すべては徳を高めるために―――キリストが建てる          
                          コリント人への第一の手紙第14章1〜5、12、26〜33節前半
                
         
  皆さん、私たち「教会の強み」とは何でしょうか。「教会の強みなんてあるの?」と言う方もあるかもしれませんが、それには失礼ながら申し上げましょう。 「自分たちの強みも知らずに、いったい伝道、人に勧め伝えるなどということができるのですか。」ですから、それは皆さんそれぞれがよく考えてみていただき たいと思います。
 私も及ばすながら考えてみました。「教会の強み」、私は、それは「いろいろな違う人たちが集められている」ことではないかと思 いました。そこまで多様な人たちが集まっているとは言えないかもしれませんが、他の集団や団体が「同じ」というところで集まろうとしているのとは幾分違っ て、教会には比較的多様な、ある意味では「雑多な」人々が集められているのではないでしょうか。そしてそういう人たちが、弱さや限界はありながらも、「共 にあり、共に生きよう」と努力している、それが「教会の強み」なのではないかと、私は思わされているのです。
 「いろいろと違う人たちがいる」、 ということはそこに「意見の違いがある」ということです。特に私たちバプテスト教会は、「話し合い」を重視します。そこでは「意見の違い」というものが、 余計に際立ちます。価値観の違い、好みの違い、物事の順位・順序の違い。そういう「違い」に対して、どのように対して行くか、どのように解決していくか、 それが私たち「違い」を「強み」だと信じている教会にとっては、極めて大切なことなのではありませんか。

 コリント教会での対立は、「異言か、預言か」ということでした。コリント教会では、実にいろいろな人々が集められていて、その人々にはいろいろな能力や働きが与えられていたのでした。
  「異言」というのは、普通では意味の分からない言葉を神秘的に語って神に祈ったりすることです。コリント教会では、この「力、働き、賜物」がとても重視さ れ、「これがいいのだ、これが大切なのだ」と言われていました。なぜなら、「すごい、不思議なことが行われている」という感覚が強く感じられるからです。
  これに対して「預言」とは、普通の理解可能な言葉で、神の意志「御心」と思われることを、言うなら「淡々と」語り、告げることです。異言と比較すれば「地 味」ですけれども、これを与えられて行っている人も幾人かいました。この「異言か預言か」、それが教会での争いや対立の原因、さらには分裂の危機すら招い ていたのです。
 さあ、この対立、どうすればいいのでしょうか。何が大切なのでしょうか。何を基準にして判断し、選択すればいいのでしょうか。コリント教会の人たちは困って、パウロに手紙を送り相談したのです。それに対して答えたのが、今日のパウロの言葉なのです。

  このパウロの言葉の中で、彼が何度も繰り返して言う言葉があります。端的に言えば、それが大切なのです。それが、鍵となる言葉であり、考えであり、基準と なり、解決につながるものなのです。それは、「教会の徳を高める」という言葉です。4「異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を 高める。」12「だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。」26「あ なたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。」こ こでパウロが言いたいことは明らかです。
 「すべては徳を高めるために、しかも教会の徳を高めるために行うべきだ。教会の徳を高めるかどうか、こ れが最も大切だ。これが基準だ。これが中心だ。これに基づいて判断し、選択すべきだ。これを皆が心がけて進むべきだ。そうすれば、対立にも打開の道が開 け、教会は正しく建て上げられていくことができる。」
 「徳を高める」、これの元の意味は、まさに「建物を建てる」ことです。「建物を建てる」よ うにして、教会の営み、働き、歩みを形作り、築いていく、それが「教会の徳を高める」ということです。そして、何より大切なのは、教会にそうして集められ た、かなり違う、いや「全く」と言ってよいほど違うお互いそれぞれを「建て上げる」ようにする、そうすることで、教会そのものが「建てられる」、「徳を高 め」られる。パウロはそう言いたいのではないでしょうか。

 では、そういう意味で「教会を建てる」「教会の徳を高める」とは、いったいど ういうことなのでしょうか。建物を考えると、その良し悪しを決める要素には、土台、外見、強度などいろいろありますが、最も大切なのは「誰が」ということ ではないでしょうか。正しい適切な人が建てれば、自ずから建物も良くなるのです。
 では、教会は誰が建てるのか。パウロの言葉を短く言えば、「キ リストが建てる」ということだと思います。「キリストが建てる」、イエス・キリストが、あのイエスが教会の土台を築き、外装内装をやって、そして教会を強 く丈夫に建て上げ、完成させてくださる。「互いの、教会の徳を高める」と言うとき、この「キリストが建てる」ということが踏まえられている、ということが 最も大切なのではないでしょうか。
 「イエス・キリストの建て方、それはこうだ」と語っている人がいます。「あの受難週の金曜日。あの日にはだれ にも驚きはありませんでした。死というものの現実を知っている者、つまり、宗教者と政治家と経済人が一体となった支配者がどう動くかを知っている者には、 あのお方がどういう運命をたどるかは、明瞭に見えていたはずです。イエスは社会の慣習を無視しました。徴税人や娼婦と食事をしました。貧しい人々に手を差 し伸べました。祭司たちを偽善者と呼びました。金曜日に『されこうべ』と呼ばれる丘で行われた血なまぐさい出来事は、驚くにはあたらない成り行きだったの です。お役所と戦っても勝ち目はありません。皇帝には軍隊がついていました。群衆は私たちを見捨てました。私たちすべてを命へと招いてくれたお方が、十字 架につけられています。死の力の最新の勝利品です。『生きておられる間は、見事なキャンペーンをなさった。しかしわたしたちは、この方をメシアとして当選 させることはできなかったのだ』とわたしたち言いました。そして、女性たちに、花束を持って墓場に行っておくれと言いました。『わたしたちの敬意も伝えて おいておくれ。イエスさまへの最後の挨拶としてね。―――』こうして女性たちは死の支配する町へに出て行きました。お墓を覗きました。そして、驚きがあり ました。神は戻られました。墓場からの帰りに、イエスは女性たちに出会って、『おはよう』と言います。突拍子もない言葉です。墓に飾ろうとした花束は無用 となりました。女性たちは地に伏して拝みます。」(ウィリモン『介入する神の言葉』より)
 十字架から「建てる」、だれもが「終わった」と思った ところから「建てる」、「もう何もできない」と思うところから「建てる」、これがイエス・キリストの「建て方」であり、神の「建て方」なのです。教会の主 イエス・キリストは、そのように教会のお互いそれぞれを建て、そうして教会をも建ててくださる。ならば私たちは、教会において、誰をも見くびらない、誰を もあきらめない、誰をも見放さないという仕方で、お互いとお互いの言葉とを聴き、受け止めて行くことができるのではないでしょうか。

