ひたすら聴いて、解きなさい            マタイによる福音書第18章15〜22節


 会社や店、また様々な組織や団体の良し悪しを見分ける、とても簡単でわかりやすい方法があると思います。それは、クレーム・トラブルへの対応です。
  人間、いいときはいいのです。でもひとたび何か困ったことが起こったとき、手違いや都合の悪いことが起こった場合、さらには不祥事と言えるようなことが起 こったとき、それにどのように対処し、責任を取り、解決の道を開けるか。それが、その組織や団体の良し悪し、本質、本当の姿を一瞬にして明らかにするので はないでしょうか。
 私自身の個人的な気持ちを言えば、そういう場合、まず謝ってほしいと思います。「申し訳ございません」と。それを踏まえて次 に、初めて実際の解決が始まるのだと思うのです。しかし現実には、残念ながら謝らない人が多いように感じます。あるいは中途半端にか、開き直り的にか「誤 解を与えたとすれば、謝罪する」というような言葉遣いが多いと思います。これは、暗に「誤解をしたお前たちが悪いのだ、私は本質的には何も悪くないのだ」 と言っているようで、大変不快に感じます。謝ってしまうと自分が責任を取らされ、不利な立場に追い込まれると思うのでしょうか。でも、苦情を受けている人 は、組織を代表しているのですから、自分のミスではなくても、代表して「ごめんなさい」と言ってほしいと思うのです。また「自分だけが責任を取らされる」 と、そう思わせてしまう組織は、まさに「問題だ」と言えるのではないでしょうか。
 それはさておき、問題が起こったとき、都合の悪いことがあったときにうまくできるのなら、通常の場合はなおのこと、すべての場合において、うまくできるのだろうと思います。
  教会もそうです。ことが信仰に関わる場合も、まさにそうです。「互いに聴き合う」ということが、私たち四日市教会の今年のテーマですが、何を聴き合うので しょうか。また、いつ、どのような場合に聴き合うのでしょうか。普通のときに、またお互いの関係が良好なときに、比較的まっとうなテーマについて、互いの 意見や思いを聴き合うことはできるでしょうし、それはそれで大切なことですし、またそれでも色々な努力を必要とすることでしょう。
 しかしここで イエスは、「でも、それだけではないのだ、また、それだけではいけないのだ」と言っておられるように思うのです。なぜなら、「もしあなたの兄弟が罪を犯す なら」と書いてあるからです。教会の中に問題が起こったとき、教会の人々の間にトラブルがあったとき、「兄弟が罪を犯す」ということが起こったとき、どの ようにするのか。どのように責任を取り、どのように対処し、どのような解決を目指すのか。それによって教会が問われ、また教会の信仰が問われ、教会のこの 世における証が問われるのだ、そう語っておられるように思うのです。

 どうすればいいのでしょうか。教会の主イエス・キリストはここで、その時には「徹底的に、互いに聴き合いなさい」と語っておられるのではないでしょうか。15〜17節 
  ここには、順番に三つのステップが語られています。まず、「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれ たら、あなたの兄弟を得たことになる」。最初は「ふたりだけ」というのは、その相手、「罪を犯した」とされる人のプライバシーと名誉を尊重するためです。 そのような場で、ここでは「忠告しなさい」とありますが、ただ一方的に「忠告」を宣告し申し渡すだけで、はたして事が済むでしょうか。私は当然のこととし て、その前に、相手の言い分や気持ちを、忠告しようと思う側の人が、聴かなければならないと思います。どんな場合や状況であっても、相手の言葉に耳を傾け て聴かなければ、正しい忠告などできるものではないでしょう。そこにそうした傾聴があり、真摯で誠実な対話があって、その結果その人が忠告を聞いてくれた ら、それはキリストにある「兄弟」、信仰の同志を「得る」、取り戻し回復したことになるのだと、イエスは言われるのです。
 でも、それだけでは事 が済まない場合もあります。その場合は、次の場へと移ります。「もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。」それでもだめ なら、「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい」。そのすべての、それぞれのステップ、場においても、やはり第一に来るのは、その人の言 葉・気持ちを「聴く」ことです。教会は、どのような場においても、同じ原理・原則がなされなければならない所だと考えます。「ふたりだけ」のところで「聴 く」ことが第一なら、どんな公の場でも「聴く」ことが第一なのです。
 「聴く」、このことを、三つのステップ・場にわたって、ずっと継続的に、そ して徹底的にやりなさい。「あなたがたは、耳を傾けて聴くことを、とことん、最後の最後までやりなさい」、そう主イエスはおっしゃっているのではないで しょうか。ある方は、「『いかに切り捨てないようにぎりぎりまで努力するか』ということにポイントがあります」と言っています。(幸田和生氏による。) もっとも最後には、「その人と関わりを断ち、交わりを持たないようにしなさい」と取れる言葉も語られてはいますが、これとても、「イエス様に委ねなさい」 「私たちがどうにも扱えないような場合には、神に任せなさい」、またパウロが語るように「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主の裁きの日に救われるように」 とできる限り肯定的・積極的に取るのがよいと思います。

