下に座して聴く            ヨハネによる福音書第13章1〜14節


 「互いに聴き合うキリストのからだ」というテーマでお話をしています。
  スポーツや芸事では、ポジションと姿勢が大切だと聞きます。どこに自分自身の位置を取り、どういう姿勢でするかということが、決定的に重要なのだというこ とです。例えば野球やソフトボールで、フライ、つまり高く上がってまっすぐ落ちて来る球を捕るときには、「ボールの落下点の少し後ろにすばやく移動して、 そこに自分の位置を定め、正面で、手を添えて捕るのがよい」ということです。
 では、私たちのテーマである「聴く」ということについては、どのようなポジションと姿勢を取ることが良いのでしょうか。「聴く」ということについても、それにふさわしい、正しい位置と姿勢があるのだと思います。それは、いったいどういうものでしょうか。
  それについては、イエス・キリスト、私たちの主であり教師であるイエスが、まさのその模範、お手本を示してくださっています。「わたしがあなたがたにした とおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」(15)それは、「下に座す」という姿勢です。「人の足元にかがみ込み、下の方に座し て、そしてそこで相手の足を洗いつつ、そして聴く」のです。「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互 に足を洗い合うべきである。」(14)英語で「理解する」ことを「アンダースタンド」と言います。「アンダー」は「下に」、「スタンド」は「立つ」です。 「アンダースタンド」つまり「下に立つ」、人の「下」に位置し、そこに座してこそ、人の言葉を正しく聴くことができます。そしてその人をまさに理解するこ とができるのではないでしょうか。イエス・キリストは、「下に座して、足を洗い、そうして、正しく聴き、人を理解し、さらには愛する」ことの位置と姿勢 を、私たちのための模範として、私たちの導き手また完成者として示されたのでした。

 それは、いったいどのような状況の下、どのような場 において、またどのような人々に対して行われ、起こったのでしょうか。「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとへ行くべき自分の時が来たこ とを知り」とあります。ヨハネによる福音書は、一貫して、イエスを「主であり神である方」として描き、証ししています。全知全能の神と、力と栄光を同じく しておられる方として描き出しているのです。ここでもまさにそうです。「自分の時」そんなものを知っている人はほかに一人もいません。私たちは、「自分が 生まれて来る時」を知りませんでしたし、「死ぬ時」をも知ってはいません。イエスは、それを知っておられる。「自分は神から出てきて、神に帰ろうとしてい る」のだと知っておられました。
 それだけではありません。イエスはすべてを知っておられるのです。なぜなら、「父がすべてを御自分の手に委ねら れた」からです。「すべて」とは、本当にすべてです。すべての人も、すべての事柄も、主イエスのものです。だから、あなたもわたしも、私たちもこの世界 も、皆イエス様に知られて、主の御手の中にある。それは、当然ながら、「罪」と「悪」をも知っておられるということです。「悪魔はすでにシモンの子イスカ リオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」とありますが、それもイエスは知っておられた。「イエスは御自分を裏切る者を知っておられ た。」これを、「ユダの罪だけ」と捉えてはならないと思います。「すべて」が主イエスに委ねられたのであるなら、イエスは「この世のすべての罪と悪」をそ の時も眼前に見て、知っておられたのです。確かに、主はそれをいやというほど見、聞き、知って来られました。御自分を見ても、その言葉を聞いても、その業 に接しても、なお信じないで、むしろ御自身を憎み、殺そうとする人々の罪と悪と闇。また、互いの尊厳や価値を認めず、むしろ他者をおとしめ、差別し、排除 し、さらには殺して行く、人間同士の罪とこの世の悪。
 それは、私たちにとって決して「よそ事」ではありません。わたしの罪も、あなたの過ちも弱 さも罪も、そして今私たちが見ているこの世の罪と悪も、すべては主イエスの前にあり、イエスが知っておられる。そして、それはイエスの「手にある」、つま り、イエス様はそれら「すべて」に対して今や「裁く」ことができる、態度を決めることができるのです。
 そのような知識を持って、そのような権威 と力を持ちつつ、主イエスは今やどのような態度を取られるのでしょうか。どう向かおうと決められるのでしょうか。聖書は、驚くべきことを語ります。「イエ スはーーー自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」皆さん、イエスが今目にしておられる世界と私たち は、極端に言えば「悪の世界」であり「罪人でしかない人間」です。そのようなものを前にして、私たちならどう態度を決めるだろうか。きっと忌み嫌い、避 け、非難し、断罪し、排除しようとするに違いありません。しかし、主イエスはなんとご自分に委ねられた「すべて」を、その「代表」としての弟子たちを「愛 する」と決められ、事実「愛された」のです。そして、この「愛」は半端ではありません。「最後まで」とは、大変強く、重い言葉です。「この上なく」とも、 「極みまで」とも訳されます。つまり、その程度においても、時間においても「極限まで」「最後まで」愛し、どこまでも愛し抜こう、と今主イエスは決意さ れ、それを実行して行こうとなさるのです。

