今日、ここから、イエスと共に聴こう            マタイによる福音書第5章21〜26節


 今年度の私たち四日市教会の主題にちなみ、「互いに聴き合うキリストのからだ」というテーマで、今日から10回シリーズのお話をしていきたいと思います。
  ところで、この「互いに聴き合う」ということ、これを私たちはどの程度真剣に、重く受け止めているでしょうか。ここで、今日の主イエスの言葉は、私たちに 衝撃を与えます。「『互いに聴き合う』ということ、それは、『よかったら、やりましょう』、あるいは『できるところでやりましょう』というようなことでは ないのだ」と、イエスが言っておられるように思うからです。むしろ、「ぜひともやらなくてはならないのだ、差し迫って、どうしてもしなければならないの だ」と語っておられるように、感じられてならないのです。
 なぜなら、主イエスは、ここに挙げられている事柄によって、「あなたがたの間には、不 和があるのだ」、「あなたがたの間には、怒りがあり、軽蔑があり、侮蔑があるのだ」、「あなたがたの間には恨みがあり、裁きと訴えがあるのだ」と語ってお られるからです。「兄弟が自分に対して何かうらみをいだいている」、「兄弟に対して怒る者は、愚か者と言う者は、ばか者と言う者は」、「あなたを訴える者 と一緒に道を行く時には」。
 「それは、特別な場合、極端な場合でしょう」と、思わず言いたくなります。確かに、少なくとも今は幸いなことに、そ こまでのことは、私たちの教会ではあまり考えられないかもしれない。けれども、教会にはそういうことがないかと言えば、絶対にあります。ある面、「よく聞 く話」です。
 そしてまた、ひるがえってこの世界、私たちもまた生きている「この世」、私たちのいる社会を見てみるならば、どうでしょうか。ある 方は、この箇所について、怒りや軽蔑や侮蔑をもって人を見、人に接する時に、それは「ハラスメント」ということになるのだと言っておられます。「態度によ る暴力もあります。力関係しだいでは、腕組みだけでも不機嫌な顔を見せるだけでも、支配の道具となり、相手を畏怖させるに十分な暴力足り得るということで す。モラル・ハラスメントなどとも呼ばれます。イエスが言う『腹を立てる者』は、態度による暴力を行っている人をも指しうるでしょう。」(泉バプテスト教 会ホームページより)また、経済的搾取とそれによる格差、差別そして戦争は、人々の心にいやしがたい傷を残します。そこから恨みが生じ、怒りが生まれ、ま た訴えが起こされます。
「かの国には静かに、日本軍によって失われたいのちを悼む人たちがいる。許すけれども忘れない人々が大勢いる。その人たち を非難できるだろうか。しかし当の加害者のほうが、記憶喪失のように忘れたとすればどうだろう。事実を都合に合わせてねじ曲げるようなことをしたらどうだ ろう。侵略された国々が過去を思い起こさせようとすれば、言いがかりをつけるのかと開き直ったり、あれから60年も過ぎたではないか、執拗なやつだと逆に 非難したらどうだろう。」(下嶋哲朗『平和は「退屈」ですか』より、『聖書教育』誌2012年7・8・9月号による。)そして教会もまたこの世に存在して いる以上、それと決して別物ではあり得ません。教会もまた、この世の罪を分け合っているのです。
 そのような世界の中にあって、教会はどう生きる のか。「それは、互いに聴き合うことだ」と、イエス・キリストは語っておられるのではないでしょうか。ここで主が命じておられることは、「和解せよ」「仲 直りせよ」ということだと思います。和解し仲直りするためには、何と言っても相手の言い分を聴かねばなりません。とにもかくにも、自分の感じる「正し さ」、価値観や評価をいったん脇に置いて、自分を低くして相手の言葉に聴き入られねばなりません。そして、このことがお互いの間で起こる時、それが仲直り となり和解となるのではありませんか。イエス・キリストの教会は、「互いに聴き合う」という生き方をもって、この世界にイエスの福音を証しする。その「聴 く」という時、ただ「公平中立に」ということではなく、私たちは福音に照らして「より弱い方に、より低い方に、より苦しんでいる方に重点を置いて聴く」と いうことになるでしょう。でもとにかく、「聴く」「聴き合う」ということが、私たちの証であり、伝道であるのです。

