キリストに負われつつ聴け              ガラテヤ人への手紙第6章1〜5節

                
   「偏見や先入観によって、物事が曲げられて判断されてしまう」。何事でもそうですが、聖書もまた、あるいは聖書こそ偏見や先入観によって曲げられてしま います。「聖書は現実離れしている」「聖書は抽象的だ」とか。あるいは、「単なる道徳的なお説教が書いてある」とか。特に今日のような手紙は、もっとそう いう傾向があるかもしれません。「互に重荷を負い合いなさい」、これを、「互に協力し合いなさい、助け合いなさい」という、極めて「ごもっともな」、しか しどこででも聞かれどこででも当てはまるような、平凡な道徳の教えや人生訓として聞き、受け取ってしまうということがあるのではないでしょうか。決してそ うではないのですが、しばしばそうなりがちです。
 そこで今日は、そういう誤解を避けるために、現代に起こった生々しい一つの出来事から始めようと思います。

 以前にも何度かご紹介しましたが、私たちと同じバプテストの牧師に奥田知志先生という方がおられます。奥田先生は、約三十年にわたって、北九州でホームレス支援活動に関わってこられました。この先生が対談の中で、こんな出来事を紹介しておられます。
「あ る学校にとてもやる気のある先生がいて、子どもたちにホームレスについての授業をしてほしいということで、私が学校に呼ばれました。―――その後、先生か ら『さすがに夜のパトロールに子どもたちを連れていくことはできないので、どうしたらいいでしょう』と相談があったので、『もしよかったら手紙を書いてく ださい』と提案しました。それで子どもたちがホームレスの人に手紙を書きました。私はそれを預かって、炊き出しの現場へ持っていき、皆に見せ、返事を書い てやってくれとお願いした。それで野宿のおじさんたちが路上で返事を書いたのです。それを私が学校に届けにいったら、子どもたちが喜んでさらにその返事を 書いてきた。 ところが、そのときに学校の校長とPTAからクレームが入ったんです。もしホームレスが学校に来てしまったらどう責任取るんだとか、子ども たちがあのおじさんたちを助けたいと言い出したらどうするんだとか。結局、子どもたちからの二通目の手紙は校長先生が握りつぶして渡さなかった。―――私 は学校に乗り込んでいって抗議しました。百歩譲って、学校教育の範囲を超えたというのなら、学校長として子どもたちに二通目の手紙は、先生の判断でおじさ んたちに渡さなかったと伝えてもらいたい。そのままでは、子どもたちは、自分たちは手紙を書いたのに野宿のおじさんたちは返事をよこさなかったと思ってし まいますから、校長の判断で手紙を握りつぶしたことを正直に言うべきだと迫ったのです。―――(その後はどうなっちゃったんですか。)そのままです。学校 はだんまりを決め込みました。まあ、やはり今の多くの学校は、役所と一緒で、現実というものを過去性と所与性でしか考えていないので、新しい出会いの場面 を受けつけない。そこで何かあったときに責任をとりたくないということです。皆責任をとらない、とりたくないという無責任社会です。それをもって校長の責 任だと勘違いしている。そこから現実的な希望を見出そうとしても、なかなか勇気が持てません。」(奥田知志・茂木健一郎『「助けて」と言える国へ』より)
  そこにあるのは、また私たちの社会全体、私たちをも含めた姿・あり方ではないでしょうか。だから、私たちの社会、また私たちというのは、「互いの重荷を負 わない」社会なのです。互いの重荷や苦しみを負わない、負いたくない、負おうとしない。もしそれを少しでも負おうとするなら、リスクや責任が持ち上がって くるかもしれない、それに伴う責任を負いたくない、だから負わない。これを「自己責任」という言葉によって正当化する、それどもその実は、奥田先生が力説 されるように負うべき、あるいは負えたはずのことさえ負おうとしない「無責任」なのではないでしょうか。それは同時に、「聴かない、聴かせない社会」でも あるのだと思います。他者の苦しみや痛みの声、訴えや叫びを聴こうとしない、聴かない。「子どもたちにホームレスの人の声を聴かせない」、なぜなら、一度 聴いてしまえばきっとそのままではおられなくなるからです。「もし子どもたちがかれらを助けたいと言い出したらどうするんだ」(それはそれで、一つの大き な教育の機会となるのではとも思うのですが)。だから聴かせない、聴かない。

