あなたがたは聴く者となれ            マルコによる福音書第10章35〜45節


  物事を鮮やかにまたわかりやすく示し伝える方法の一つに、「比較対照」ということがあります。要するに、二つの物事を並べて、「比べる」のです。例えば せっけんのコマーシャルがあるとします。「Aという別のせっけんを使うと汚れはこれくらいしか落ちないけれど、当社のBというせっけんを使えば、これこの 通りこんなにきれいになります。」そういうふうにして比べてみれば、一目瞭然、「ああ、そうか」、場合によれば「こっちを買ってみよう」と思うことでしょ う。
 主イエスがここで使っておられる方法は、まさにこれだと思うのです。ここには、二つの、極めて対照的な人間のあり方、生き方、活動の方向 性、そして道が、イエスによって示されています。この二つの違いはあまりにも鮮やかであり明確なので、決して取り違えられることはありません。そして、こ の二つを比較対照することは、私たちに対する根本的な問いかけとなり、私たちに人間としての生き方の選択を迫るものとなるのです。

 主イエスがここで示しておられる、全く対照的な二つの道とは、一体何でしようか。
  その一つは、「(異邦人の)支配者と見られている人々」や「偉い人たち」の道です。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々 は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。」別の訳によれば、「暴圧で支配し、圧政を加えている」とあります。かれらは人々 の上に立ち、様々な多くのものを持っています。富、名誉、美(かっこよさ)、そして力(権力)。そもそも「権力」とは何でしょうか。私たちの今年度の主題 に引きつけて言い表わせば、それは「人に言うことを聴かせる力」ではないでしょうか。たとえ「いやなこと」でも、その人が「やってください」「やりなさ い」と言えば、どうしてもそれを聴かざるを得ない、従わないわけには行かない、そんな力、それが権力でしょう。それを使う側から言えば、何でも人が自分の 願う通りに言葉や願いや命令を聞き、思った通りに動いてくれる、というわけです。
 そしてもう一つの、それとは全く対照的な、正反対のような道、 それは「仕える人」「僕」の道です。何か「僕」と言うと「しゃれた」ようなプラスの感じを受けるかもしれませんが、でも要するに、はっきり言えば「奴隷」 なのです。まず、先ほどの「力ある人々」の下に立たねばなりませんし、自分の好きなように生きる自由もありません。そして、乏しい僅かなものしか持ってい ない。お金はない、社会的な評価は低い(名誉の反対)、そして決定的なのは「力がない」ということです。それは一体どういうことか。もう皆さんはおわかり でしょう。それは、「人の言うことを聴かなければならない」ということです。相手の求め、要求、願いを聴く、自分の都合や思いを脇に置いてそれを聴かなけ ればならないということなのです。

 さて、イエス・キリストは、この対象的な二つの道を示しました。「さあ、どちらを選びますか」という ことになるわけです。「そりゃあ、僕の道でしょう」と、模範的クリスチャン的答えをしないでください。それは、聖書が告げている現実ではないからです。イ エス様の弟子たちは、一体どちらを選び、願ったでしょうね。それは、まさに前者であったのです。イエス・キリストが十字架に向かい都エレサレムに向かって いる途上で、二人の弟子がイエスのもとに来て願いました。「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください。」か れらは、イエス様に「栄光に輝き、権力を振るうキリスト」をイメージし願っていました。「都に入ればイエス様は王になる。そしてローマをはじめとするあら ゆる敵・悪者たちを退治して、圧倒的な権力を振るわれる。その時、自分たちは、そのイエス様の右と左に座りたい。つまり、総理大臣と副大臣の地位に上りた い。」そのように思い、イエス様に願ったのです。またこれを聞いた他の弟子たちは、「憤慨した」と言われています。つまり、「抜け駆けをするな、おれたち もそうしたい」と言ったのです。
 「これが私たちの現実なのだ」「これが人間の現実なのだ」と聖書は語るのです。「彼ら(ヤコブとヨハネ)をあま りにも性急に断罪してしまう前に、どうか自分自身を静かに、そして正直に見つめてみよう。そうすると、われわれは、自分もまた認知され、重要視されたいと いう同じ基本的な願望を持っていることに、気付くであろう。ーーーわれわれはみんな、重要視されたい、他人よりも抜きん出たい、顕著になりたい、パレード を指揮したいと、思っているのである。」(マーティン・ルーサー・キング説教集『真夜中に戸をたたく』より)「競争や優位性を求めることは、私たちの現在 の共同生活の典型的な特徴である。ーーー子供の教育から一般社会人の生活まで、支配構造が、私たちの日常を形作っているのは事実である。ーーーまた他者と の比較が私たちの文化の原理となっている。私たちは、単純に自分があるように存在しているのではなく、いつも他者と比較して、多いか少ないか、善いか悪い か、上手か下手か、魅力的かあまり魅力的でないか・・・・というあり方をしている。競争と対立は、社会を存続させる法則として、私たちの社会構造の行動原 理となっている。」(アルノ・グリューン『私は戦争のない世界を望む』より)そんな社会の中で、「私たちもまた、権力や立派な業績、天才的な能力や優れた 才能、完全な美などの、偉大な魅力を求めているのではないだろうか」(同上)。
 弟子たちは、当時の極めて多くの人々と共に、常識的に、何の疑いもためらいもなく「当然前者だ。世の中で力を持ち、人に言葉を聴かせることが良いことであり、心地よいことであり、楽しいことなのだ」と思ったのです。

