まぎれもないキリストのからだとして聴く          コリント人への第一の手紙第12章12〜27節

                
  「聖書は世界最大のベストセラー」と言われます。何千年もの期間にわたって、数多くの人に読まれてきたということでしょう。その理由は何か。私は「面白 い」ということではないかと思います。こんなことを言いますと、「えー、聖書のどこが面白いの」という人があるかもしれません。でも、よく考えてみてくだ さい。聖書ほど、映画や演劇や文学の原作となってきた書物はないでしょう。まさに「面白い」、そして大変に材料が豊かである。聖書には何でもあります。宗 教の本ですから、そこにはもちろん、人間とは何か、神とは何か、善とは悪とはといった深刻な人間の思想と対話があります。それだけではありません。歴史物 語があり、冒険活劇があり、ロマンスがあり、そしてミステリーもある。さらに、今日の所などには、ホラー・怪奇小説の要素なんかもある。どこが「ホラー」 か、ホラ吹いているのではないかと言われるかもしれませんが、今日の所には「妖怪」が登場するのです。「全身これ目」、目ばっかりという妖怪、また「全身 これ耳」、耳ばっかりという妖怪。そんなのがいたら、グロテスクを超えて怖いと思うかもしれませんが、これがパウロによればコリント教会に出没しそうに なったのでした。

 ちょっとコリント教会の状況に話を戻してお話しましょう。パウロはずっと一貫して、キリストの教会には、一つなるキリ ストへの信仰の中に、実に多様な人々と働きがあるのだと話してきたのです。そしてさらに、今日の所で、教会について、彼は新しい実に力強いイメージを示し ます。それは「からだ」です。「教会はキリストのからだである」と言うのです。「からだが一つであっても、肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が 多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。」私たちの「からだ」には、いろいろな多くの「肢体」つまり「部分」があります。 足があり手があり、鼻があり耳があり目がある。その一つ一つは実に大きく違っていますが、それらすべてを合わせて、一つの「からだ」です。「からだ」は一 つであるけれども、それぞれの「肢体」「部分」は実に様々であり、違っている。パウロは言います。「それがまさに教会だ。教会はキリストのからだだ。」
  ちょっと注意しておきますと、これは単なるたとえではありません。「教会はからだのようなものだ」「教会を『からだ』のように考えればわかりやすい」とい うようなものではないのです。なぜなら、ここには単なる「たとえ」を超える、さらに言えば「たとえ」を破るようなキリストの現実が示されているからです。 「わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲ん だからである。」普通「からだ」を構成するのは、「違っている」とは言いながら、「相性がいい」と言いいますか、より合いやすい「部分」です。たまに医療 技術で他の人の体の「部分」をもらうというのがありますが、あれもできるだけ「拒否反応」の出にくい、合いやすいものを持ってきます。でも、キリストのか らだなる教会は違うというのです。「ユダヤ人とギリシヤ人」、「奴隷と自由人」、全く違う、宗教・文化・階級・利害そういうものの違いや対立によって隔て られ、引き裂かれて、「違う」どころか「到底一つにはなれない」そう思われていた者同士が、キリストにあって、神によって呼び集められ、一つとされる、こ れが教会なのです。その意味で、教会とはまさに「キリストのからだ」そのものなのです。さらに言えば、十字架に死んで復活されたイエス・キリストが、教会 の働きと道を通して、今も生き働いておられる、その意味でもまた、教会は「キリストのからだ」そのものなのです。