 だ から、パウロはこう言うのだと思います。「預言がまさっている。」5「教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語るよりも、預言を語る者の方が まさっている。」19「しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わし い。」29「預言をする者の場合にも、ふたりか三人が語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。」
 「預言がまさっている」、なぜか、それは「聴 いてわかる」からです、また「聴いて、良し悪しを吟味できる」からです。言い換えれば、それは「対話ができる」言葉、「互いに語り合える」言葉だからで す。そのためには、お互い「聴いてわかる」言葉を使うように心がけ、またその良し悪しを吟味する相手の言葉を心を低くして「聴き合」わなければならないと 思います。私たちは、教会で、お互いの言葉と心を、一生懸命に「聴き合う」、なぜならば、そうして「キリストが教会を建ててくださる」と信じるからです。

  1989年に「ベルリンの壁」が崩され「ドイツ統一」がなされました。それから間もなくの頃ですが、「旧東ドイツ」の教会は、非常な弱さと貧しさを感じて いると、そこに関わる人々が語っていました。民主化の働きの中では、重要な役割を幾分か果たしたけれども、いざ統一が成ってみると、世の中の変化の中で、 人々はほとんど教会に期待しなくなった。「人間は、教会なしでやりおおせようとしています。人間が教会を求めるとき、それは一定のことをしてもらうためで す(それに対する代価は支払うつもりです)。あるいは、一生の間特定のときだけ教会を必要とします。教会もまた、〈人生の断片におけるパートナー〉でしか ないのです。」そんな中で、この地区の教会を代表する一人の女性の信徒の方は、一つの詩を引きつつ、自分の教会に対する期待と夢を、このように語るので す。「(詩) 私は一つの教会を夢見ている。  だんだんと貧しくなっていく教会を   管理規定も法も貧弱になり 忙しさも、成功への圧迫も貧しくなる 教会を  私は一つの教会を夢見ている  だんだんと豊かになっていく教会を  遊びの空間、人が人と出会う可能性に富んでいく教会を  霊のご臨在に豊 かに恵まれ 自発性に恵まれ 確固たる姿勢とくつろぎに恵まれ 言葉と行いの自由に恵まれ  神への信頼と幻に豊かである教会 地上の平和のための幻に豊 かである教会を  (証)私たちは、支配の構造から解き放たれて、仕える教会であるべきです。権威を失った者たちの傍らにあり、権力者の機嫌を取るような ことのない貧しい教会が必要なのです。神が私たちと共にいてくださり、神の約束は果たされるのです。だからこそ、私たちは、望みに生きる教会です。私たち は、自分たちの日常生活における、神の体験を互いに語り合いましょう。―――教会は、出会いの場所、語り合いの場所です。神と出会い、人間と出会うので す。このことを、自分たちの教会において体験することができたならば、どんなにすばらしいことでしょうか。教会は思いわずらいから解き放たれた教会である はずです。私たちの主が、私たちの思い悩むことが何であるかを知り、そこで私たちをひとりにしておかず、私たちが生きていくために、ほんとうに必要なもの は何かに、いつも目を留めさせてくださることを、私たちが知っているからです。」(A.カミンスキー『ベルリンの壁に打ち勝って』より)

 「キリストが教会を建ててくださる」、だから私たちも信じ、聴き、語り、行い、生きるのです。「すべては徳を高めるために、すべてはお互いを建て上げるために、すべては教会の徳を高め教会を建て上げるために。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストにおいて私たちをとことん最後まで愛された神よ。
  御子イエスが、御自身のすべてを使い尽くし、捧げ尽くして、世の救いのために十字架に赴かれました。その時、誰もが「もう次はない」と思いましたが、あな たは御子を死の中から勝利をもって起こし、復活させられました。そうしてあなたは「キリストのからだ」なる教会を建て、そに連なる一人一人をも罪と死の中 から起こし、集め、立てられました。この愛と恵みを心から感謝し、賛美をささげます。
 御子イエスこそが、「教会のかしら」として、私たち教会を も起こし、その徳を高め、建て上げてくださいます。どうかこの主を仰ぎ信じつつ、私たちもお互いそれぞれに与えられた信仰の友を正しく受け止め、それぞれ の言葉に聴き合いつつ、お互いの徳を高め、そうして教会を建て上げて行くことができますよう、助け、お導きください。
教会の主、世のまことの救い主、イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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