  しかし、イエス・キリストは言われるのです。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者 は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。」これが聞く弟子たちにとっていかに衝撃的な驚く べき言葉であったか、もう皆さんにはおわかりのことでしょう。
 そうなのです。主イエスは、社会の常識に反するようなこと、多くの世の人々にとっ ても思いも考え付きもしないことを語られたのです。そのイエスの視野と射程は、まさに社会全体、全世界にまで及んでいました。「世界的な視野で見ると、イ エスの生涯の時期は、かつての都市国家ローマがいまや世界帝国として確立する時期に照応している。ーーーしたがって、こうした時代状況の中でイエスの生涯 に近づいていこうとするとき、『ローマ帝国とイエス』という問題設定は避けて通れないはずである。ーーーなぜならばイエスは、ローマ帝国支配下の、貧しい 農民、病人、汚れた霊につかれた人々、徴税人、遊女、罪人たちの現実の中に深く入りこみ、両手で、心で、彼らをささえようとし、その心の比類のない深さと 広さのゆえに、普遍性をもつからである。こうした人々の背後には常にローマ帝国の支配という重圧があったのだから、イエスの宗教的な心情や行為はその現実 と接点をもち、火花を放つのである。」(磯部隆『ローマ帝国とイエス・キリスト』より)
 つまりイエスは、常にローマ帝国を意識し、その全世界的 な支配体制に批判的に向き合われたのです。なぜ「そうであってはならない」のか、それは、そのような「上へ、高く」という生き方、道が、結局は他者を犠牲 にして、他者の痛みや苦しみを前提として、自分や自分たちだけが栄え、生きようとするからではないでしょうか。その中で、多くの人の尊厳や命が奪われてい くからではないでしょうか。しかしイエスは、それとは全く異なる、正反対とも言える価値観と生き方を示し、教えられたのです。それは、「仕える者」「僕」 として立ち、生きる道でした。

 そして主イエスはこの道、この生き方を、なんと、ご自分の生き方と道を通して明らかに示し、それを高く掲 げ、積極的に肯定されたのです。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人と なり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。(なぜなら)人の子(わたし)がきたのも、仕えられるためではな く、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである。」「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからに は、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。」(ヨハネ13・14)
 「イエスがおいでになったのは、頂点にいる者たちが特権や名声や権 力を持ち、底辺にいる者たちが役立たずのように見られている世界を変えるためでした。』(ハワーワス/バニエ『暴力の世界で柔和に生きる』より)この道、 この生き方の先頭に立たれたのは、まさにこのイエスでした。「神と等しい方」、神の全知全能と栄光を分け合っているとされていた方が、天から下って、全く 人間の一人「人の子」となる、それは決してパフォーマンスでもポーズでもありませんでした。イエスの心からの生き方であり、イエスの切なる願いであり、何 ものにも代えがたい喜びであったのです。なぜならば、イエス・キリストは、私たち人間を愛されたからです。私たち、神から離れて罪人となり、その結果お互 いを支配し、蹴落とし、見捨てようとする私たちを憐れみ、はらわたが裂けちぎれるほどの熱情をもって愛されたからです。そのようなイエスの道は、ベツレヘ ムの飼い葉桶に始まり、ゴルゴタの十字架に至りました。十字架に至るまで、その全生涯イエスは「仕える人」として生きられました。すべての人に、とりわけ 社会から軽蔑され、差別され、見捨てられ、排除された人々にかえって仕えて、愛して生きられたのです。そしてその最後である十字架で、イエスはご自分の全 てを、文字通り「命」を投げ出されました。このイエスの生涯こそ、私たちを罪から、神から離れお互いを裁き見捨て倒し合う罪から救い、全く新しい命を与え る「あがない」の業であり、出来事となったのです。「あがない」とは、奴隷をお金を払って、自分が犠牲を払って救い出すことです。イエスはまさに、私たち をあのような生き方と世界の「奴隷」状態から救い出し、あがない出してくださったのです。