 なぜならば、それは 神の裁き、つまり神の正しさに関わっているからだと、イエス・キリストは言われます。「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われて いたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむ かって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」なんとイエスは、人に対して怒るこ と、他の人を「ばか者、愚か者」と低く評価し、軽蔑し、見捨てることは、神の前で「人を殺す」ことと同じ重みを持ってしまうようなことだと言われるので す。
 なぜならば、イエス・キリストは、ラディカルなまでに、人をびっくり仰天させ腰を抜かさせるほどに、すべてのあらゆる人を肯定し、生かして おられる天の父なる神の愛を根本から完全に知り、ご自身がそれをまさに体現しておられるからです。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼ らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」すべてのあらゆる人は、誰一人として例外なく、神によって愛をもって創られたかけ がえのない存在であり、またこのイエス・キリストがその人の救いと幸いのためにご自身をなげうって生き死なれた者であり、さらには神の国と神の道のために 神が呼び招いておられるパートナーなのだからです。
 そしてこのことは、大きな広がりをもって私たちに迫り、問いかけてきます。「1970年、横 浜である殺人事件が起こった。障害児二人を育てる母親が、二歳の女児をエプロンの紐でしめ殺したのである。当時のマスコミは母親の犯行を日本の福祉施設の 不備故に起きた『悲劇』であると報じ、地元では母親への減刑嘆願運動が起きた。これに対して、神奈川県の脳性マヒ者の当事者会『神奈川青い芝の会』は、強 い異議申立をする。―――『普通、子どもが殺された場合その子どもに同情が集まるのが常である。―――しかし今回私が会った多くの人の中で、殺された重症 児をかわいそうだと言った人は一人もいなかった。―――』―――障害児だから殺されても仕方ないかどうかは、『重症児を自分とは別の生物とみるか、自分の 仲間である人間とみるか(その中に自分をみつけるのか)の分かれ目』である、という。―――『なぜ、彼女が殺意をもったのだろうか。―――彼女も述べてい るとおり『この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ』と思ったという。なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めよう とする。この人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって、障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され 続けている。』」(竹端 寛『枠組み外しの旅 「個性化」が変える福祉社会』より)

 「だから、それは差し迫っている、どうしてもしなけ ればならないことなのだ」と、主イエスは言われるのです。「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいているこ とを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰って来て、供え物をささげることにしないさい。 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。」「今」という時に、相手の言い分に聴き入りなさい。今この時に、相手の恨み に、怒りに、訴えに、虚心に耳を傾けなさい。自分の正しさや思いを棚上げし、あえて自らを低くして相手に聴きなさい。そのようにして互いに聴き合う者たち となり、和解を求め、仲直りを図りなさい。それは、「祭壇への捧げ物を差し置いても」なお、つまり神を礼拝することに先立ってまで、優先させるべきことな のだ。どんなに誇張表現として受け止めたとしても、こうして互いに聴き合い、和解し、仲直りを目指すことは、神を礼拝し、神のために奉仕することに匹敵 し、同じ重さ同じ尊さを持つ事柄であるのだと、イエス・キリストは言われるのです。「今はまだ恵みの時である。なぜなら、なおわれわれには一人の兄弟が与 えられており、なおわれわれは『一緒に道を行く』からである。―――兄弟の意を迎えることが許され、兄弟が自分の権利を主張するのを許すことは、恵みであ る。われわれが兄弟と和解することができるのは恵みである。」(ボンヘッファー『キリストに従う』より)

