ほかにない愛、そして希望                     ヨハネによる福音書第3章16〜21節


  今日は、私たち四日市教会の「だれでも、ちょっと出られる礼拝」においでくださり、まことにありがとうございました。この「礼拝」も、今年でもう六回目に なりました。これは、「普段着の教会」に来ていただきたいという企画です。私たちは、こうして毎週日曜日に欠かさず礼拝をしています。お正月も夏休みもあ りません。それくらい大切で、そして私たちクリスチャンの信仰と生活の中心であるからこそ、そんなにも一生懸命にしているのです。ですから、礼拝に来てい ただいてこそ、教会や私たちの信仰がわかっていただけると思っています。もちろん、コンサートなど様々なイベントも教会はしていまして、それらにも出席く ださることは大きな喜びなのですが、それでもやはりほぼ「いつも通りの礼拝に来ていただきたい」、そういう思いで続けて来ました。そういう意味で、今日こ うしておいでくださって、心から嬉しく存じます。

 さて、今日共に聞きましたヨハネ3章16節の聖書の言葉は、私たちのホームページに書 かれている言葉です。いわば、私たちが多くの人々に向かって高く掲げている聖句であるわけです。多くの皆さんにぜひ聞いていただきたい、お伝えしたい、そ ういう言葉なのです。そのことを思いながら、今日のお話を聞いていただきたいと思います。
 さて、こんなことを言っておられる方がいます。どう思 われますか。「人類は第三次世界大戦に向けて、今日、一秒間に四百万円ものお金を使っています。アメリカ、ソ連、ヨーロッパ諸国など、世界の主な国々は一 分間に二億五千万円ものお金を軍備に投じて、第三次世界大戦の準備を続けています。苦労に苦労を重ね、血のにじむような努力の中で築き上げたこの世界を、 同時に破壊するための準備を、人間は続けています。この矛盾、この二律背反。私たちは破滅に向かっています。死に向かい、破滅に向かっています。」(岸義 紘『真実の愛の回復』より)もうだいぶ前に語られた言葉ですが、世界の基本的な構図は変わっていないのではないでしょうか。
 これが世界大の話だ とすれば、個々人の生活、家庭はこんなだというのです。「食卓を囲みながら一言の会話もない、冷たい風が吹き抜けていくような家庭があります。―――家を どんなに新しくしても、たくさん部屋があったとしても、お父さんとお母さんが仲良くなかったら、部屋の数があればあるほど孤独です。多くの人が高等学校を 卒業して大学まで行っていながら、専門学校で勉強していながら、家族をさえ受け入れることができません。家族をさえ赦すことができません。家族をさえ愛す ることができません。勉強していればいるほど、知識がつまっていればいるほど、切なくなります。お父さんも健康で、お母さんも病気がなく、みんな健康で す。しかし、どんなに健康であっても、家族の間に平和がなかったら、健康だということが、不幸の種になります。」(同上)

 このような世界で、いったい何が希望であるのでしょうか。
  それは他ならない、神の愛であると、聖書は語ります。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びない で、永遠の命を得るためである。」「神は、この世を愛して下さった」、この「愛」「愛する」は、特別な言葉なのです。「アガペー」と言います。この新約聖 書が書かれた当時、世の中には「愛」を表わす言葉がいくつかありました。「エロース」とか「フィリア」とかです。これらの方が圧倒的によく使われていたの です。しかし、新約聖書の記者たちは、それらのよく使われていた言葉をわざと使わないで、この「神の愛」を表わすために、あまり使われていなかったこの 「アガペー」という言葉をあえて引っ張ってきて用いたのです。
 それは、「特別な愛」を表したかったからでした。「神の愛」、それは「ほかにない 愛」「比べるもののない愛」「特別な愛」であることを、なんとしても表現したかったからなのです。他に、「神は愛である」という言葉があります。それは、 「愛」という一般的なものがあって、それらのうちの一つが「神の愛」であるというのではなくて、むしろ「神こそが愛なのだ」、「神が愛そのものであられる のだ」と言っているのです。
 「アガペー」「特別な愛」、いったい何が特別であり、ほかにないのでしょうか。
 それはこういうことであると、聖書は告げます。「神はひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」、「ひとり子を賜ったほどに」、それがこの愛の「特別さ」であり、「ほかにない」ものなのです。
  「ひとり子を賜ったほどに」、「ひとり子」とは、イエス・キリストという方のことです。イエス・キリストは神の御子「ひとり子」である、というわけです。 その「ひとり子」イエス・キリストを「賜ったほどに」、「与えてくださったほどに」、「送ってくださったほどに」、神はこの世を愛してくださったのです。
 「神の愛、特別な、ほかにない愛」、それはイエス・キリストが実際に、具体的に示し、語り、与えてくださった愛です。イエス・キリストが本当に行い、事実生き抜いてくださった愛なのです。

 イエス・キリストの愛、それはどこに表われているでしょうか。
  それはまず、「イエス・キリストが私たち人間のところに来られた」ことに表れています。聖書は、このイエスが、実は「神の御子」、神と共におられた、神と 等しい方であったと語ります。神とすべてのものを共にされていたのです。神の力、神の権威、神の輝き、神の栄光、すべてを共にされていた方が、そのすべて を投げ打って、一人の人間となり、無力な赤ん坊となってこの世に来てくださったのです。「ここに愛がある」と聖書は語るのです。
 「神は、無力な 赤子から墓場での呪われた死に至るまで人間の道において人間と共にいる。受肉した神の言葉であるイエスは、人間を教化せず、脅さず、道徳化せず、裁かず、 嘆かない。むしろ人間が溺れ、破滅し、死ぬところに赴き、人間を救う。」(フロマートカ『人間の途上における福音』より)
 イエスは私たちの世界 に来られて、まさにそのように生きられました。教会でよく歌われ親しまれている讃美歌の中に、「この人を見よ」という曲があります。その中にこんな歌詞が あります。「食するひまもうちわすれて しいたげられし人をたずね 友なきものの友となりて 心くだきしこの人を見よ」。人となって来られたイエスが目指 した生き方、その道の方向性は「下へ」ということでした。この世において、より苦しんでいる人のところへ向かう、より弱い人のところへ向かう、より弱くさ れ苦しめられている人のところへ向かう、それがイエスの道であったのです。