 このイエス・キリストが、今や復活された方と して、私たちと共にあり、私たちの前に立って、私たちを教え、助け、導いて行ってくださるのです。「イエスが描いておられたビジョンは桁外れのものでし た。イエスは巨大な憎悪と紛争に満ちたこの地に登場されました。平和とは、ローマの軍隊によって押し付けられたもの―――でした。しかし、いたるところに 衝突があったのです。私たちは、それぞれの集団が戸を閉ざし、自分たちと自分たちの伝統が一番だと考えている世界に生きています。―――イエスのヴィジョ ンの核心は、人々を呼び集めながら、出会わせ、対話させ、互いに愛するようにすることです。イエスは、人と人、集団と集団を隔てる壁を打ち破りたいので す。―――イエスはそれを、『あなたは大切な人です。あなたはかけがえのない存在です』とわたしたち一人びとりに語りかけることによって行おうとしておら れます。」(ハワーワス/バニエ、前掲書より)
 イエスがそうして私たちに示し招く、「僕の道」「仕える道」、それは具体的には、「聴く」こと、 「互いに聴く」ことから始まります。なぜなら、イエスが批判された「権力者の生き方」が、「人に言うことを聴かせる」道だったからです。「しかし、あなが たの間では、そうであってはならない」、ならば、私たちはイエスから「聴くこと」を学ばなければなりません。何より、主イエスが一人一人に語りかけてくだ さる言葉を聞くことです。「あなたは大切な人、かけがえのない存在です。」この主の言葉に聞くならば、私たちは否応なく「互いに聴く者たち」とされるので はありませんか。そのように「大切な、かけがえのない」一人一人の他者が語る言葉、その切なる願い、とりわけ世にあって弱くされ、多くを奪われている人た ちの叫びに耳を傾け、お互いに聴き合うことをして行くことになるのです。神への感謝をもって、お互いへの喜びをもって、神の国への希望をもって、この道を 共に歩んで行く者たちとされるのです。
 「平和構築であれ、ソーシャルワークであれ、そのほかわたしたちの世界をよりよくしようとするどのような ことであっても、他者は大切な存在である、という確信なしに存在しえないのです。『あなたは大切な人です』。―――そう、ただあなたこそが。そしてわたし たちには、単に歴史を受け入れるだけでなく、歴史をつくっていく使命があります。わたしたちは状況を変えるために、―――歴史の流れを変え、わたしたちの 世界を単なる紛争と競争の場所ではなく愛の場所にしていくために―――招かれているのです。」(同上)「あなたがたは仕える人となり、僕となれ。あなたが たは聴く者となれ。」イエス・キリストの招きが、今私たちの前にあるのです。

(祈り)
私たちすべての者の天の父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスは、私たちの全く知らなかった新しい道、命の道を私たちの前に開き、ご自身のお体をもって、生き方と道をもって、十字架と復活の全生涯をもって示 されました。それは、「仕える道」「僕の道」「耳を傾けて他者に聴く道」でありました。このイエスの道こそが、私たちの世界に赦しを与え、和解を与え、愛 と命を与えるものです。
 どうかこの私たち一人一人また教会が、イエスの御言葉を信じ、それに従い、それによって生き、仕え、聴く者とされますように。そうして、どうか、この世における福音の証人、あなたの僕として生き、用いられることができますように。
まことの道、真理そして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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