和解してしまう神            イザヤ書第19章19〜25節


 今日は、今から73年前「アジア・太平洋戦争」で日本が敗北した「敗戦の日」8月15日を前にしまして、平和に関するメッセージを聖書からいただきたいと思います。
  皆さんは「平和」というものをどのようにイメージしておられるでしょうか。私自身の反省でもあるのですが、私たちはしばしば「平和」をあまりにも「動きの ないもの」として捉えてしまっているのではないでしょうか。なにか「はじめから自然にそこにあるもの」とか、「何もやっかいなことのない状態」とか、ある いは「どこかにひっそりとある理想状態」とか、そういうイメージで考えがちではないかと思うのです。
 でも良く考えてみますと、平和は「はじめか ら自然にあるもの」でも「どこかにある理想」でもなく、主イエスが「平和をつくり出す人は幸いである」とおっしゃったように、「これから作り出していかな ければならないもの」であると思います。しかもそれは、「敵対する者同士の和解」が起こることによって、はじめて作り出していけるものであることがわかっ てきます。なぜならば、私たちが生きているこの現実の世界は、決して平和ではなく、むしろあらゆる「敵対」に満ちているからです。人と人の間、集団と集団 の間、そして国と国との間に、敵対関係がそこらじゅうにあると言っても言い過ぎではありません。そういう世界の中で「平和」というものを実現するために は、「敵対する者同士の和解」ということが不可欠であるということがおわかりいただけるでしょう。
 しかし、ここで私たちははたと困ってしまいま す。それは、そこまで「平和」を真剣に考えていなかったからではないでしょうか。また、その「敵対者同士の和解」ということがどんなに大変で難しいことか ということを、よくわかっているからでもあります。どうすればいいのでしょうか。

 ここに、聖書は驚くべきメッセージを私たちに告げています。今日取り上げましたイザヤ書の言葉は、「エジプトへの託宣(神様からのメッセージ)」としてまとめられた19章の中に含まれています。
  さて、皆さんは「エジプト」というとどういうイメージを持っておられるでしょうか。イスラエルの歴史は、「出エジプト」から始まりました。「エジプト」を 出て、「エジプト」とおさらばしたところから始まったわけです。エジプトの国でイスラエルは奴隷でした。厳しい労働を強いられ、非人間的な扱いを受け、虐 げられ苦しめられました。そういうところから神様が彼らを救い出し、解放してくださったのです。ですから、旧約聖書で「エジプト」は「決して戻ってはいけ ないところ」なのです。それは物理的に「帰って行ってはならない」というだけでなく、「エジプト的」な生き方や世の中の営みに逆戻りして歩んではならな い、ということでした。そういう意味で、エジプトはイスラエルにとって常に「敵」であり続けてきたと言うことができます。
 この19章の預言の言 葉は、どうもその時代背景がはっきりしないようですが、内容はわりとわかりやすいです。1節からのはじめの部分は、エジプトに対する神の裁きを語っていま す。1から4節は、強国であったはずのエジプトがもっと強い国・支配者に支配されるということです。5から9節は、国の中心であるナイル川が枯れて衰え、 自然環境が荒れ、それに伴って諸産業が大打撃を受けるということ、そして10節以下は国の指導者たちが愚かになり政治・社会が不安定になるという内容で す。
 さて、ここまでを聞いた時、イスラエルの人々はどう思ったことでしょうか。きっとある意味で喜んだのではないでしょうか。基本的にずっと 「敵」であり続けた「エジプト」、それがこんなに厳しい神の裁きを受けて苦しむ、自分たちをあんなに苦しめたエジプトが今度は彼らがひどい目に遭う、それ を聞いた時にイスラエルの中に「いい気味だ」と思いが沸き上って来なかったと言えるでしょうか。そういう思いになってしまう、それがこの敵対関係に満ちた 世界に生きる人間の現実であると思います。

