聞き、語らずにはいられない                    アモス書第7章1〜9節


 「主に聞く」ということが、今年度の私たち四日市教会の主題の一つです。「主に聞く」、ということは、その前提として、当然「主が語られる」ということがあるはずです。「主が語られる」、だからこそ私たちが「主に聞く」ことができる、ゆるされるのです。
  「主が語られる」、その語り方にもいろいろあります。今日のこの「アモス書」では、「主がほえる」という、実に強烈な表現がなされています。預言者アモス たちが活躍したイスラエルの地には、昔「獅子」つまりライオンがいました。その獅子がほえるように、主なる神様が「ほえる」。「主はシオンからほえ、エル サレムから声を出される。牧者の牧場は嘆き、カルメルの頂は枯れる。」(1・2)主なる神のほえ声は実に強烈で、空気を切り裂き地を震わせる。その結果も また強烈で、それは乾いた東風に乗って吹く嵐のように、地に吹きまくり、花をしおれさせ、草や作物を枯らしてしまうほどだというのです。

  アモスが生きていた当時は、南北に分裂していたうちの北イスラエル王国は、最盛期の絶頂にありました。王様で言えば、ヤラベアム二世の時代です。この北イ スラエル王国は、聖書の評価では、常に主なる神に背き続けた国です。でもそんな国が、今最盛期の絶頂を迎えているのです。政治的絶頂、軍事的絶頂、経済的 絶頂。国の領土はかつてないほどに広がり、政治的権力は集中し強大化し安定していました。また諸外国から莫大な富が流れ込み、国の富は溢れかえらんばかり に増大していました。しかしその一方で、と言うよりそれとまさに同時に、北イスラエルでは不正と悪が甚だしく横行していました。社会的不正、政治的不正、 そして文化的・宗教的不正。国の富は増大しましたが、その配分は著しく不公平でありました。その莫大な富の大部分は、ごく一部のエリート層・富裕層に集中 し、経済的・社会的格差が目もくらむほどに拡大しました。贅沢に遊び暮らしている者たちがあるかと思うと、大部分の民は今日の暮らしにも困窮し、家族や自 分自身を売り飛ばすしかすべがないような者たちが溢れていました。そしてこの現状を、知識や情報を多く持っていて正しい判断ができるはずの学者や、さらに はそれを倫理的・道徳的に正すべき宗教者たちも、正当化し、補強し、その「おこぼれ」にあずかっている有様であったのです。誰も、権力や富を持つ者たちを 恐れて、これに正面から立ち向かい、批判する者はおりませんでした。
 こんな時代、こんな社会の中で、そこに生きる者たちに向かって、今「主がほえる」。主なる神は、この世の中に大いに怒り、激しく憤り、その憤りと怒りとをもって「ほえる」のです。そして、花をしおれさせ草を枯らすほどの激しさをもって罰と裁きを語られるのです。

  アモスは本来「預言者」のプロではありませんでした。隣の兄弟国ユダの田舎で牧畜業を営む一介の農夫に過ぎなかったのです。しかしある日ある時、このアモ スに向かって、主なる神はご自分の「ほえ声」を聞かせられました。他の誰も不信仰と背きまた不従順の罪ゆえに、聞き取ることができなかった神のほえ声を、 アモスは不思議にも聞くことがゆるされたのでした。
 アモスは、この主のほえ声に圧倒されました。それを聞いて彼は震えました、恐れました。そし て思わずこう告白せざるを得なかったのです。「主はシオンからほえ、エルサレムから声を出される。牧者の牧場は嘆き、カルメルの頂は枯れる。」「ししがほ える、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう。」(3・8)アモスは主のほえ声、そして彼を呼び、さらにはイス ラエルの民を呼ぶその声に圧倒され、聞かないではいられなかったのです。そして語らずにはいられない、預言しないではいられなかったのです。
 こ うしてアモスは今預言者となりました。そして北イスラエルに出て行って、語ったのです。神の怒りの言葉を、神の審判・裁きの言葉を。「主はこう言われる、 イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるされない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売 るからである。彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。彼らはすべ ての祭壇のかたわらに質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。」(2・6〜8)「あなたがたは言う、『新月はい つ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さく し、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう。」(8・5〜6)
  時は「地震の二年前」であったと、聖書は語ります。もうすぐイスラエルを大地震が襲うのです。未曾有の地震、すべてのものを震わせ、破壊し尽くしてしまう ほどの災いが来るのです。そしてこの数十年後、イスラエルは大国アッシリアの大軍の前に滅び去り、家と街は焼かれ、人々は遠い異国へ奴隷として連れ去られ て行くのです。