 そういう社会のただ中で、私たちは聖書からこう呼びかけら れているのです。「互に重荷を負い合いなさい。」私たち一人一人も全くそういう者でありながら、神によってこう命じられているのです。「互に重荷を負い合 いなさい。」そしてそう呼びかけられ、そう命じられているがゆえに、私たち教会また信仰者一人一人は、互に重荷を負い合おうとして生きる、互に重荷を負い 合う者たちとして生きようとするのです。
 これは、大変なことを命じられました。そういう社会の中で、そういう者たちであったはずの私たちが、こ ういうことを呼びかけられ、こういうことを命じられている、それは決してたやすいことではなく、大変なことなのではありませんか。「兄弟たちよ、もしある 人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。」今は「バッシング社会」「ダメ出し社会」 「NG社会」かもしれません。「ある人が罪過に陥っていることがわかったなら」、叩いて叩いて叩き潰す。皆さんは、きっとそこまではしないでしょうが、私 たちは皆そういう影響を受けています。「問題探し」や「批判」に傾きがちな自分自身ではないでしょうか。「柔和な心」とは、その正反対です。優しい心で、 赦す意志をもって、さらには先週もお話した「人を建て上げる」つもりで、その人に向かい合い、その人と共に生き、そしてその人が良く、幸いに生きていける ようにする。それは、実に骨の折れる、忍耐と努力を必要とする業なのではないでしょうか。また、「それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありは しないかと、反省しなさい」、「もしある人が、事実そうではないのに、自分が何か偉い者であるかのように思っているならば、その人は自分を欺いているので ある」とも言われています。あのような「柔和な心」と生き方は、正しい、批判的で、へりくだった自己認識に基づくのだと思います。ところが今の世の中は、 「いかに自分が偉い者であるか」を証明し、誇示し、他に認めさせるかということで、上から下まで互いに張り合っているようなところです。そういう中で、こ のような自己認識、このような生き方は、どうしたらできるようになるのでしょうか。

 こう語られています。「互に重荷を負い合いなさい。 そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」ここに、不思議な言葉があります。「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたは キリストの律法を全うするであろう」というのです。「キリストの律法」、あるいはそれを「全うするであろう」とは、一体どういうことなのでしょうか。
  私はこう思ったのです。「キリストの律法」、それは「キリストが、主イエスが、そこにいてくださる」ということなのだ。「互に重荷を負い合いなさい」、こ の呼びかけを聞き、この戒めに答えようとする、そこに「イエス様が、イエス・キリストがいてくださる」。主イエスが共にいて、そこに立ち合い、「これはわ たしの律法・戒め、これはわたしが与える呼びかけ、招きなのだ」と語っていてくださる。そして「キリストの律法」なのですから、キリストご自身がその実現 のために努力し、助け、導き、そして全うし、実現してくださるのです。

