み込み、ついには滅び去るのです。

 だから、裏を返して言えば、「幻」が大切なのです。 「共に幻を見る」ことが、なくてならないのです。だから、「神による幻を共に見よう、そういう民になろう」。だからこそ、預言者たちは、幻をしばしば見た のでした。そして、それを「共に見る」べく、民に語り伝えたのでした。
 「幻」と言えば、エゼキエルです。エゼキエルは、ある時、ある谷に人間の 枯れた骨がうず高くいっぱいに積み上がっている光景を見ました。これは、国が滅んで土地や建物が荒れ果て、何より人の心と生き方が荒廃して、望みを失い、 無気力になり、享楽的に欲望のままに生きてしまっているイスラエルの民のあり方を示すものでした。ところが次にエゼキエルは、それらの枯れ骨に神の霊の風 が吹いてくると、それらの骨はつなぎ合わされ、さらに神の命の霊が吹き込まれることによって、それらの骨が人間の体に戻り、さらには再び生かされて、一つ の大きな民となる光景、まさに「幻」を見たのです。それは、神による救いの計画、神による希望の約束を指し示す「幻」でした。肉眼に見るところ、常識的に 見るところは絶望的であっても、神はそこに驚くべき命の業、救いの業を起こされるのだ。神は「この幻を共に見よ、それによってあなたがたは命を得よ」と言 われるのです。
 また、預言者イザヤも、鮮やかな救いの「幻」を見ました。「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのよ うに、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」(イザヤ35・1〜2)そのようにイスラエルの救いは起こり、全世界の救いも起こるのです。さらに は、神は「死」すらも滅ぼしてくださるのだと「見る」のです。「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての頬から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全 地の上から除かれる。」(同25・8)そしてついには、「新しい天と新しい地」までが到来し、実現されるのです。「見よ、わたしは新しい天と新しい地とを 創造する。」(同65・17)

 そして、私たちの救い主イエス・キリストも、いや主イエスこそ大いなる「幻」を見、それによって生き、働 き、歩まれた方でした。「時は満ちた、神の国は近づいた」。「神の国は近づき」、もうすでにここに来ているのです。イエスは、その「神の国」が来る足音を 聞き、神の国がまさに実現するその光景をまざまざと「見て」おられるのです。このビジョンによってこそ、イエスは様々なたとえを語り、教えを告げ、働きを なさったのです。そして、私たち人間については、こんな「幻」を見ておられました。「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が 来る。そうだ、今来ている。」(ヨハネ4・23)今、すべての人間たちは、神を忘れ、神を離れ、神に背いて、まさに「自分のほしいままにふるまい」生きて いるように見える。しかしイエスは「見る」のです。その人々が、神の前に不思議にも招かれて、その神の声に答え、神を喜び、神に感謝し、神に希望をいだい て正しく生き、またお互いの間でも愛をもって大切にし合い、助け合って共に生きる、その光景をまさに今まざまざと「見て」おられるのです。「そうだ、今来 ている!」この「幻」のうちに、主イエスはご自分の生涯と使命を正しく捉え、厳しい苦難にありながらも、信仰と希望のうちに、主は十字架の道をも選び取 り、歩み抜き、ついに復活の勝利にまで至られました。そのようにして、このイエス・キリストによって、「神の国」は来たり、「新しい天と新しい地」は到来 し、実現するに至るのです。
 「箴言」において「民」とは、もっぱら「イスラエル」でしたが、今やこの私たちもまたイエス・キリストによって「神 の民」とされ、その中に入れていただいているのです。「幻のない民は、共に見ることがなければ、滅びる」、だからこそ、私たちもまたイエス・キリストに あって「幻を見」、「共に見る」のです。「幻のない民は、共に見ることがなければ、その民は滅びる」、教会はどうでしょうか。教会もまた、教会こそ、まさ にそうなのです。イエス・キリストにおいて、すべての人が「まことの礼拝」へと招かれ、神の前に幸いに生きることへと招かれているのです。イエス・キリス トにおいて「神の国」は来たり、すでに始まっているのです。そしてイエス・キリストにおいて、やがて必ず「新しい天と新しい地」は到来し、実現するので す。私たちは、私たちそれぞれの歩みの中で、私たちの教会の共なる歩みの中に、「神の国」の到来を「共に見る」のです。さらには広く、この社会において、 また全世界においても、その「幻」を「共に見て」、喜び、信じ、望み、働き、仕えるのです。