 だから、今主イエスは、その愛をもって立ち上がり、行動されます。「夕食の席から立ち上がっ て、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとってて腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。」大変細かい描写 です。この姿を、この筆者はぜひとも、「あなた」にも思い描いてもらいたかったのです。しっかりと心に刻みつけてほしかったのです。
 皆さん、先 ほどイエスはあなたを「愛する」ことに決められた、と申し上げました。その「愛」に、私たちはどこで、どっちの方向で出会うことができるのでしょう。皆さ んは、祈る時に、どちらを向いて、どの方向に向かって祈りますか。たいてい、「斜め上、30度くらいの角度を向いて」祈るのではないでしょうか。しかし、 聖書はそれとは違うことを告げるのです。そのイエスの愛は、そのイエス御自身は、あなたの下、斜め下にある! あなたの足元にかがみ込んで、あなたの足を 洗いながら、あなたを下から見ておられる!
 この「下」は大変深い意味と広がりを持つ「下」であると思います。当時、この「足を洗う」という仕事 は、大変卑しめられた「奴隷」の仕事、しかも「二重」に差別されていた「外国人の奴隷」の仕事だとされていました。イエスは、その「下」にかがみ込み、座 り、足を洗われる。だから、これを単なる「謙遜」とか「卑下」ということで片付けてはいけないと思うのです。初めに申し上げたように、イエスの前には「こ の世」全体があった、そうした「奴隷」や「外国人」とその仕事に対する軽蔑や差別に代表される、「この世」のありとあらゆる罪と悪、それによって生み出さ れ、作り出される「壁」や「溝」、そのすべてを主イエスはご覧になり、そして、それらを「下から」越えて、今ここにかがみ込み、座っておられるのです。

  そこ位置しそのような姿勢で、イエスは、私たちすべてと、このように、ここで、関わりを持たれます。「足を洗う」。「足」、それは当時にあって、最も「汚 れる場所」でした。だから、ペトロは遠慮したのです。「わたしの足など、決して洗わないでください。」しかし、イエスはお答えになります。「もしわたしが あなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の係わりもなくなる。」言い換えれば、イエス様は、「この世」とまた私たちと、「ただその一点」でかかわり を持とうとされるのです。「その一点」とは、「足」、最もよごれるところ、私たちの罪と悪・呪い、それらすべてを御自身が引き受けて、御自身もよごれつ つ、そのよごれを洗い、ぬぐう、ただここでだけかかわりを持とうとされるのです。イエスはペテロの足元に座し、足で関わりつつ、彼の言葉を聴き、受け止 め、そして彼を理解されたのでした。
 このイエス様の行為は、あの十字架への歩みとその業を指し示しています。イエス様は、本当に世のすべての罪 と悪とその呪い・裁きを負って、私たちすべての者の救いのために、御自身を犠牲として死なれたのです。それは本当に「すべて」の人のためでした。ここで、 主はあの「裏切る者」ユダの足をも洗われました。イエスは、このユダをも愛し、その救いのために執り成し祈りつつ、その足をも洗われたのです。
  私たちが、自分自身の、また隣り人の、そしてこの世の罪とぶつかり、傷つけ合い、そして黙り、うつむき、下を向くほかないとき、そこに主イエスはいます。 私たちを「極みまで」「最後まで」愛し、愛し抜きつつ、私たちの足を洗いつつ、ありとあらゆる「壁」と「溝」を「下から」越えて、私たちを「下から」見つ めておられます。「ナザレのイエスは愛について、和解について教えることはしない。道徳規則を示すのでもなければ、人間を道徳的に裁くこともしない。イエ スは私たちを追い求める。私たちが溺れかけている水に入り、私たちがはまりこんで窒息している泥の中に入り、私たちが嘆いている孤独の元を訪ね、無力と絶 望と落胆の深みにはまっている人間のもとにもやって来る。」(ヨゼフ・ルクル・フロマートカ『人間への途上にある福音』より)