 ところが、コリント教 会ではどうだったでしょうか。そこでは、こんなことが起こっていました。教会に招かれたそれぞれ一人一人の違い、生まれ・育ち・考え・生き方から始まっ て、特性・能力・働きの違い、「違い」ばかりに目がいって、ことさらにその「差」を互いに言い立てていたのです。こんな言葉があります。「足が、『わたし は目ではないから、からだに属していない』」。「耳が、『わたしは目ではないから、からだに属していない』」。これは実際にコリント教会で語られていた言 葉でないでしょうか。これは卑下と、あきらめ、絶望の言葉です。「わたしにはあのような能力も、力もないから、わたしは教会の中にいるべき場所はない、わ たしは教会には属していない」。それは、次のような高慢・裁き・排除の言葉と裏腹でした。「目は手にむかって、『おまえはいらない』」。「頭は足にむかっ て、『おまえはいらない』」。直接的には「霊の賜物」の優劣をめぐって、コリント教会の人々は争い合い、裁き合い、分かれ合っていたと思われます。「私に は、私たちには異言というすばらしい賜物が与えられている。それは霊的によりすぐれていることのしるしなのだ。それにひきかえ、異言を語れないあの人たち は信仰的に劣っていて、教会のためにはあまり利益にならない」。こんなことをお互いの間で言い合っていたわけですが、それをパウロはこの「からだ」を引き 合いに出すことによって指摘します。もし「からだ」の各「部分」がそんなふうに言い合っていたならば、「からだ」は成り立つだろうか。ばらばらになって、 「からだ」でなくなってしまうのではないか。

 さらに言えば、違っていてこそ「からだ」になれるのです。ここで、最初の「妖怪」登場で す。「もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もしからだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。」教会にはこういう能力が必要だ、こういう特性が 望ましい、こういう人ばかりが来ればいい、それはあたかも「目だけ」のあるいは「耳だけ」の「妖怪」のようなものではないか。それは冗談としても、「から だ」はそれぞれの「部分」が違っていてこそ、「からだ」の多様な働きを成り立たせているのだ。まして神はキリストの教会をそのようなものとして創り、集め られたのです。「そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのです。」
 そして、このそれぞれの肢体・部分は、お互いの間でコ ミュニケーションを取り合い、関わりを持ち合っています。それを、「互に聴き合う」という言葉をキーワードとして表してみたいと思います。よく「体の声を 聴く」という表現がありますね。「体がどういう状態にあり、何を求め、何を欲しているかを、注意深く感じ取って、それを実際の生活の中で生かして行く」と いうような意味です。その意味で、私たちのからだのそれぞれの部分部分も、「互いに聴き合っている」のではないでしょうか。「目」は「耳」の言い分を聴 く、「手」は「足」の求めを聴き取る、その逆もまた真です。そういうふうにして初めて、「からだ」全体は、調和と一致のうちに、喜びと幸いのうちに生きて いけるのではありませんか。教会もまた、いや教会こそ、そのような「聴き合い」のうちに、まさにそれによって生きるのです。
 
 そして、 ここでも、これは常識的な「たとえ」は破られ、超えられます。「からだのたとえ」は、わかりやすいですが、そこに「落とし穴」があるかもしれません。「な るほど、からだは多くの『部分』から成っている。でも、それぞれの間には、自ずから一定の優劣の順序というか、秩序があるのではないか。」それは、私たち の「常識」「先入観」の線上でどんどんな進み、発展します。
 でも、パウロは、「キリストのからだ」の各「部分」の間の順序について、思いもかけ ない方向性と基準を持ち出すのです。「むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがする と思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分がいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっ そう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。」私たち人間の目には、まさに「弱い」「見劣りがする」「麗しくない」、はっきり言えば「劣って いる」。そういう「部分」にこそいっそう神は心を留められ、その「部分」に配慮される。神の栄光はそういう「部分」を通してこそいっそうよく現われ、神の 業はなされる。これはまさに「キリストのからだ」にふさわしい「順序」です。なぜなら、主イエスご自身が世にあられた時、世のそのような「部分」、「取税 人や罪人」「病人や悪霊につかれた者たち」というような、社会におけるまさにそのような人々から始めて、福音を宣べ伝え、神の業をなさったからです。
  そして、この「教会の主」が、「十字架と復活」という、私たちの限界を超える道を進まれたお方であることを思う時、この「順序」と方向性は、私たちの考え の限界を超えて進むのではないでしょうか。私たちの「からだ」には、時に「動かない足」「見えない目」というものがあり得ます。要するに、病気や障碍に よって動くことのない部分のことです。その時、私たちはそれは「役割がない」「意味がない」「価値がない」と思うのではないでしょうか。でも、本当にそう でしょうか。中国の古代の哲学者老子は「無用の用」ということを言ったそうです。「茶碗でどこが大切か。人の目はその姿・形・色などに向けられようが、本 当に一番大切なのは、中が空虚で何もないということだ。一見、無きに見えるものが真に有用なのであり、有能に見えて無用なるものが多い」。まして、無から 有を創られた神、イエス・キリストを死の中から復活させた神は、私たちが「無用」「無」とするものを、取り上げ・引き上げ・召し出して、ご自身の栄光のた めにお用いくださるに違いありません。