 しかし、この話をずっと聞いて きて、また私自身も話してきて、つまずきや疑問を持つのではないでしょうか。「これほどまでの言葉を、どうして受け入れ、そうだと言い、信じることができ るのか。」「しかし和解も―――それは相手のある仕事だからだ。そして一度怨まれたら、どんなに手をつくしても、相手は、許したら自分のせっかく怨んだう らみに対して相すまぬと思うのか、なかなか許してくれない場合が多いのである。―――そして私の目に見えるものは、和解できなくて祭壇の前でひとりしょん ぼりと、いつまでもおかれているかわいそうな供えものなのだ。そしてこの供えものこそは、実は、この世界のなかの全体をあらわしているものではないか。」 (椎名麟三『私の聖書物語』より)
 ここでこの難問を解き、この言葉に一つでも聴き入るヒントがあると思います。それは、この言葉の前に置かれた 「しかしわたしは言う」というイエス・キリストの言葉です。「しかしわたしは言う」と、イエスは言われるのです。「しかし」というのは、「この世」の厳し くも冷たい現実、そして罪深く頑なで信じないこの世の罪を踏まえた言葉です。「そうだろう、あなたがたはこの言葉を受け入れられず、信じられないだろう。 そしてそのあなたの思いを裏付け強めて、がっかりさせ、挫折させるような、数々の出来事にぶつかっているだろう。しかし、わたしは言う。」そして「わたし は言う」です。その現実、この世界に向かって、「わたし」イエス・キリストは言われるのです。この言葉は、このイエス・キリストしか言えない言葉、イエス だからこそ語れる言葉なのではありませんか。
 決して身勝手な怒りあるいは「正当」とされる怒りをもっても退けられてはいけない人間、どんな人も 「ばか者」「愚か者」「劣った存在」「価値なき者」と言って低められ、貶められ、否定されてはいけない人間、この一人一人の人間の存在、価値、その重み。 それを実証し、確証し、決定づけるために、あえてその人間、全く一人の人間となり、人間として生き、人間と共に歩まれたお方。また、その一人一人の人間、 神の前に罪人であり、またお互いを傷つけ合い、見捨て合い、なき者にし合っているその人間を救うために、この人間を幸いに活かすために、あえて自分自身を なげうって、徹底的に生き、十字架に至るまで生き、死なれたお方。そして三日目に神によって復活させられ、神と共に生きる永遠の命に生き、そのご自身の命 を私たちすべての者に分かち与えて、神のパートナーとして生かそうとされ、常に働き、導いておられるお方。イエス・キリスト。このイエスにしか語れない言 葉、このイエスだからこそ語れる言葉なのではありませんか。
 イエス・キリスト、彼こそ「聴く人」「聴き入る方」です。二人の弟子が失意と怒りま た絶望の内にエマオへと旅を続けていたとき、復活のイエスは彼らに歩み寄り、彼らの言葉に聴き、虚心にひたすら耳を傾けられました。彼らを怒らず、裁か ず、退けずに、ひたすら聴き入ってくださったのです。このイエスによって二人は慰められ、力づけられ、生かされて、再び立ち上がり、出かけて行きました。
  今もこのお方、十字架と復活の主イエス・キリストが、私たちの言葉に耳を傾け、聴き入っていてくださいます。私たちの間で、私たちの教会で、私たちのそれ ぞれの場で、この私たちの社会で、この私たちの世界で。そこでひたすら聴き入りながら、和解の業を進め、仲直りの出来事を実現するために働き、仕え、歩ん でいてくださいます。このお方に促され、私たちも信仰の一歩を踏み出しましょう。そこで、その時、私たちもまた「互いに聴き合う」者たちされるのです。今 日、ここから、イエスと共に聴いて行く者とされましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父なる神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスは、ご自身の到来と、その十字架を通ってこそ復活に至られたその生涯をもって、あなたの極みない愛を示し、行い、与えられました。このイエスに よって私たちは、あなたの前でのすべての一人一人の価値と重さを知らされました。だからこそ互いを重んじ聴き合いなさい、だからこそ和解と共生に生きなさ いと、主イエスは私たちを力づけ、促し、押し出されます。復活の主として私たちの困難な歩みに伴い、頑なで不信の者である私たちととことん付き合われま す。どうかこの主と共に、こんな私たちでも「互いに聴き合う者たち」、そのようにしてこの世に福音を証しするキリストのからだなる教会として、一人一人を 生かし、強め、お用いください。
まことの道、真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

戻る