 6節にまた、さらに私たちを追い込むようになるかもしれない言葉 があります。「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。」この「重荷」というのは、さっきのとは違う言葉で、むしろ「自分の課題、やらねばならな いこと、さらには自分に関わるすべてのこと、すなわち自分自身」というような意味だと思います。本当です。私たちは皆、自分自身のことを負わねばならない し、負っています。自分の生まれ、家庭環境、今までの境遇、性格、体力、能力、事実として容姿・外見ということもあるかもしれません。また、否応なく付き 合わねばならない人々、やらねばならない様々な仕事や作業。このことは、私たち自身を追い込み、さらには縛っているなと思わされます。「そうなんです、私 はもう自分のことで精一杯なんです。人の重荷まで負う余裕はないんです。」また聖書的に言えば、「自分自身こそ、最大の重荷」なのです。神の前に罪人であ る自分、隣人に対して愛のない者、自己中心的な者である自分。乗り越えがたい悪い習慣と、自分を守るために他者を捨てて顧みない、「闇」とすら言えるよう な考えと生き方をはらんでいる自分。
 しかし、ここにイエスが立たれる、ここにこそイエス・キリストが立っていてくださるのです。イエス・キリス トは言われます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であ るから、わたしのくびを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11・28〜29)「柔和な心」 を持つ人とは、イエス・キリストのことだったのです。
 イエス・キリスト、イエスご自身が「柔和な者」として、重荷を負って苦労している私たちを 呼び、招いていてくださる。そして私たちをご自身のもとで休ませ、私たち自身を主イエスが引き受け、背負い、運んで行ってくださる。私たちは罪深く自己中 心であり、私たちの姿は弱くもろいのです。しかし、このイエスが私たちをその罪もろとも引き受け、背負い、そして助けてくださるのです。このイエスが、弱 くもろい私たちであるままに、そのままに引き受け、負っていてくださるのです。
 奥田知志先生は、こんなことも言っておられます。「私は、時々大 学の神学部に牧師の卵を教えにいきます。彼らに『皆さんの目指しているいい牧師さんはどんな牧師ですか?』と訊くと、総じて返ってくる答えは、『愛する技 術を持っている』ということです。傾聴の技術があるとか―――聖書の話が上手にできるとか色々ありますが、全て『愛する技術』に関することです。かつては 私もそういうふうに考えていました。でも、今となっては、そんな牧師は傲慢で気持ちが悪いと思います。『愛される技術』といったら語弊があるかもしれませ んが、愛するという能動的なものだけでなく、愛されるという受動的なものにも重点を置いていない牧師は気持ちが悪い。『助けてます』みたいなものではなく て、『俺は助けてもらえないと生きられないんだ』というところを正直に見せることです。そうでないと、牧師はすごい人だという幻想が生まれ、キリスト教は 愛の宗教、だからクリスチャンは立派な人だというような幻想が生まれます。しかし、そんなことはない。本来神様に赦されないと生きていけない人が、教会に 来ているにすぎません。」(前掲書より)

 「そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」、イエス・キリストご自身がこ の戒めを全うしてくださるのです。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・30)「互に重荷を負い合いなさい」、こ のキリストに私たち自身が負われるときに、主イエスに私たちと私たちの重荷を負っていただくときに、私たちは少しずつ、互いの重荷を負い合うことを学び、 その負うための力を与えられていくのです。
 「互いの重荷を負い合う」、それは実に様々なことを含み、様々な道へとつながっていくでしょうが、そ の第一歩は、「聴く」「聴き合う」ということではないでしょうか。「交わりの中で、ひとりが他の人に対して負っている第一の奉仕は、〈他の人の言葉に耳を 傾ける〉ということである。神への愛は、われわれが神の言葉を聞くことから始まるように、兄弟への愛の始まりは、われわれが兄弟の言葉を聞くことを学ぶこ とである。」(ボンヘッファー『共に生きる生活』より)耳を傾けて聴くならば、きっとそのままではいられないでしょう。祈りが起こされ、共に考え共に悩み 共に生きることが始まって行くでしょう。「互いの重荷を負い合う」という出来事が起こされて行くでしょう。「大丈夫でしょうか?」大丈夫です。なぜなら、 これは「キリストの律法」だからです。イエス・キリストがそこに共におられ、キリストがそれを助け導き、イエスご自身がそれをついには全うしてくださるの だからです。だから、「キリストに負われつつ、聴け」、「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神よ、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスこそ「柔和なへりくだった者」として私たちを招き、私たちを赦し、私たちを受け入れて、私たちのすべての重荷、すべての罪、そして何より「重荷」 そのものである私たち自身を引き受け、負ってくださり、そうして私たちを休ませ、救ってくださる方です。このお方によって徹底的に愛され、救われ、負って いただいておりますから、私たち一人一人とその教会もまた、「互いの重荷を負い合う」ことを一から学び、またそれを始め、この道を歩み始めることができま すよう励まし、お導きください。この「負わない、聴かない、引き受けない」社会のただ中で、どうかこのキリストの証を、弱く小さいながらも、信仰と勇気と 希望とをもって、一つからでもなさせてください。
まことの道、真理また命なる、世の救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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