その人をその人として聴く            使徒行伝第9章23〜31節


 「その人をその人として受け入れる」、それが教会の務めであると思います。
 「その人」とは、神によって創られ神によって愛されている人です。また「その人」とは、それゆえに、神が与えられた固有の意味と役割を持っている人です。そして「その人」とは、だからこそ、神と人の前で価値ある尊い存在である人です。
  けれども、この世、罪の世では、「その人」が「その人」として見られず、評価されず、扱われないことがしばしば起こります。「私なんて生きている意味がな い」、そう思わせてしまう世の中なのです。「ああいう人は生産性が低く、価値がない」、そう言ってはばからない社会であり人間なのです。偏見が、差別が、 能力主義と業績主義が、「その人をその人として」出会い、受け入れることを阻んでいるのです。そういう社会、世の中にあって、教会は、すべての人を創り愛 する神を知らされています。だからこそ教会の役割は、「その人をその人として」受け入れ、愛し、共に生きることです。
 「その人をその人とし て」、けれどもこのことが、教会にとってもまた難しいのです。今日はパウロの話ですが、「パウロをパウロとして受け入れる」ことが、教会にはできなかった のです。「サウロ(パウロ)はエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。」「恐るべ き迫害者」としてのパウロには、その悪名だけでなく、彼が行った実際の害も多くあったのです。パウロによって傷つけられ、倒され、死に追いやられた多くの クリスチャンとその家族たちがおりました。そのパウロを迎えるに当たって、教会が不信と憎しみを抱き、疑い恐れたのも無理はありません。「キリストに出 会って、クリスチャンになった」というのは真っ赤な偽りで、教会の中にスパイのように入り込んで、信徒たちの情報を集め、さらなる迫害を行うつもりかもし れないではありませんか。キリストとの出会いと彼の信仰は真実であったのですが、偏見が、嫌悪が、不信が、恐れが、教会を「その人パウロ」から隔て、断絶 させていました。「パウロをパウロとして」受け入れられない教会があったのです。
 しかし、これがこのままだったら、パウロはパウロになれたで しょうか。パウロは教会なしに、教会に迎えられ、加わることなしに、パウロであり得たでしょうか。「すばらしい霊的な体験」、「確固とした、燃えるような 信仰と使命感」、そういうものによって、ある程度広くはキリストを伝えられたかもしれません。しかし、少なくとも、その手紙が後世に「聖書」として伝わ り、今の私たちにまで影響を及ぼすことはなかったに違いありません。

 それでも、「その人をその人として」、パウロをパウロとして受け入れること、それは教会がしなければならないことなのです。
  だから、ここに一人の人が登場するのです。「ところが、バルナバは」。ここにバルナバが現れるのです。「バルナバ」とは、「慰めの子」という意味です。バ ルナバは、自分から、降って湧いたようにして現れたのではありません。彼を現われさせたのは、主なる神であり、教会の主、復活して生きておられる主イエ ス・キリストです。バルナバは、この主によって、教会の一人の奉仕者、僕として起こされ、立てられたのです。
 「ところが、バルナバは」、パウロ のところへ行くのです。忌み嫌われ、不信のうちに疑われ、隔てられ断絶させられていた人であるパウロのところへ行くのです。そして彼と教会との間に立つの です。そのために、あえて立ち上がり、わざわざ行き、ほかでもなく間に立つのです。バルナバの存在と働きは、彼だけのものでありません。彼を通して、復活 の主が働かれるのです。バルナバは、パウロに出会いパウロを愛しパウロを救われた復活の主イエスを通して、「その人をその人として」「パウロをパウロとし て」彼に出会い、彼を助け、彼を受け入れたのでした。バルナバがパウロに対してしてあげたことは、正に教会の業、働きそのものです。また、教会の主イエ ス・キリストの御業、お働きそのものです。

 このバルナバの働きとは、具体的にどういうことであったのでしょうか。
 第一に、 「バルナバは彼(パウロ)の世話をして」とあります。この「世話をする」には、実に幅広い、豊かな意味があります。岩波訳では「受け入れて」、文語訳では 「迎えて」、新改訳では「引き受け」、そしてある辞書によれば「助ける」です。まず何より、このパウロを「受け入れ」、「迎えて」あげました。「迫害者」 でありながら、「迫害者」であるがままに、主イエスによって救われたパウロを、その前歴ももろともに、あるがままに受け入れ、迎えてあげたのです。そし て、「引き受け」ました。「彼が、もしスパイだったらどうするんだ?!」、それも引き受ける。「そうなったら、私バルナバが責めを負います。」いわば、 「身元保証人」になってあげたのです。さらに、「世話をし」ました。細々と、いろいろ教え、助けてあげたのです。
 そして私は、この「世話をす る」という中に、「聴く」ということがあったに違いないと思います。耳を傾けて聴く、心の奥底を聴く、自分の考えを棚に上げて、相手の下に立って、理解し よう愛そうとして聴く。どんなふうに迫害の道に進んで行ってしまったのか。どんなふうに迷い悩んでいたのか。しかし、どのようにしてイエス・キリストが彼 に出会い、語りかけてくださったのか。そして彼がなにゆえにイエスを信じるようにされたのか。その愛と信仰の中で、彼に何が起こされ、何が変えられたの か。また今彼が直面している課題と必要は何なのか、キリストを信じても、いや信じたからこそ何に行き詰まり、何に困っているのか。それを、つぶさに聴いた に違いありません。ひたすら聴いたのです。だからこそ、後でつぶさに語れたのです。