 しかし、神の言葉はこれで終わりではないのです。この後の預言を聞いた時、イスラエルの人々 は腰を抜かし、度肝を抜かれんばかりに驚いたに違いないと私は思います。「その日、エジプトの国の中に主をまつる一つの祭壇があり、その境に主をまつる一 つの柱がある。――彼らがしえたげる者のゆえに、主に叫び求めるとき、主は救う者をつかわして、彼らを守り助けられる。主はご自分をエジプトびとに知らせ られる。――主はエジプトを撃たれるが、またいやされる。それゆえ、彼らは主に帰る。主は彼らの願いをいれて、彼らをいやされる。」確かに、主なる神はエ ジプトを罰するのですが、その苦しみの中でエジプトの人たちが主に向かって叫ぶなら、主はこれに聞き、彼らも主を信じるようになり、主は彼らをも救ってし まうのだというのです。
 「そんなばかな」とイスラエルは言ったことでしょう。「主は、われらイスラエルだけの神様であるはずではないか。その神 様が、エジプトをも愛し、彼らをも救ってしまうなんて、もう、なにがなんだかわけがわからない。」「イスラエルは味方、エジプトは敵」、そういう枠組みに 捕らえられ、そこにだけ安住しているなら絶対にわからないでしょう。でも、主なる神は、この「絶対的」と思われた「枠」「壁」すらも乗り越えて行かれるの です。そして、「イスラエルの神」であるだけではなく、エジプト人であってもその人が呼び求めるなら答えたもう「エジプトの神」でもあろうとなさるので す。

 しかも、これに留まりません。この後の言葉を聞きますと、もっともっと驚くべきことが語られるのです。「その日、エジプトからアッ スリヤに通う大路があって、アッスリヤびとはエジプトに、エジプトびとはアッスリヤに行き、エジプトびとはアッスリヤびとと共に主に仕える。」「アッスリ ヤ」というのは、もう一つの「イスラエルの敵」です。強大な軍事国家で、周辺の多くの国々を侵略し略奪しました。イスラエルも長らくその脅威に泣かされて きたのです。しかも、このアッスリヤはまたエジプトとも仲が悪い。当時の世界に並び立つ二大国ですから、熾烈な勢力争いを繰り広げていたわけです。絶対に 共に生きようとはしないこの二つの国、すべての通路が断絶していたこの二国の間に、それらを結ぶ「大路」、今で言うなら「ハイウェイ」が開通しそこを人々 が行き交う。これだけでも驚きですが、それに留まらない。なんと、この二つの「敵国」が二つとも共に主なる神に仕えるようになるのだというのです。
  そして極めつけ、こんなことまでも預言者は語り告げるのです。「その日、イスラエルはエジプトとアッスリヤと共に三つ相並び、全地のうちで祝福を受けるも のとなる。万軍の主はこれを祝福して言われる、『さいわいなるかな、わが民エジプト、わが手の業なるアッスリヤ、わが嗣業なるイスラエル』と。」こんなこ とは、初めて聞きました!イスラエルにとって長らく「敵」であり続けたあの憎き「エジプト」と「アッスリヤ」、しかもお互い同士も激しく競り合い争いいが み合ってきた「エジプト」と「アッスリヤ」が、イスラエルと共に三者とも神のものとされ、神に愛され、神に祝福されるものとなるのだ、というのです。これ を聞いて、イスラエルの民はあっけに取られ、あんぐり大きな口をあけてしまったのではないでしょうか。

 しかし、皆さん、これこそ「和解」そのもの、これ以上のものは考えられないほどの「和解」です。この「和解」の大業を、主なる神は全くご自身の自由と主導と全能とによって成し遂げようとしておられるのです。なんと驚くべき「和解の神」ではありませんか、主は!
  しかも主はこの「和解」を、あらゆる人間の思いと偏見、葛藤と憎しみ、トラウマと捕らわれをも越えて、あらゆる人間の計画と力にも先立ってご自身成し遂げ てしまわれるのです。主は「和解の神」であり、しかもあらゆる人間に先立って「和解する神」、さらには「和解してしまう神」です。「和解してしまう神」と 言ったのは、これに人はまずはついて行けないからです。「そんな、待ってください。そもそも、そんなふうには行動せず、そんなところには行かないでくださ い。もっと私たちの思い、私の気持ち、私の戸惑い、私の憎しみ、私の怒りを受け入れ、いつもそこにだけ留まっていてください。私だけを愛し、あの人たちを 愛さない神であってください。」これが実のところイスラエルに代表される私たち人間の思いではないでしょうか。
 しかし、神は神、主こそ神であら れます。神はそんな私たちの小さな狭い思いには捕らわれず、それを越えて、それにはるかに先立って和解の業を果たしながら進んで行かれる方なのです。それ は意外なことにこの旧約の時代から、そしてもちろんあのイエス・キリストにおいてまさにそうでありました。主イエスは、この神の驚くべき広さを示されまし た。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太 陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださるからである。」そして、ご自身まさに「悪い者、正しくない者」のために血を流し、肉を 裂き、死にまで従われることを通して、神と人、そしてあらゆる人と人の間の和解となり平和となられたのでした。「キリストはわたしたちの平和であって、二 つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き――十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてし まったのである。」(エペソ2・14〜16)