 星野正興というユニークな牧師がおられま す。この方は、日本基督教団でずっと農村伝道に使命をもって携わって来られた方です。この星野さんが、カナダの農村へ宣教師として派遣され働いておられた ことがありました。その中で出会ったカナダの小さな町の子どもたちのことについて語っておられます。
 「ある日の授業で、私は生徒たちにこんな質 問をした。『皆さん、この世の中には「目に見えるもの」と「目に見えないもの」があると思いますが、「目に見えないもの」はどんなものがあるでしょう か?』すぐ大勢の生徒が手を挙げた。私は彼らが答えたその言葉に、大いに考えさせられたのだ。彼らの答えを拾ってみると、こういうものだった。『愛』、 『友情』、『信頼』、『正義』、『信仰』、『精神』などである。私はかつて、日本の同じ年頃の子どもたちに、同じ質問をしたことがある。その時返ってきた 答えで一番多かったのは、『幽霊』であった。そのほかは小生意気な次のような答えだった。『電子』『原子』『酸素』『オゾン』等々。なかなか高等な答えだ けれども、それらはみんな『物』だ。」私なりに言えば、星野さんが出会ったカナダの子どもたちは、「目に見えない」「愛」や「信頼」や「正義」というもの を、あたかも「見える」かのようにして実体と力を持つものとして「見て」いたのだということではないでしょうか。
 そこからひるがえって、星野さ んは、人間の社会について、とりわけ日本の社会について、憂慮と批判の思いを述べられるのです。「目に見えない物体、物質ではなく、目には見えないことが らについての思い、『愛』とか『信仰』とか『正義』とか『精神』についての思いがなくなったら、人間やこの社会はどうなってしまうのだろう。極端に言え ば、自分が得をすれば良い、もうかりゃ良い、ということになってしまうんじゃないだろうか。自分の得になり、もうかることならば、戦争することだって良い ことになってしまう。その時、平和への思いなんか、どこかへ飛んでいってしまう。正義もへったくれもなくなってしまう。―――今、日本では十の内一つも、 目に見えないことについて考えられてはいないのではないだろうか。ひょっとすると、世界で最も豊かな国日本は、滅びに向かっているのかもしれない。だっ て、お年寄りは大切にされないし、平和憲法はなし崩しにされるし、もうかりゃ良いとばかりに自然は壊されていくし、過去に犯した戦争の罪をどんどん忘れる し、政治家や役人は平気でウソをつくし・・・。」
 そして締めくくりに、その中で「見えない神」を「見えるかのように見」、信じて生きる幸いを語 られます。「聖書の神は、目に見えない神である。もともと目に見えず、手でも触れることもできない神だから消えることもなく、こわれることもない。そし て、どこでも、どんな時にもいるのである。それだから、たとえお金がなくなっても、友が去り孤独になっても、それでおしまいではない。この神が共にいてく れるのである。しかも、『恵みの神』として。」(以上、星野正興『神様の正体(いるところ)』より)
 「幻のない民は、共に見ない民は、滅びる。」だからこそ、この「見えない神」を、まざまざと「見るかのように見」、神による「幻」、神による約束と希望を「共に見て」、共に歩み、共に働いてまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 「幻のない民は滅びる」、だからこそ、あなたはずっとイスラエルの民に、「幻」を見せ、御言葉を語り、約束を与えて励まし、導いて来られました。そしてついにイエス・キリトストによって、私たちすべての者に関わる「幻」を見せ、約束を示し、希望を与えてくださいました。
  私たち教会とその一人一人もまた、そのイエス・キリストによる「幻」、この「福音」を与えられ、「共に見る」ようにと招かれ、集められ、立てられた民で す。どうか、この良き「幻」を共に見、それを喜びと希望をもって語り、行い、生きて、あなたが出会わせてくださる人々とそれを分かち合って共に生きる者た ちとしてください。
まことの道、真理また命なる世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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