 第二に、「使徒たちのところへ連れて行き」とありま す。「案内する」「伴い行く」という意味です。「一緒に行ってあげよう。行こうじゃないか!」どこへ? 「使徒たちのところへ」、交わりの中へ、孤独と危 険の中にいる者を、交わりの中へと、主の働きの中へと導き、連れて行く。そこで、パウロは初めて平安と安全を得ました。「『交わりの中にいない者は、ひと りでいることを用心しなさい』。あなたは教会の中へと召されたのである。召しはあなたにのみ向けられているのではなく、あなたは、召された教会の中で、自 分の十字架を負い、戦い、祈るのである。あなたは、ひとりではない。たとい死の中においても、あなたはひとりではない。最後の裁きの日に、あなたはイエ ス・キリストの大きな教会の一つの肢となるであろう。―――『わたしが死ななければならないなら、死においてわたしはひとりではない。わたしが苦しむな ら、彼ら(教会)がわたしと共に苦しむのである』(ルター)。」(ボンヘッファー『共に生きる生活』より)

 第三に、「途中で主が彼に現 れて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。」とあります。この「説明する」を、文語訳では「つ ぶさに告ぐ」としていて、名訳だと思います。「物語を語り尽くす」、「細かく、詳しく語る」という意味です。主がどんなにこのパウロを愛し、憐れんでくだ さり、また、計り知れない自由と力によって選び出し、召してくださったかを、熱く語ってやまない。語って、語って、語り尽くす。そうすることで、主イエス がパウロを、正に「福音によって」受け入れてくださったことが明らかとなる。そしてパウロという一人の人間が、まさに「その人がその人として」、「パウロ がパウロとして」教会によって受け止められ、迎え入れられる。

 名古屋の堀川伝道所というところで牧師をされている島しず子さんのお嬢さ んは、生まれてまもなくの大病のために、最重度の障碍を負うこととなりました。島さんにとっても、お嬢さんを理解し、受け入れることはたやすいことではあ りませんでした。どうしても社会や人々の無理解な視線や言葉に傷ついたり、影響されたりもしていたからです。
 そんな中で、ジョン・バニエという 方との出会いがありました。バニエ氏はカナダに生まれ、後にフランスでラルシュ共同体という場を造られました。これは知的障碍や精神障碍を負う人たちと共 に生きようとして開かれたものです。「1987年6月に来日したジャン・バニエさんの神戸での集会の折、バニエさんは廊下で会ったとき、娘の名前を聞きま した。『陽子、Sunの陽子です』と答えました。―――集会の最後に陽子が集まった人を代表して、バニエさんにお礼のプレゼントを渡す役目になりました。 ―――その時に、輪の中に車椅子で出て行った娘を迎えて、バニエさんは自分の手で娘の膝からプレゼントのラジオを取り、もう一つの手で娘の手を握り、じっ と娘を見て微笑みました。握手され、見つめられて、娘がにこにこと笑いました。無表情で何も感じないと思っていた子が笑ったので人々はびっくりしました。 私は感動しました。それはバニエさんの姿から声が聞こえたのです。バニエさんはその姿全体でこう言ったのです。『陽子さん、一生懸命生きてきましたね。私 はあなたを尊敬していますよ。神様もあなたを大事に思っていますからね。』この言葉を聴いたとき(実際には見たとき)私の鎧はぱらぱらと落ちました。 ―――尊敬されるために、一生懸命励んできたのに、重度の障がい児である娘といると、生きている価値があるのかという視線にさらされるばかりでした。そう いうどん底にいるような私たち親子に対して、『尊敬している』と接しられた時に、本当に解放されるのを感じました。それからは生きることが楽になりまし た。全世界が無理解でも、自分たちを理解してくれる人がいる、ということが希望になったのです。」(島しず子『尊敬のまなざし』より)

  パウロだけではありません。教会は、このような「その人がその人となる」出会い、奉仕、服従によって「教会」となり、成長し、発展し、前進していったので す。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリア全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ、聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増 して行った。」
 「その人がその人として」、私たち一人一人が、そのように愛され、聴かれ、受け止められなければならないし、事実受け止められる のです。それは、教会に委ねられた、主イエスの福音の力によります。あなたが「あなた」となる恵み!この恵みを忘れないでいただきたい!この恵みを知って いただきたい! 
 そして、あなたにもまた、教会の一員として仕えるべき人、仕えるべき業があるのです。「その人をその人として」出会い、聴き、 愛するという働き、また道があるのです。聴く教会には、「その人をその人として」出会い、受け止め、受け入れる力と希望が与えられているのです。パウロに なれなくてもバルナバに、バルナバになれなくても、「使徒行伝」に出てくるような、「無名の弟子」の一人になればいい。あなたは、「あなた」になればい い。このことが確かに起こるのです。なぜならば教会には、私たちを、命を懸けて愛し、受け入れてくださった主イエスの霊、聖霊が満ち、働いておられるから です。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまでとことん愛された神よ。
  主イエスは私たちの罪のため、また私たちの救いのため、十字架に殺されて死なれましたが、復活して、今も私たちの間で生き、私たちと共に歩んでおられま す。このイエスが、誰にもまさって私たち一人一人に、愛をもって出会ってくださいました。神から離れた罪人として、自分自身をも見失っていた私たちを探し 求め、「私を私として」出会い、愛し、回復してくださいました。
 このイエスが、私たちお互いの間の道を開いてくださいます。私たち一人一人お互 いが、「その人をその人として」、神によって創られ愛されている大切なその人として知り、見、また聴いて、愛し、共に生きる道を開いてくださいます。どう か、私たち信仰者とその教会が、このイエスに従い、このイエスの道を共に歩み、このイエスの業を共に行って行くことができますよう、常に助け導き用いてく ださい。
教会の主、世のまことの主、すべての人の救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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