互いの心が内に燃えるような            ルカによる福音書第24章25〜36節


  「互いに聴き合うキリストのからだ」「互いに聴き合う」と言いますが、私たちは、いったいどんな言葉を互いに聴きたいと願うでしょうか。それは、まさにこ のような言葉ではないでしょうか。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか。」「お互の心が内に 燃えたではないか」、「互いの心が内に燃える」、そんな言葉を互いに語り合い、そんな言葉を互いに聴きたいと、切に願うのではありませんか。「『心が燃え る』とは、失望・絶望に支配されていた心に、新たな希望が備えられ、生きる力が与えられたということです。―――ここで語られている心の燃え方とは、ぱっ と火がつく、即に燃え上がるというものではなく、炭火が長時間燃え続けるようなじっくりして静かなものだった―――後々まで彼らは、この時与えられた希望 に生き続けたのです。―――主との出会いによって、彼らの心に消えない希望の火が灯されたのです。そしてこの希望の火に温められながら、弟子たちは新しい 人生に歩み出していきました。」(古賀博「終わりからも始まる」、説教集『キリストの復活』より)「互いの心が内に静かに燃え、苦しみや絶望から、人が立 ち上がらされ、新しい力を受けて歩みだして行く」、そんな言葉を互いに語り合い、聴きたいと思うのではないでしょうか。そのためには、いったいどうすれば よいのでしょう。

 ところが今日の聖書の箇所は、この願いとはまるっきり相反する状況から始まるのです。十字架につけられて死んだイエス が、それから三日目に復活されたその日の夕方、クレオパという人ともう一人の、二人の弟子がエマオ村への道をとぼとぼと歩いておりました。この二人につい て、聖書は心ふさがるような言葉で描いています。「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」「彼らは悲しそうな顔をして立ちどまっ た。」いかにもつらそうな、そしてがっかりするような描写ではありませんか。彼らはある意味では「復活」について話し合い、論じあっていたのです。それに もかかわらず、彼らは悲しみ、暗い顔をし、絶望していたのです。
 いったいなぜでしょうか。「復活ということについての知識は、キリスト者であれ ばみんな持っています。―――けれども、知っているということと―――現実の生活とはいささか距離があるわけです。ですからイエスが生きておられるのだと いうことが、もっと別の言葉で言えば、神がおられるということですら、実はそれが知識であったり、観念であったりする時には、それはむしろ喜びよりは、悲 しみなのです。つまり、自分たちが生きていくのも、しょせんは没落に向かって歩んでいるのだという聞き方しかできないところに、実は私たちの悲しみがある のです。」(岸本羊一『葬りを越えて』より)私たちにも、そんなところ、そんなときがあるのではないでしょうか。
 また、こうも言えます、「望み を持ったからこそ、絶望している」。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」「望み」を抱くのは、現状に不満 と批判を持っているからです。現代もそうですが、当時の社会や世界もまた大きな問題と不備、さらには不正と悪をかかえていたでしょう。それに批判を持つか らこそ、それが変えられることに「望み」を託す。そういう「望み」のないところに、「復活」の言葉は響かないのではないか。「もうこれでいい、この世は現 状どおりでいい」、そう思っている人はせいぜいこの命がいつまでも永らえ死なない「不死」は願うかもしれませんが、「死のただ中からの復活」は決して受け 入れないでしょう。しかしまた、「望み」を持っているだけでもだめなのです。「望み」がすぐにもかなうほど、この世は甘くもないし、世の悪は弱くもないの です。「望み」を持って「壁」に向かえば向かうほど、それにぶち当たり打ちのめされる、そして失望し、絶望するのです。