 こんな話をすると、誤解される方があるかもしれません。主なる神は、特にこの「アモス書」に出て来る神様は、怖く、厳し いだけの方ではないか。またその神によって突き動かされて語る預言者アモスも、ただ強面の、クスリとも笑わないような頑固な堅物。実は、かく言う私も、ア モス、アモス書とそこに出て来られる神様にそんなイメージを持っていたのです。
 でも、違うのです。今回、違うのだとはっきりわかりました。確か に神は、悪に怒り、罪に生きてしまう人たちに、厳しく語り、容赦のない裁きを宣告されます。しかし、それと同時に、いやそうだからこそ、神は、その罪に生 きる一人一人が、神のもとに正しく立ち帰り、ひるがえって生きることを、幸いに生きることを願い、求められるのです。「あなたがたは主を求めよ、そして生 きよ。」(5・6)「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。」(5・14)「公道を水のように、正義を尽きない川のよう に流れさせよ。」(5・24)だからこそ、神は愛であられ、真実であられるのです。

 預言者また信仰者は、この神に知られ、この神に呼ば れるがゆえに、この神の声に聞き、圧倒されて、「聞かずにはいられない、語らずにはいられない」者となり、またこの神のゆえに人々のために祈り、人々に向 かいかれらを代表して語る者となるのです。このことをまさに示すのが、今日共にお読みした七章の光景なのです。
 神はアモスに、イスラエルに対す る審判の有様を、あらかじめ幻の内に示されました。「主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、二番草のはえ出る初めに主は、いなごを造られた。見 よ、その二番草は王の刈った後に、はえたものである。そのいなごが地の青草を食い尽くした」。「二番草」というのは「春の雨の後の最後的な成育のこと」 で、「従ってこの時期のいなごの害は最も致命的である」言われます。また「王の刈った後」というのは、「最初の刈り入れは王家に収められる。従って、ここ ではいなごの害は個人の収穫におよぼされるのであって、一層致命的である」と言われます。(以上、『旧約聖書略解』による。)この恐るべき裁きの光景を見 た時、預言者アモスは思わずこう叫ぶのです。「いなごが地の青草を食い尽くした時、わたしは言った、『主なる神よ、どうぞ、ゆるしてください。ヤコブは小 さい者です。どうして立つことができましょう』。」「ヤコブ」とはイスラエルの別名です。預言者アモスは、神への罪と背き、人々への悪と不正に生きるイス ラエルとその民のために、必死になり、真心からの祈りをささげるのです。預言者は、罪と悪に生きる者のために、自分自身を懸けてとりなし、祈り、許しを乞 う。それは愛情です。人間が正しく良く幸いに生きることを大切に思い、心から願うからです。そして何よりそれは、神の愛を知っている、いや自分自身におい て知らされているからです。このアモスの祈りに、神は答えられます。神は思い直すのです。「主はこのことについて思いかえされ、『このことは起さない』と 主は言われた。」驚くべき神の愛と熱情ではないでしょうか。
 もう一度同じような光景と、同じような対話が繰り返されます。「主なる神はこのよう にわたしに示された。見よ、主なる神はさばきのために火を呼ばれた。火は大淵を焼き、また地を焼こうとした。その時わたしは言った、『主なる神よ、どう ぞ、やめてください。ヤコブは小さい者です。どうして立つことができましょう』。主はこのことについて思いかえされ、『このこともまた起さない』と主なる 神は言われた。」
 しかし三回目、同じことはもう起こりません。主なる神は、幻の中でイスラエルの罪と悪を測り裁く「測りなわ」を持って立ち、こ う言われるのです。「見よ、わたしは測りなわをわが民イスラエルの中に置く。わたしはもはや彼らを見過ごしにしない。イサクの高き所は荒され、イスラエル の聖所は荒れはてる。わたしはつるぎをもってヤラベアムの家に立ち向かう。」二度の多大な赦しを受けても、イスラエルとその民はその考え方と生き方を改め ようとはしませんでした。だからこの三度目は、もう残されてはいないのです。もう三度目の裁きは、取り消されないのです。だからアモスも、もう祈ることは しないのです。
 今日の所はそこで終わっていますけれども、実はその「三度目」を祈られた方がおられるのです。「『わが父よ、もしできることでし たらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください。』―――また行って、 三度目に同じ言葉で祈られた。」(マタイ26・39、44)それは、私たちの主、すべての人の救い主、イエス・キリストです。主イエスは、本当にご自分の 命を懸けて、私たちのためにとりなし、祈り、ご自身をささげ、ささげ尽くしてくださったのです。そして、この「三度目の祈り」は、父なる神によって聞か れ、聞き届けられました。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのであ る。」(ローマ5・8)