 神の愛、それは次に「イエスが死なれた」ことに表れていま す。イエスの死は、十字架の死でした。当時最も残酷な死、最も恥ずかしめられた死、最も忌み嫌われた死、そういう死を、人間たちは、あのように生きられた 神の御子に与えました。この事件は、私たち人間の罪、悪がどれほど深く、重く、ひどいものであるかを、徹底的に明らかにし、裁き、断罪するものです。しか し同時に、イエス様はこの苦しみとこの辱め、そしてこの死を、ご自分から進んで、私たちのために、私たちに代わってご自身が完全に引き受け、徹底的に担わ れたのです。
 パウロはこう言っています。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは時いたって不信心な者たちのために死んで下さったのであ る。正しい者のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたち のためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5・6〜8)「ここに愛がある」と、聖書は語る のです。

 イエス・キリストによる神の愛、それはさらに「イエス・キリストが生きる」ことによって明らかに語られ、表されています。主イ エスは十字架につけられて死なれましたが、それから三日目の朝、神の力によって、罪と死の力に打ち勝って復活されたのです。そして、ご自分を裏切った者た ち、見捨てた者たち、死に渡した者たちのためにさえも、愛と赦しの言葉を語られ、その者たちと共におり、共に歩み、共に生きようとしていてくださるので す。
 この復活の力、愛の力によって、私たちもまた生きることがゆるされる、私たちもまた愛をもって互いに愛し、共に生きることができるのです。 「聖書の救いは、単に罪が許されて天国に行けるだけではありません。私たちにとってかけがえのない地上の一日一日、この一日一日を、アガペーの愛の回復を 受けて、朝毎に夕毎に、イエス・キリストの十字架と復活の救いによる命を受けて、真実な愛をもって家族を愛し、真実な愛をもって恋人を愛し、真実な愛を もって隣人を愛し生きて行くことができます。」「その人のために死ぬということは、日常的に言い直せば『生きること』です。最後の一息まで命を注いで、そ の人を幸せにするために生きる。妥協をしないで勇気をだして、命のある限り、すべてを注いでその人のために生きる」ことです。(岸義紘、前掲書より)「こ こに神の愛がある」と、聖書は語るのです。
 この神の愛、特別な愛、比べるもののない愛、ほかにない愛、これが、これこそが私たちの希望、やはりほかにない希望なのです。

 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 「御子を信じる者は」とあります。私たちには、全面的に信頼をもって従い進むことのできる方、イエス・キリストがおられるのです。「御子を信じる者は、滅びないで、永遠の命を得る」のです。
  「永遠の命」、それは「始めもなければ、終わりもない」、つまり「いつでも、変わりなく、どこまでも」生きる、しかも良い内容をもって、活き活きと生きる ことのできる命、神様との平和の内に、他の人々との平和の内に共に愛をもって、互いを愛しつつ生きることのできる命です。
 台湾では1970年代 独裁政権のもと厳しい人権弾圧が行われたことがあったといいます。その中で、「世界人権デー」の集会に参加したことによって、政治犯とされ投獄されたキリ スト者の人々、牧師や信徒の人たちがあったということです。その中の一人許天賢牧師が獄中で書かれた詩をご紹介します。
 「愛者(あいのひと)、耶蘇(イエス)
愛 は希望 それは絶望させません / 愛は寛容 それは義に背きません / 愛は誠実 それは人を欺きません / 愛は慰め それは恐れを懐きません /  愛は忍耐 それは怒りを引き起こしません / 愛は慈しみ それは恨みをもちません / 愛は仁義 それは虐げません / 愛は思いやり それは損得を計 算しません / 愛は知恵 それは愚かしくありません / 愛は信頼 それは疑いを懐きません / 愛は従順 それは背くことをしません / 愛は融和  それは争い合いません / 愛は労りの言葉 それは人に禍あるようのろえるものではありません / 愛は犠牲 それは自分だけよければの思いに動かされま せん / そして / 愛のそもそもの水の本(みのもと)は / 愛者(あいのひと)、耶蘇(イエス)!」(宋泉盛編『台湾長老教会 獄中証言集』より)
 「神の愛がある」、ほかにない愛がある、イエス・キリストの愛がこの私たちのただ中に、この私たちの世界のためある、これが、これこそが私たちの希望なのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ、悪い者のためにも良い者のためにも雨を降らし日を照らしてくださる天の父よ。
  あなたは御子イエス・キリストによって、この特別な愛を、比べるもののない愛を、ほかにない愛を示し、行い、与えてくださいました。「神は愛して下さっ た」、「ここに愛がある」、これこそ私たちの希望であり、命であり、力です。どうか、ここにおいでくださったお一人一人また私たちの教会を、ほかならぬあ なたの愛によって力づけ、導き、用いてください。
 あなたが先立ち、また私たちが仕えることをも通して、多くの人々があなたの愛を知り、あなたの愛によって生かされますように、救いの御業を成し遂げてください。
まことの道、真理、命なる救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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