キリストが聴く、あなたも聴く              ヤコブの手紙第1章19〜27節

                
  「愛する兄弟たちよ、このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。」このヤコブの勧めは、まさに私 たちにぴったりのものです。なぜなら、私たちは、先週にもお話したように、「聴くことのできない社会、時代、世界で生きている」からです。
 哲学 者鷲田清一という方は、今の時代に、「聴く」ことは流行らず、評価もされないと言います。「『聴く』ということもまた、今の評価制度にいちばんのりにくい 営みの一つです。『この一年、私はただただ話を聴いてあげていました』と言っても、『それがどうした』ということで、点数にならないのです。これは、私た ちの社会が、『何ができるか』『何をするか』で人の存在価値を測る社会になってしまっているからです。」(鷲田清一氏、京都府保険医協会ホームページよ り)
 それは大きく言えば、このような社会、世界を形作ってしまいます。「力を持つと人は良心の声に耳をかさなくなる。そして強くなればなるほど それに比例して良心の声をきくのがむずかしくなる。今日貧しい国と富める国との間に激しいやりとりが展開されている。悲惨、困窮、飢餓の中から絞り出され る叫びが、大多数の人類からあがっているにもかかわらず、繁栄を誇る国々は、それに耳をかそうともしない。たしかに問題は複雑かもしれないが、富める国は 貧しい国の資源を高く買ってあげようなどとはつゆほども考えていないようだ。むしろ貧しい国々の資源を買い叩いているのである。石油に関してはただ相手が 強すぎただけのことである。歴史の中で犯された最も卑劣な不正はみなこのようにして犯された。」(ポール・トゥルニエの言葉、工藤信夫『暴力と人間』よ り)

 「聴く」代わりに、私たちは「怒る」のだとヤコブは言うのです。「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」この 「人の怒り」は、明らかに「神の義」と対比されています。「怒り」でもって、人は自分の義、正しさを主張しようとし、他者に対して力を振るおうとする、と いうことだと思います。「自分は、自分たちはこんなに正しく、良く、素晴らしいのに、あなたは、あなたがたは、あの人たちは、なぜそれを認めず、従おうと しないのか。ひどい人たちだ、許せない」と、怒りを表し、怒りによって「語ろう」「早く語ろう」とするのです。それは、「神のように」正しくあり、神に代 わって裁こうとすることです。しかし本当は、人間は「神のように」はあり得ないのです。「私どもを、力の暴力から守るのは恐らく『人間は決して神のように は成りえない存在』であるにもかかわらず、人はいつの間にか“ 神のようになりたい”と思う欲望や願望に捕らわれやすい存在であることを、自らに言い聞かせる慎み深さと、高慢の悍ましさ(疎ましさ)を知ることであろ う。」(工藤、前掲書より)でも、それは神の義を「全うする」こと、実現することはできない、決してできないのだと聖書は語るのです。その意味は、そうい う「怒り」また「語り」は、決して人を生かし建て幸いにすることはできないのだ、ということだと思います。

 これに反して、全く反して、「神の義」は、まさに正しく事をなす、人を良く生かし、幸いに建て上げることができる、ということなのです。この「神の義」を全うするのは何、いや、いったい誰なのでしょうか。
  その答えが、私たちには「福音」として与えられ、語られています。「神の義」を全うし実現されたのは、イエス・キリストその人であったのです。「神のよう に」なろうとする私たち人間の罪をすべて引き受け背負って、イエスは十字架に死なれました。それによって主は、私たちの罪を贖い、克服されたのです。「す べての罪の根は、高慢である。わたしは、自分のためにあろうとする。わたしは、自分自身に対して、わたしの憎しみと欲望とに対して、わたしの生命と死とに 対して、権利を持っている。人間の霊と肉とは、高慢によって燃やされる。というのは、人間に、まさしく彼の悪において、神のようになろうとするからであ る。―――誰の目にも明らかなところで、われわれに代わって罪人の屈辱の死を身に負い給うたのは、実にほかならなぬイエス・キリストご自身であった。彼 は、犯罪者として、われわれのために十字架につけられることを恥とされなかった。―――イエス・キリストの十字架は、高慢をすべて滅ぼしてしまう。――― 古い人は死滅するが、しかし、神が彼に勝利し給うのであるる。今やわれわれは、キリストの復活と永遠の生命とにあずかるのである。」(ボンヘッファー『共 に生きる生活』より)
 今ヤコブは語ります。「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植え付けられた御言を、すなおに受け入 れなさい。」この「御言」、福音の言葉、イエス・キリストの言葉を受け入れ、信じなさい。「鏡で自分の顔を見ても、すぐ忘れる人」のようにではなく、 「しっかりと見て、その有様をすっかり覚えている者」のようにしてこれを聞き、受け入れ、信じなさい。
 イエス・キリストは今「柔和なへりくだっ た者」として現れ、語られます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11・28) 主イエスは、「重荷を負ってて苦労している」私たちのその荷を、どのように引き受け、どのように助けることがおできになるのでしょうか。それは、何よりも まず、何にもまさって「聴く」ことによってではないでしょうか。重荷を負って苦しみながらイエスのもとに行くとき、イエスは「問答無用」「あなたの必要は これだ」と言って、「即席に」「スピード重視」で助けを与えられる、というのではないと思います。主イエスはむしろ、何より「聴いて」くださる。私たちの 訴え、私たちの苦しみ、悲しみ、失望、無力感、いらだちと不安と恐れを、まずじっくりと引き受け、受け止め、聴いてくださるのではありませんか。そうして こそ、私たちは本当の意味で受け入れられ、受け止められ、助けられたと思うことができるのではないでしょうか。「聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそ い」人、それは誰よりイエス・キリストその人なのではありませんか。
 そうして、救い主イエス・キリストは、神の義を全うしてくださるのです。
  「競争社会からこぼれ落ちた者を 教会が受けとめる。  教会からこぼれ落ちた者を 別の教会が受けとめる。  その教会からもこぼれ落ちた者を キリス ト教の団体が受けとめる。  キリスト教の団体からこぼれ落ちた者を 友の心が受けとめる。 友の心からこぼれ落ちた者を いったい誰が受けとめるのか。   社会全体からこぼれ落ちて もう受けとめてくれる者もいなくなったとき 主イエスがいちばん低い所にいて あなたを受けとめてくださる 御腕の中に憩 わせてくださる。」(工藤、前掲書より)