 近代日本にも、神によって立てられた預言者として生き、働いた人々がいたことを知ります。その一人は、内村鑑三 であると思います。内村は語ります。「キリスト教は単に自己を救うための教えではない。神はそのひとり子を惜しみたまわざるほどに世を愛したまえりとあり て、キリスト教は全世界全人類を救うための教えである。―――真のキリスト教は個人と同時に国と世界とを救う教えである。―――預言書に親しんで、人は公 的になり人類的になる。いわゆる『世界の市民』となる。世界の歴史を神の聖意の実現として見るに至る。人類の歴史これわが運命なりと信ずるに至る。ここに おいてか世界のすべての出来事に興味を持つに至る。」(内村鑑三『アモス書の研究』より)そうして内村は語り始めます。「露国に罪あり、ゆえに罰せられざ るべからず。墺独に罪あり、ゆえに罰せられざるべからず。さらば英国はいかに。英国もまた同様である。ロンドンは世界中最も貧民多き都ではないか。かしこ にありて夜々眠るに所なき者、数十万を数うという。―――しかして、かく説き来たれば、多くの日本人はこれを聞いて、しかり、しかり、万歳を連呼するであ ろう。されども最後に、なんじら日本人よ、なんじらにはたして罪なきや。なんじらの富豪と政治家の堕落はいかに。官吏社会の腐敗はいかに。―――さらばい かに。同じ神は同じ罰をもってなんじらにもまた臨みたもうであろう。―――日本人といえども、もしその罪を悔い改めずば、必ず同様に滅ぼされるであろ う。」(内村『国家的罪悪と神の裁判』より)なぜそれほどまでに語るのか。「われらは明らさまに神のことばを人に伝えて、そのめったに聞かれざるを知る。 されども聞かれざるを恐れて告げざれば、人は救われず、神の真理は伝わらないのである。ゆえに、人にきらわれるると知りつつも苦い真理を語るのである。そ して時を経て、神が事実をもってわれらのことばを証明してくださる時に、人は一たびは忌みきらいしわれわれのことばにより真理を悟りて救わるるのであ る。」(前掲『アモス書の研究』より)
 ここで私たちが聞き、知ることをゆるされた、実に大きな、著しいことがあります。それは、神はどこまでも 徹底的に愛と真実の神であるということです。神は、熱情と呼べるほどの愛をもって、人を大切に思い、呼び、招かれるのです。その呼び声は預言者を圧倒し、 またイエス・キリストの愛をもって私たちをも圧倒します。だから、私たちもこう告白して、送り出され、復活の主と共に出て行くほかはないのです。「主が語 られる、だれが聞かずにいられよう、だれが語らずにいられよう。」それほどの愛、そのほどの真実、それほどの神が今日も、ここから私たちと共にあるので す。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちをどこまでも愛された神よ。
 あな たの愛と熱情が預言者アモスに迫り、彼を圧倒し、「聞き、語らずにはいられない」と動かして行きました。あなたは今私たちにも、イエス・キリストにおいて 圧倒的な愛と熱情を示し、あなたがこの世界に生きる一人一人をどんなに大切に思い、慈しんでおられるかを語られました。「主が語られる、どうして語らずに いられよう」との思いをいただいて、私たちをもここから送り出し、それぞれの場で、またこの社会において用いてください。
まことの道、真理また命なる世の救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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