 今年の『バプテスト』誌8月号の巻頭言の中で、私たち日本バプテスト連盟も加入している日 本キリスト教協議会(NCC)総幹事で、在日大韓基督教会牧師でもある金性済さんは、「日本国憲法への片思い」という言葉を使いながら、ご自身の思いを 語っておられます。「片思い」というのは、ご自身が「在日韓国・朝鮮人」として日本社会で生きてきて、この憲法に書かれている様々な人権の保証を受けられ ずに来られたからです。
 「この憲法9条の理念とは一言で何か。それは、この世界の歴史の中で絶えず戦争を繰り返してきた『われら』と『かれら』 の間に起こる敵意と差別の放棄であると言えます。さらに憲法9条の理念には、単に国家間の問題にとどまらず、人間の内面にある『われ」と『汝』の問題にま で深く問いかける問いを秘めているのです。つまり、自分の心に潜んでいながら、気づくことができなかった差別という心の武装に気づかされ、それが打ち砕か れて、ついに武装解除に至る道筋を暗示しているのです。言い換えると、『われら」と『かれら』の間の、恐れから始まる敵意と差別を武装解除させる友愛と歓 待の精神こそが日本国憲法9条の根底にあふれていると言えるのです。従っても、そこでは国民概念の枠から見れば、『かれら』となる在日コリアン、そしてさ らには韓国・北朝鮮など、外国さえもが、憲法9条の精神が具現されるためにともに呼び集められているのです。―――恐れと敵意を友愛と歓待の関係に変革す ることを願う憲法9条は、他者=『かれら』を除外しては成立しないのです」
 私たちは、「憲法9条」を絶対化することはしないでしょう。しかし私 たちは、憲法を超えたところにある「神の言葉」を、確かな真理として信じるのです。そして「神の言葉」こそは、和解と共生を目指し、それを自ら成し遂げる ことを約束し、宣言しているのです。私たちは、この御言葉によって、すべての事の善悪を判断し、そこから生き方を問われ、正され、不思議にも祝福と希望の 道へと押し出され、導かれるのです。「イザヤの預言が成就することを信じているからこそ、私たちは目の前の問題に、平和の使者として向かっていくことがで きます。永遠の夢を持つからこそ、私たちの中に、この世の悪に屈しないための力が生まれるのです。」(高橋秀典『今、ここに生きる預言書』より)
  「和解の神」、「和解してしまう神」、この方は私たちの常に先を進んでおられます。しかしまた、この方は私たちと共にに歩み、私たちに御言葉を示し、ご自 身に従い行く道を開き、与えてくださる方でもあられます。私たちにもできることがあります。それは、何よりこの神の和解の言葉を信じ、希望することです。 「難しい」「理想論だ」と言わずに、「お言葉ですから」「お言葉どおりなりますように」と、神の言葉ゆえにこそ信じ、それを心から望むのです。だから、祈 るのです。私たちには「難しい」「無理だ」と思えることも、「人にはできないが、神にはできる」と約束されています。ならば、私たちは神に期待して、神に より頼んで祈り、祈り続けるのです。そして、祈るからこそ、私たちはこの「和解の神」を信じるのに「ふさわしい生き方」をこの世において探り求め、それを この社会・この世界において果たし、歩もうとすることができるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストにおいてこの世・私たちとの和解を成し遂げ、その極みなき愛を与えられた神よ。
  あなたの信じられないほどの和解の言葉、大きな言葉、広い言葉、高い御言葉を、心より感謝し、御名をほめたたえます。どうかこの言葉を私たちの心に入れ、 耳に入れ、口に入れてください。私たちには到底理解できない、信じられない言葉ですが、あなたの助けと導きによって、私たちがこれを信じ、このために祈 り、これに導かれて生き歩む事ができるようにしてください。私たち一人ひとりをあなたの平和の道具としてください。
 どうか私たちが生きる日本の 国、日本の社会が、自分の利益と快楽を追求することよりも、敵対する世界の和解・共生に仕えて歩むものへと変えられますように。またあなたの助けと導きに より、どうかこの地に平和が成るようにしてください。紛争と分裂の地に、あなたの和解と平和をもたらしてください。
世のすべての人の救い主、平和の主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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