共にいることを望み見る              詩篇第133篇1〜3節

                
 今年度の私たち四日市教会の主題の最後の部分、「共に見る」に基づき、しばらくの間「共に見る神の民」というテーマでお話をしていきます。

  神の民は、ここに一つの光景を望み見ています。そして、その光景に感嘆と喜びの声を上げているのです。「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく 楽しいことであろう。」ほかの訳(新共同訳)ではこうです。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」「おる」「座っている」 は、「共に住む」とも取れます。「見よ、兄弟が共に住んでいる。なんという恵み、なんという喜び。」ここに言われている「兄弟」というのは、広い意味の 「家族」だと言ってよいでしょう。「兄弟、姉妹また家族が和合して、仲良く共におり、共に住んでいる。それは、なんという喜びであり、また恵みであろう か」と歌っているのです。

 私は自分で考えている常々聖書を読むときの原則の一つを思い出します。それは、「現実は、聖書が言っていることの反対だ」というものです。「幸いだ、恵みだ、喜びだ」とわざわざ言わなければならないのは、その反対の現実があったからです。
  旧約聖書は、家族にまつわる様々な多くの悲劇を描きます。それは、共に座れない、共におられない、共に住めない、多くの兄弟や家族の、つらく悲しい現実で す。アブラハムと甥ロトは、一族郎党の争いのため、もはや同じ所にとどまることができなくなり、道を分かつことになりました。アブラハムの孫ヤコブと、そ の双子の兄エサウとは、生まれたときから争い合い競い合い、足を引っ張り合い騙し合っているような間柄で、ついに二人は祝福の相続の問題で決裂し、共に住 めなくなりました。ヤコブは家を出て、逃亡の身となったのです。そのヤコブの十二人の息子たちの中で、ヨセフはとりわけ父の愛を偏って受けて育ちました。 それを妬み恨んだ兄たちは、ヨセフを襲って穴に陥れ、ついには奴隷商人に売り飛ばしてしまいました。ここから、ヨセフは苦難の道を、長きにわたって歩んで 行くことになるのです。
 これほどに、旧約聖書は、「兄弟、家族が共におられない、共に住めない」現実を、繰り返して描きます。そうして、私たち 人間の罪の現実、関係の断絶・破綻を表し、示すのです。だからこそ、神の民は、その断絶と破綻がいつの日か乗り越えられ、克服される情景を望み見て歌うの です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」その克服、和解は、神の業、神の出来事として起こるのです。その有様と道を、聖 書はまた同時に語っているのです。それは、あのヨセフの苦難の道が、後の日に父と兄弟たちの救いとなったようにです。

 詩篇は、詩です。 詩においては、言葉の意味は、より大きな広がりと深まりを持っていきます。これは、「都もうでの歌」という表題が付けられています。「都もうで」というの は、イスラエルの各地方からそれぞれに巡礼者たちが都エルサレムの神殿に上り、神を礼拝しに行くことです。
 ここで、「兄弟たち」の意味が広がり ます。それは、「実の兄弟」を超えて、共に神を礼拝するために、それぞれの地方からそれぞれに都に上り、神殿で出会い、一緒になった人々が、「兄弟」と呼 ばれているのです。その巡礼者たち、礼拝者たちが、今主なる神の神殿で、神の御前に共に集まり、共に神を礼拝し、また共に憩い、共に安らっている、また共 に助け合い、共に生きようと、そこに共にいる。この情景を、神の民は現に見て、喜び祝い、歌っているのです。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵 み、なんという喜び。」
 そこには、家族を超える広がりと一致があり、また共に生きる「共生」ということが起こっている。それは、ほかでもない、 神の祝福であり、神の恵みであり、神による幸い、喜びなのだ。「なんという恵み、なんという喜び」! それを、この詩は、二つのたとえで表します。「それ はこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。」「油」は、任命された祭司に対する神の祝福のしるし でした。それが頭に注がれて、頭だけでは足らず、それは溢れ出て、ひげを通り、さらには衣のえりにまで下る、神の祝福が溢れ流れる様を表現しています。ま た、「ヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。」「ヘルモン」とは「ヘルモン山」のことで、イスラエルで最も高い山です。そのような山の高みから、露また 雨による水分が、乾いた熱いイスラエルの地に下り、シオンの山にも下って来て、そこを潤し、慰め、生かす。そのように、神の祝福は、「兄弟が共にいる」そ の所に下ってきて、そこにいる「かれら」を祝福し、力づけ、生かすのです。「これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。」それ は、まことに神の祝福であり、共に生きる命と力を与える、神の救いの業なのです。それは、決して人間の努力や働き、人間の業ではありません。神が不思議に も、ただ恵みによって起こし与えてくださった、神の祝福と救いの業なのです。