 はたして、そこからの打開、脱却の道はあるのでしょうか。「あるのだ、道はあるのだ」と聖書は語ります。これこそ、聖書が語る復活の言葉、イエス・キリストの福音なのです。この「道」とは、どのように開かれ、示され、導かれるのでしょうか。
  まず何より、今日の聖書の言葉が何度となく強調する言葉があります。それは、「共に」「一緒に」という言葉です。15「彼らが語り合い論じあっていると、 イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。」29「イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。」そして30節、「一緒に食卓に つかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに」。「しょせんは没落に向かって歩んでいるのだ」としか思えない私たち、また「望み つつも、だからこそ行き詰まり、挫折し、絶望せざるを得ない」私たちと、主イエスが一緒に歩んでいてくださる。そのような者たちの間で、復活のイエスが共 に生きてくださるのです。この「イエスが共に」こそが、私たちの行き詰まりから道が切り開かれ、新しく導かれ始まって行く、そのスタートであり、源であ り、始まりとなるのです。

 そうして共に道を行くイエスが、彼らにしてくださったことは何でしょうか。それは、「聖書の説き明かし」で あったのです。「復活のイエスが共にある」とは、単なるムードや感情の問題ではないのです。また主イエスは、私たちと世間話や趣味の話を楽しむために、共 におられるわけではないのです。「こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身について書いてある事どもを説きあかされ た。」この時わけがわからないままに、二人の心は不思議にも「内に燃えて」いたのです。私たちと共におられるイエスは、私たちにとって「わからない書」 「単調な、つまらない本」でしかない聖書を、「思わずページをめくりたくなるような面白い本」「血湧き肉躍る、信仰の冒険と、愛に基づく生きる力と、心の 内に熱く静かに燃える希望の書」として説き明かし、開いてくださるのです。それはなぜか、それは復活のイエスが開く聖書とは、生きた神の言葉そのものであ り、神の世界を私たちのために開いてくださるものだからではないでしょうか。復活のイエスによって聖書の御言葉が説き明かされる時、神様の世界が、神様の 語りかけが、そしてそれに対する私たちの信仰と希望と愛が開かれて来る、まさに「向こう側から」開かれて来るのです。神様の愛と真実、神様が具体的にアブ ラハムに、イスラエルに、マリヤに、イエス様がペテロに、サマリヤの女に、ザアカイに語りかけ、働きかけてくださったその言葉、その業、その歩み。その 時、この神様が本当にあのイエス様を復活させてくださった、このイエス様こそ「よみがえりにして、命なる」お方なのだということが、「向こう側から」私た ちに向けて開かれて来るのです。

 そのように聖書を説き明かし、神の言葉を開きつつ、イエスが彼らと共にしたくださったのは、彼らとの現 実的・具体的な交わり・関わり、食事そして分かち合いの時でした。よみがえりの主はご自身を分かち与えて、極めて具体的・現実的な関わりを持ってくださる のです。この旅人イエスは、この二人と徹底的に語り合われました。その悩みも悲しみも絶望も、悔しさも怒りも無力感も、すべて受け止め、聴いてくださいま した。そのうちに、だんだん日も暮れてまいりました。そろそろ今夜の宿を求めなければなりません。しかし、この不思議な旅人はなおも旅を続けるかのようで す。二人の弟子はこの人ともっと話してみたい、そういう強い思いに駆られました。二人は彼を強いて引き止め、一緒に宿に入ったのです。そこでこのようなこ とが起こりました。「一緒に食卓につかれた時、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわ かった。すると、み姿が見えなくなった。」この極めて親しい関わり・交わりは、教会で毎月行われる「主の晩餐」に表されています。「一緒に食卓につき、パ ンをとり、祝福して裂き、渡してくださる、そうして共に食べ、共に生きる」、それほどに確かな、それほどに親しい交わりを、復活の主は私たちと共にしてい てくださるのです。その時、イエス・キリストご自身によって、「向こう側から」、信仰の「目が開かれる」のです。「それがイエスであることがわかった。」 「お互いの心が内に燃えたではないか」と、神の御言葉を思い出し、喜ぶことができるのです。そして、「すぐに立ってエルサレムに帰って」行き、「イエスだ とわかったことなどを話す」力が、ただこのお方によって与えられるのです。それは、私たちの日常生活のすべての出来事、そのひとコマひとコマ、一歩一歩の 中で、具体的な出来事と出会いの中にイエスが立ち、復活の命に今も共に生きておられる御自身を示し、分かち、与えるという仕方で、私たち教会とその一人一 人にしていてくださるということなのです。