 そしてこのような「キリストのからだ」なる教会の姿は、この世において、独特な、目立つ姿を取り、さらに言えば「異形の姿」をすら示すのではないでしょうか。
  福岡には、私たちバプテスト教会が大きく関わっている、重度心身障害児(者)の生きる場である久山療育園があります。この久山療育園を具体的に支えている のが、「バプテストコロニー友の会」という団体です。この「友の会」が2007年に、「障害者自立支援法を問う 討論と音楽の集い」というものを開きまし た。その中で、この療育園の職員であり、またご自身の子どもさんも障碍者であった、志満秀武さんが、同法の問題性について、このようにご自身の思いを語っ ておられます。「たまたま武憲は去年(2006年)の3月に亡くなったんですけれども、その後この障害者自立支援法ができて、措置費から契約という形に変 わって―――だけどこれが、親の負担ということになっていって、負担できる人は良いんですよ―――だけど出来ない人がたくさんいらっしゃる。じゃあ、その 親にとって自分の子どもに医療を与えられない、もうここまでにしてください―――そういう経済論理というものがこれに関係してます。ですから、重荷を持っ ている、しょうがいを持っている子どもたちは、いわば社会の生産に携わっていかない、そういう人は価値が無い、社会に貢献していないというような基調が、 この法律の中には間違いなく流れている。―――私の子どももそうだったんですけれども、彼らの持っている優しさ、本当に生きている、一生懸命に。―――知 的しょうがいを持った人たちが、本当に懸命に生きている。そういう姿を見ると、我々が勇気づけられていくんです。そういう社会ではなく、むしろ切り捨てる という発想、どうしても経済的取り組みに、この法律が立っているとしか思えません。」また別の方はこうも言っておられます。「何でこんな法律になってしま うのかを考えたときに、やっぱり僕が思うのは、人権の視点の欠如だろうと思うんです。『しょうがいがあってもなくても、一人の人として対等にこの世の中で 生きていける社会の実現』という、その当たり前のことを全力で作り出していこうとしない。それどころか、財政論や統計論が先行し、制度としてのバランスを とろうとする人たち。―――それは、突き詰めていくと、厚生労働省だけの問題じゃなくて、我々一人ひとりの問題でもあると思うんですね。人と人とが対等で あるということはどういうことか。その人がその人らしく当たり前に生きていける社会の実現。そこに立つことの大切さを痛感します。」(以上、バプテストコ ロニー友の会発行『いのちに優劣をつけないために―――障害者自立支援法を問う』より)

 そのような社会、世のただ中で、パウロはこのよ うな「キリストのからだ」、その「キリストにある現実」を示しつつ、コリントの人々に対して、また今を生きる私たちにも向かって語りかけ、勧めるのだと思 います。実に多様な「部分」、一人一人であるままにキリストにあって一つとされているこの神の業・神の現実を今こそ知り、受けいれ、喜べ。そして、他の 「部分」を重んじつつ、そのそれぞれの声に「聴き合い」つつ、この「部分」それぞれに対して、自分にゆだねられた働きと業を力を尽くしてなし、それを語り 証し分かち合いながら、与えられた道を全力で行け。「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは 知っているからである。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストによって私たちそれぞれを極みまで愛された神よ。
  あなたは、こんなにも違う私たちを、一つなるキリストのからだなる教会として集め、結び合わせてくださいました。その不思議さと恵み深さとに打たれつつ、 どうかこれを喜び、互いに聴き合いながら、ますますこの「からだ」を建て上げて行くことを助け、お導きください。またこの「キリストのからだ」の姿を、こ の世に向かって示し、語り、証ししつつ、分かち合っていく教会であり、一人一人としてください。
教会の主、世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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