 「あなたがたは、聴き合いなさい、とことん、最後まで聴き合いなさい」。なぜで しょうか。そこに、イエス・キリストがおられるからです。互いに聴き合う教会のただ中に、主イエスがいてくださるからです。「ふたりまたは三人が、わたし の名によって集まっているところには、わたしもその中にいるのである。」これは、単に「気の合う仲の良い人たちが二三人集まっていれば、それが教会だ」な どということを言っているのではありません。「ふたりまたは三人」、それは分裂や争い、また互いの意見の対立や葛藤に悩む人々であるかもしれないのです。 そのただ中に、イエス・キリストは立っていてくださる、共にいてくださるという、福音の約束を語っているのです。この世に来られたその最初から、イエスは 何よりも「聴く方」でありました。イエスは、様々な問題や悩みを抱えた人と出会うとき、何よりもまず相手の気持ちや状況を「聴かれ」ました。その上で、そ の人に答えを与え、あるいは逆に問いかけ、また思いや願いを超えて神の業・神の出来事をその人の上になさったのです。
 そうしてこの世を歩み生き られる中で、イエスがとことん徹底的に味わい経験されたのは、この世の罪であり、その結果としての分裂であり争いであったのです。イエスは、この世の罪の 渦の中に自ら飛び込まれ、その中に巻き込まれ引きずり込まれながら、この罪を徹底的にご自分が引き受け、担い、その身に受けて十字架につけられ、死なれま した。神はこのイエスの死を、世の和解と共生のための死、贖いと赦しの出来事とされ、このイエスを罪と死に勝利させて復活させられました。
 和解 と赦しの主イエス・キリスト、このお方が、罪と争い、分裂と葛藤に悩みながらも、互いに聴く、とことん最後まで、行けるところまで聴き合おうとする、教会 のただ中に共にいて、そのような私たちを助け導いてくださるのです。誰よりも、イエスが聴いてくださいます。誰よりもイエスが共感してくださいます。誰よ りもイエスが身を挺して解決策を示し、その実現のために働いてくださいます。それが聴き合おうとする私たちの希望であり、私たちの力となるのです。