 「もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、 その人の信心はむなしいものである。」ヤコブは、あえてこの独特の言い方で、私たちにこう語りたいのだと思います。こうして御言を受け入れ、福音を信じ て、イエスの後についてイエスと共に生きようとするとき、私たちは「聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそく」というしかたで、「舌を制する」ことを学び 知り、「むなしく」ない真実な「信心」、信仰に生き、正しい「行い」、生き方に生きることができる。
 それは、具体的に言ってこのような生き方で す。「父なる神の前に清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。」「孤 児」や「やもめ」とは、聖書で、社会的弱者を代表的に表す人々としてずっと用いられてきた言葉です。だからここでは、この世界で生きる人々の求め、困窮、 痛み、悩み、苦しみを聴きなさい。とりわけ弱く貧しく卑しくされている人の訴えと叫びに、真摯に耳を傾けなさい、それを受け止めなさい、ということなので はないでしょうか。
 初めにご紹介した鷲田清一さんは、「聴く」とは「成果・結果を性急に期待せず求めずに待って」あげることであり、さらには 「大切な自分の時間を相手にあげる」ことだと言います。「臨床心理士や医師が患者の、親が子どもの、水商売の人が客の話を聴く中で、共通しているエッセン スは何でしょうか。それは、『時間をあげる』ということなんです。 例えば命の電話は、『これから死にます』という人が納得して自分から受話器をおろすま では、とにかく聴いてあげるという仕事です。看護師さんやお医者さんもそうですし、学校の先生も、なんだかんだ言いながらも生徒のために時間をとる。 そ の間、イニシアチブは自分でとらないで、相手が納得いくまでいっしょにいてやる。カウンター越しの人たちも、相手が『ああ、もうこんな時間か』と妙に納得 して帰るところまで、ちゃんとつきあってあげる。私は、こういう『時間をあげる』ということが、これから私たちが創っていかなければならないケアの文化、 ホスピタリティの文化の根幹になる部分ではないかと思います。(中略)アメリカ新大統領(注:オバマ前大統領)は就任演説の最後の章で、『これから私たち アメリカ人は、「新しい責任(responsibility)の時代」を迎えるのだ』と、みんなに呼びかけました。日本語では『責任』というと義務的な感 じがしますが、“responsibility”とは『反応する・他人に応じる用意がある』ということなんです。私たちは “responsibility”を「責任」と訳していますが、両者は語感としては全然違います。―――今、オバマ大統領が訴えているのは、『責任感を持 て』というような意味ではなくて、弱い人から、遠くの未知の人からの訴え、求め、促し、呼びかけに対して、『どんなものであっても自分は応える用意があ る』いう心根を持とうということなんです。」(鷲田清一氏、同前)

 ヤコブが語る「清い信心」とは、そういう「心根」であり、そこから生 まれ起こってくる「行い」生き方ではないでしょうか。そして私たちの救い主イエス・キリストこそが、そのような正しい「行い」へと私たちをも招き、導いて 行ってくださるのです。柔和でへりくだって相手に耳を傾けて聴くこと、そうしてこそ正しい言葉を語ること、そのように正しく生きる、共に生きる、互いに仕 え合い建て上げ合って生きることへと、この私たちをも導いて行ってくださるのです。「キリストが聴く、だからあなたも聴く、私たちも聴く」のです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神よ、御子イエス・キリストにおいて私たちをどこまでも、最後まで愛された神よ。
  あなたと人との前で私たちは高慢な者であり「神のようになろう」とすることにより、聴くに遅い者であり、へりくだって他者に聴くことをしません。しかし、 主イエスはそのような私たちのために地へと下り、「柔和でへりくだった者」として生き、歩み、そして私たちのそのような罪を引き受け担って、十字架の死に まで至られました。このイエスの生涯とその真実によって、私たちは今や赦され、救われ、新しい生き方へと招かれています。
 それは、「聴く」道で す。「聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそい」生き方です。復活の主イエスが、この私たちと常に共にいて、私たちを助け、導き、全うしてくださいます。 どうか、今こそ信仰と希望をもって、このイエスの後から、このイエスと共に生きるように、あなたの前での信仰の一歩を踏み出させてください。そのような仕 える者、証する者、分かち合う者たちとして、私たち一人一人また教会を導き、お用いください。
まことの道、真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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