 未だに私たちの社会や生活の中に、暗い影を落とし続けているものの中に、差別の思想があると 思います。人と人を能力や身分また集団や国への所属といったもので身勝手に選別し、分断し、ひどい場合には人の尊厳や命までも奪っていく、そういう考え方 ややり方です。そういう考えによって物事を推し進めた一つの大きな勢力が、第二次世界大戦末までドイツを支配し続けたナチスの政権でした。「ユダヤ人」、 障害者、性的少数者などを選別し、迫害し、死にまでおいやっていったのです。そのようなナチスに、幾人かの人々が批判をし、抗議をし、抵抗をしましたが、 その中に一人の牧師・神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーがいました。彼はそのような言動の結果捕らえられて、収容所に入れられたのです。
 け れども、そのような過酷な環境にありながら、ボンヘッファーを支えていたのは、神が復活のイエス・キリストにおいて共にいてくださるという信仰でした。 「確かなことは、僕たちが常に神の近くにいて、また神の現臨の下で生きることを許されているということ、そのような生は僕たちにとって全く新しい生である ということ、神にとってなしえないことは存在しないがゆえに、僕たちにとって不可能なことはないということ、神の御心でないならば、この世の力は僕たちを 損なうことはありえないということ、危難も困窮もただ僕たちを神に近づかしめるだけということである。―――僕たちの喜びは苦難の中に、僕たちの生は死の 中に隠れている。確かに僕たちは、いつも僕たちを支える交わりの中に立っている。神はイエスにおいて、これらすべてに対して然りとアーメンとを言い給う た。その然りとアーメンとが、僕たちの立つ固い基礎なのである。」(ボンヘッファー『抵抗と信従』より)獄中で幸いにも彼は多くの他の囚人たちと関わり・ 交わりを持ちました。彼はその人たちと時におしゃべりを楽しみながらも、様々な人とキリスト教信仰について語り合い、時にはしばしば説教をも語ったという ことです。
 ついにボンヘッファーの最後の日がやって来ました。この日はイースター直後の日曜日で、彼はその獄中礼拝の中で、この聖書の言葉を朗 々と読んだということです。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中か らよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて行ける望みをいだかせてくださったのである。」(Tペテロ1・3)そしていよいよの時、彼は同 囚の一人にこのように告げて処刑場へと引かれていったのでした。「私にとって、これがいよいよ最後です。しかしまたこれは始まりです。あなたと共に、私 は、私たちの全世界的な教会の交わりを貫き―――あらゆる国家的な利害を超越するその原理を信じております。そして私たちの勝利は確かです。」(森平太 『服従と抵抗への道』による。)ボンヘッファーとその仲間たちの間にいてくださった復活のイエス・キリストが、彼らの心と思いを常に熱く燃やし、また彼の 証は今なお私たちの心をも静かに熱く燃やし続けているのです。

 復活の主が、私たちの間をも共に歩み、共に生きておられます。そのとき、 私たちは心燃やされる者たちとされるのです。その私たちは、ぜひとも互いに対して、神の愛と真実、またイエス・キリストの恵みとすばらしさを、心燃やされ て語り合いたいと思います。信仰とは、ただ「私と神様との関係」ではありません。私たちは、「互いに語り合う教会」となりたいと思います。互いに語り合う からこそ、私たちは「互いに聴き合う」ことができます。そして今も生きたもう主によって、「互いの心が内に燃やされ」、そのような言葉・メッセージをも出 て行って語り始め、分かち合う者たちとされることができるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  私たちの間を、今も復活のイエスが共に歩み、共に生きてくださいます。この主の共なる歩みと、聖書の言葉の説き明かしと、その豊かな交わりのゆえに、私た ちの心は互いに内に燃やされ、そして私たちは語り合い、また聴き合うことができます。この恵み、この交わりを、心より感謝いたします。
 どうか、この交わりをしっかりと受け止め共に生きながら、また私たちは外に向かっても、この世で共に生きるようにと出会わされる多くの人々に対しても、あなたの福音の言葉を語り行い示しつつ、それを共に分かち合い、互いに心を燃やし合って生きることができますように。
まことの道、真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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