  このイエス・キリストが、私たちのために、神の愛と働き、その助けを、しっかりと約束し保証していてくださいます。「よく言っておく。もしあなたがたのう ちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいます父はそれをかなえてくださるであろう。」これも、「たまたま、都合よく、偶然 に、また当たり障りなく願いが一致する」というようなことを語っているのではないと思います。私たちの願いとというものは、もともとは違うものなのです。 もともとは互いに違い、対立し合っているようなものではないでしょうか。そして時には「共に願う」ことすらできない、という状況だってあり得るのです。
  では、どうするのか。「互いに聴き合う」のです。この「心を合わせる」という言葉は、「シンフォニー、交響曲」の元になった言葉だそうです。オーケストラ の音が初めから合うなどということはあり得ないでしょう。最初はばらばら、でも互いに音を聴き合い、合わせよう、共にやろうと努力し、互いに助け合い補い 合って行くときに、初めて良い美しいハーモニーが生まれるのです。私たち教会も、互いに違うところから、いや時には対立し合うところから、共に聴き、共に 合わせ、共に生きることを努め、励んでいく、そのすべての道にイエス・キリストが共にいてくださり、そうして「心を合わせ」、一つとなって行くならば、そ こで生まれる願い、求めに、神は必ず答え、助けてくださるのです。
 「べてるの家」で長年働いてこられたケースワーカー向谷地生良さんは、一対一 で向き合う「対面的な傾聴」ではなく、「並立的な傾聴」が大切だと言われます。「私たちが提案しているのが、『並立的傾聴』です。それは、横並びになり、 起きている問題をテーブルの上に載せるようにして、一緒にそれを眺めながら研究的に対話を重ね、対応策を考える関係です。」(向谷地生良『精神障害と教 会』より)そのようなあり方は、神の前に自分たちお互いの無力さを認めさせ、そしてこのような方向性を生み出すのだと言われます。「私たちが、互いの無力 さを受け止め、神様にゆだねるという立場に立った時、互いの関係の中に回復の新しい地平が見えてきます。―――『前向きな無力さ』というテーマについて、 私自身が日常の相談活動で大切にしている七つのポイントを紹介したいと思います。一つ目は、『その人を支配したり管理したりしないこと』。―――二つ目 は、『自分の力のなさを認めること』。―――三つ目は、『自分自身を変えること』。―――四つ目は『自分と相手を受け入れること』。―――五つ目は『正す ことではなく、励ますこと』。―――六つ目は『その人の人生を認め、大きな力にゆだねること』。ーーー最後は、もっともかかわりの難しい当事者は、誰でも ない自分自身であると、日頃から心にしっかりと刻んでおくことです。」(同上)

 そのような約束を与えられている教会の役目、この世に送 り出されている使命があります。それは「解く」ことです。「よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解く ことは、天でもも皆解かれるであろう。」「つなぐ」とは、罪に「つなぎ」、裁き、責め、断罪することです。反対に「解く」ことは、罪から「解き」、赦し、 解放し、受け入れることです。主イエスが言われるのは、「あなたがたはつなぐのも解くのも自由自在だから、あなたがたの好きなようにどんどんやりなさい」 ということではありません。「あなたがたが人をつなぎ、人を裁くなら、それは神の前でも同じことになるという重大なことになってしまうのだ」、だからイエ スが言いたいのは「あなたがたはひたすらに解きなさい、ひたすら人の言葉や気持ちを聴いて、その中でとりなし、仲立ちをし、罪を赦し、和解のために努力 し、共に生きることに励みなさい」ということではありませんか。
 教会の生き方は、教会の生きる道は、ただ自分たちだけのものではありません。お 互いの分裂と争いに悩み苦しむこの世とそこに生きる人々のただ中に、神によって送り出され出て行って、そこでイエスと共に耳を傾け聴く、そうして人々の対 立と葛藤と争いを「解く」、ひたすら「解き」、罪を赦し、和解のために仕え、働き、生きる。このための場と道があるのだ、十分に備えられ、確かにあるのだ と言うのです。「震災から4年経ってとにかく多くの人に伝えたいのは、教会にできることがあります、ということです。―――あまり気張ることはないんです けど、教会《に》できることがあるのでやりましょうというのが、私たちの見つけたことで―――一つは、教会は小さいから調整役には最適なんです。脅威と思 われていないので。そうかといって無力かというと、世界会議に出てきましたと話をして、びっくりされる。―――私たちが自分たちだけでやろうとするとうま くいかないし、私たちにできないことは、無理をしても、やっぱりできない。できることをほかの人たちと一緒にやると、ばっと驚くようなことがたくさん起こ ります。」(川上直哉氏、『3・11以降の世界と聖書』より)

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストによって私たちをとことん最後まで愛してくださる神よ。
  和解の主として来てくださったイエスは、私たちのためにひたすら聴き、解き、共に生きてくださいました。その生涯、十字架と復活の生涯を通して、私たちは 罪赦され、神によって生かされ、共に生きる者たちされました。どうか、どんな場合にも、試練や罪のただ中においても、どこまでも互いに聴き合い、ひたすら に罪から解き、争いから解き合う教会として、その信仰者一人一人として共に歩み、またこの世においてもこの福音の証と奉仕をなさせてください。
まことの道、真理そして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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