 このよう に行動されたイエスが、今や服を着け、席に座り、足を洗われた者たちに語り始められます。「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたし を教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしがあなたがたの足を洗ったからに は、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、わたしは手本を示したのだ。」これ は、極めて納得できる言葉です。そのようにイエス様に関わりを持っていただいた者、「下から足を洗ってもらった者」は、イエス様がなさったように生きるほ かはない、いや、そのように生きたいと切に願うのです。このイエス様の姿を思い、このイエス様との関わりを受け入れ、その愛をいただき、かみしめる時、私 たちは自分自身において、お互いの間で、またこの世界において、そこにある罪と悪、私たち罪人の闇の業を前にして、どう考え、どのような言葉を語り、どこ に立って、どの方向に向かって、どう振舞えばよいかがわかる。

 『私は戦争のない世界を望む』という本があります。アルノ・グリューンと いう精神医学者が書いています。この人はナチス政権時代のドイツで育ち、その後アメリカに移住しました。彼は、当時のドイツで、政治的・経済的・社会的な 大きな要因と共に、そこで生活していた人々の精神的あり方また具体的な生き方が、独裁者ヒトラーを生み出し、指導者として立て、そうして社会・国全体が戦 争へと向かい、差別や排除さらには殺人をよしとことになってしまったことを見ました。その中から、戦争を防ぎ、平和を実現する道を、ご自身の専門分野から 語った言葉です。
 この中で、グリューンはこう語ります。「世界を暴力やテロから救うことができるのはーーー『他者』と共感すること、つまり『侮 辱や屈辱や暴力の経験からくる他者の苦しみ』に共感することだけが、独裁者の登場と戦争の勃発を、防ぐことができるのである。そして私たちが他者の苦しみ に共感できるようになるのは、自分自身の苦しみを見い出し、それに理解を示すときだけである。」(アルノ・グリューン『私は戦争のない世界を望む』より) 「他者の苦しみに共感する」とは、もっと具体的に言い換えれば「他者に耳を傾け、聴く」ことでしょう。「人と人とを結びつけるのは、『共感』『思いやり』 である。共感によって、私たちは相手の置かれている状況の中に導かれ、その人の必要とするもの、願いや考え、活動を、同じように感じることができる。」そ のように「共感する」力「耳を傾けて聴く」力は、どのように養われ、育つのでしょうか。「『自分自身としてありのままに存在すること』を基礎に置くほんと うの強さは、子どもの頃に苦しい体験をした際、愛情に満ちた人に支えられていることによって、成長させることができる。そのように共感し、思いやりのある 態度でともに生きる人がいて、支えられることによってのみ、子どもは自分自身の苦しみを体験でき、その苦しみを『殺さなくてよい』という生き方ができるの である。」(同上)それは、「自分の下に座してくれる人」、「そこに座して、自分の足を洗ってくれる人」がいてくれることによって、と言い換えることがで きるでしょう。
 イエス・キリストは、まさにこのことを、私たち一人一人に、すべての人にしてくださいました。「下に座して聴く」。このお方こ そ、私たちをも、「傾聴」「共感」「思いやり」へと解放してくださるのです。このお方こそ、差別や暴力のない社会、戦争のない世界を信じさせ、待ち望ま せ、さらにそのような平和を作り出し、そのような世界を作り上げる生き方・道へと私たちを押し出し、共に歩んでくださるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 主イエスは、この愛を、弟子たちの足を洗うことによって、すべての人の足の下に座し、その足を奴隷のように洗うことによって示され、与えられ、成し遂げられました。
 私たちは、この愛、この道によって、神のもとに導かれ、神の愛に基づいて共に生きることが許されます。どうか今、互いに「下に座し」、互いに聴き合い、足を洗い合うことによって、このあなたの愛を、行い、表し、分かち合う教会、またその一人一人としてください。
まことの道、真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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