 このような神の祝福と救いの業を、聖書は全体として語っています。そのような聖書全体が目指す方、聖書全体を成就、実現された方である、私たちの救い主イエス・キリストのところで、この詩、この歌は、最大限の広がりと深まりとを与えられました。
  主イエスは、あるときから、もともとの家族を離れて活動するようになられました。「神の国が来る」ことを信じ、宣べ伝え、分かち合って歩まれるイエスのも とに、実に様々な多くの人々が付いて来て、集まっていたのです。そこに、元々のイエスの家族たちが、イエスを捜し、呼び戻しに来ました。そのときに、イエ スが語られた言葉です。「イエスは彼らに答えて言われた、『わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか』。そして、自分をとりかこんで、すわっている人 々を見まわして、言われた、『ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なので ある』。」(マルコ3・33〜35)主イエスは、「血すじによらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらず」(ヨハネ1・13)、「神のみこころ」によっ て呼び集められて、共にいる人々を、「母、姉妹また兄弟」と呼ばれたのでした。
 社会のある人々、あるいは多くの人々が求めていることとは、それ は違うことでした。「お父さんがいて、お母さんがいて、幾人かの子どもがおり、その前と後の家族たちが共にいて、互に助け合い、生きる。家族は互いに助け 合わなければならない。」そういう「模範的・規範的家族」が語られ、唱えられる中で、でも実際は多くの「家族の悲劇」が起こり、そこではどうしても生きら れない人々が生まれて来るのではないでしょうか。

 つい最近テレビで放送された番組の中で、全国で初の「もうろう者」の人たちのグループ ホーム「ミッキーハウス」のことが紹介されていました。そこでは、全国から同じような障碍を持つ人たちが集まって、共に暮らしているということです。その 中にこのような方のことがありました。「三重県の実家を離れて入居した棚瀬恒二さん(66)は、15歳から29歳までの間、ほぼ引きこもりの状態で、顔を 合わせるのは家族だけだったという。会話も、手のひらに文字を書く簡単なやり取りだけだった。当時の様子を棚瀬さんは、『両親とは喧嘩ばかりで、外に出た いと言っても反対され、苦しかった』と振り返る。しかし今は、友人との世間話を楽しんだり、休日には通訳介助を使って大好きな鉄道の博物館へ出かけたりと 『あたりまえの自由』を楽しんでいる。」(NHK『バリバラ』ホームーページより)彼の家族は、恒二さんを十分に受け入れて、共に生き、彼をいきいきと生 かすことができなかったのです。その家族の中では、彼は喜びと誇りと望みをもって生きることができなかったのです。恒二さんは、家族を超えた、家族ではな い、この共同体に来ることによって、本当の意味で生きることができるようにされたのです。

 あのときイエスが目指し実践されたのは、まさ にこのようなことだったのではないでしょうか。身寄りのない人や少ない人、家族関係がうまくいっていない人、イエス・キリストは、そのような人々を、「神 のみこころ」によって周りに集め、共にいる、共に生きることができるようにされたのです。ここに、あの詩篇の言葉が、思いもかけない広がりと深まりをもっ て、まさに実現しているのではありませんか。「見よ兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

 教会は、私たち教会もま た、このイエス・キリストによって集められ、イエスをキリスト救い主と信じ、イエスの言葉に従って生きようとする群れです。教会もまた、このいえす・キリ ストを信じて、あの詩篇の言葉が、いつの日か自分たちの間でも、またさらにはこの社会、この世界全体において到来し、実現する、そのことを信じ、見て、待 ち望むのです。「あなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キ リスト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテヤ3・27〜28)「最初期のキリスト者にとって、共同体として集まること自体が破壊の行為であっ た。それは生物学的なつながりや既存の社会規範を超越した、新しい『家族』または『体』をつくり出す非常にラディカルな行為だったのである。―――言い換 えれば、教会とはラディカル・ラブの外なる共同体だったのである。つまり教会とは、生物学的なつながり、社会階級、そして身体的特徴に応じて人々をバラバ ラにするさまざまな伝統的な境界を消し去る新しい共同体だったのである。」(パトリック・S・チェン『ラディカル・ラブ』より)
 私たちはと言え ば、私たちの教会はと言えば、それはまだ「途上」にあります。けれども私たちは、聖書を通して、イエス・キリストの福音の言葉によって、望み見て喜ぶべ き、その光景を聞かせられ、知らされているのです。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」このことを共に見て、このことを共 に信じ、望み見て、共に生き、共に進んで行くのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを最後まで愛される神よ。
  あなたは、行き違いと葛藤と争い合いに満ちた家族の悲劇の連続の中に、あなたによる和解と共生の出来事を起こし、救いの業を、ずっと行ってこられました。 神の民は、そのあなたの御業とそれによって実現する光景を思い描き、望み見て喜び、歌いました。「なんという恵み、なんという喜び。」そして、救い主イエ ス・キリストは、ただあなたの「みこころ」が人を生かし、呼び集め、共に生かすのだということを、ご自身のすべての業と道とによって示し、与え、実現され ました。
 この主イエスによって呼び集められ、信じることを許され、共に生きるようにとされた私たち教会とその一人一人もまた、あなたの御心とビ ジョンとによって照らされ、導かれて、限界と途上にありながらも、あなたを信じ、あなたの業を望み見て、歌いながら、共に生き、共に歩む道を探り求め、一 歩一歩共に歩んでまいります。どうか、常に私たちと共にいて、私たちを導き、最後まで至らせてください。この世にあって、どうかこの恵み、この喜びを、表 し示し、実際に生きることをなさせ、それによってあなたの証、あなたの栄光を表すことができますように。
教会の主、世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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