名を呼ぶ神に聞きなさい                     サムエル記上第3章1,10〜18節


 聖書は、繰り返しが多いです。同じ言葉、同じ出来事が何度も繰り返されることがたびたびあります。それは、強調の意味、「ここは大切だよ、これは大切だよ」ということを表しているのです。
  今日の所で、大変印象深く、目につく、いや、耳につく繰り返しがあります。それは、神の呼び声です。「サムエルよ、サムエルよ」。 真夜中に、神は繰り返 して、何度も、神の宮に仕えて寝ていた少年サムエルをお呼びになります。「サムエルよ、サムエルよ」。しかし、サムエルは、それが神の声であることに気づ きません。育ての親であり信仰の師匠でもある祭司エリのところへ、その度に行って、「あなたがお呼びになりました」と言い、エリから「わたしは呼ばない、 帰って寝なさい」と言い渡されるのです。
 神の呼び声に気づかない、それは少年の無知と未熟さでもあるでしょう。しかしそれ以上に、「この世の 闇」とも言うべき、人間の罪と不信の状況があったのです。その一つの大きな表われは、祭司エリの二人の息子たちの不正と悪行でした。でもそれは、かれら宗 教者たちだけの問題ではなく、その当時の社会が、上から下まで、特に指導者層において堕落し悪と偽りの道を歩んでいたのではないでしょうか。その結果とし て、このようなことになっていました。「そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。」つまり、神の言葉を聞くということが、極めてまれで、それ を多くの人々がほとんど経験することがなかったということなのです。それは、「神様が」と言うよりは、むしろ人間の側に大いに問題があったのではないで しょうか。「神様の言葉、声」と言うと、縁遠く感じられるかも知れませんが、言い換えれば「超越的な、人間を超える言葉、人間の真実・正しさを問う言葉、 そしてそれに答えようとする自分の良心の言葉」と言ってもいいかも知れません。そのような「神様の言葉を聞きたくない、だからそれを聞くことを求めること もしない、だから聞き方もわからない、聞けない、代わりに何を聞くかと言えば、自分の願望と欲望の言葉だけを聞く、自分たちの言葉だけを聞く、ほかの人間 の言葉だけ、自分にとって有利になり得になりそうな言葉だけを聞く」。そうして神の言葉から遠ざかり離れて行くとき、人間とその社会は、どんどん悪と偽り と不正が横行して、闇の中へと転落して行きます。
 マーティン・ルーサー・キング牧師が語っています。「われわれの世界も今や真夜中である。そし てこの暗闇はあまりにも深くて、われわれの行くべき方向もなかなか分からない。まず社会秩序が真夜中である。ーーーこの真夜中は、同時に人間の内的個人的 生活における真夜中と平行している。いまや心理的秩序も真夜中である。あらゆるところで人を立ちすくませるような恐怖が、昼となく夜となく人々を苦しめて いる。不安と失望の深い暗雲がわれわれの精神的天空に立ち込めている。ーーー道徳的秩序もまた真夜中である。真夜中にはすべての色合いは、はっきりとした 区別を失い、にぶい灰色になってしまう。そのように道徳的原理もはっきりとした色合いを失ってしまう。現代人にとっては、絶対的に正しいことと間違ってい ることは、大多数の人々がやっているか否かの問題である。ーーー真夜中の倫理によれば、主要な罪とは捕らわれることであり、主要な徳とはうまくやることで ある。つまり、嘘をついてもよい、しかし本当に巧妙に嘘をつかねばならない。盗んでもよい。もしその人が十分威厳をもって盗むなら、たとえ逮捕されても、 その嫌疑は使い込み程度になり、強盗とはならない。そして憎むことさえも、その人がその憎しみをあたかも愛の行為であるかのごとくに、愛の衣に身を包んで 行うならば、容認される。」(『真夜中に戸をたたく キング牧師説教集』より)

 そんな闇の世のただ中で、今夜神は、この少年サムエルを 選び、彼に向かってひたすら呼びかけられます。「サムエルよ、サムエルよ」。たとえ最初は気づかれなくても、ついに三度も神は呼びかけられます。「サムエ ルよ、サムエルよ」。「三度」というのは、聖書では象徴的意味をも持つ言葉です。パウロは自分の祈りについてこう言いました。「三度も主に祈った」。それ は、「徹底的に、どこまでも」という意味です。
 「サムエルよ、サムエルよ」、神は「三度も」、「徹底的に、どこまでも」、人の名を呼ぶ、人に呼 びかける。このサムエル少年は、後に「預言者」として立てられ活躍するわけですが、「預言者」はいわば「他の人間たちの代表」です。他の人間を代表して神 に言葉を預けられ、代表して神の言葉を語るのです。それは、単に「言葉だけ」のことではなく、「関係」をも代表します。神と預言者との関係が、神と人間と の関係のモデルにもなっているのです。ですから、神様はサムエルだけを呼びたいのではありません。本当は、神はすべての人間に呼びかけ、すべての人の名を 呼びたいのです。なぜならば、「神は愛だから」です。神は、人が大切なのです。神は、人間を欲し、人間との関わりを欲せられるからです。「神は呼び、人は 答える」、この関係をどこまでも求められる神だからです。
 サムエルの師匠エリは、ここでは損な役回りです。自分の息子たちをまともに育てられ ず、自分の健康も力も衰え、そして後には神の厳しい裁きを聞くことになります。でも、「腐っても、鯛」です。彼は祭司として、神様という方をよく知ってい ました。その神の前に人としてどう立てばよいのかも、良くわかっていました。だからエリは、サムエルの無知と未熟さを忍耐して、そして知恵をもって教える のです。「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい。」神の恵みの呼びかけがあってはじめて、 人は聞くことができるのです。神が愛をもって名前を呼んでくださるからこそ、人間は意志と自由をもって応答できるのです。「神から呼ばれ、それに答え る」、この関係こそが大切なのです。エリは良くわかっていました。
 後にパウロも、自分に呼びかける声を聞きました。「サウロ、サウロよ」。それ は復活の主イエス・キリストの呼び声でした。その時彼は、そのイエスを憎み、イエスの教会を迫害していたまっただ中にありました。そのような者にあえて呼 びかけ、そのような者とあえて愛の関わりを持とうとれさる、これが聖書の神、イエス・キリストの神なのです。人の罪のために、敵である者のためにさえ十字 架にも赴き、そうしてこそ復活された方なのです。

 サムエルは、神の声に答えました。「サムエルよ、サムエルよ」、「しもべは聞きます。 お話しください。」その時彼が神から聞いたのは、厳しい裁きの言葉、災いの預言の言葉でした。エリの息子たちを罰し、ひいては神から背いたイスラエルの民 をも罰する。神が語られる言葉は、時に厳しく、つらいのです。どんなにつらく、厳しくても、逃げてはいけないのです、隠してはならないのです、恐れてはい けないのです。どんなに厳しくつらい言葉であっても、そこに正しい関係があるから聞けるのです。そして何より、「神は、最終的・究極的には、愛し、祝福し ていてくださる」と信じているから、呼び声に聞き、それに答えて行くことができるのです。エリはそのことを知っていました。だからエリは、サムエルに命じ ました。「主の言葉を、決して隠してはならない。それを、聞いたそのままに語りなさい。」サムエルは語りました。厳しい裁きの言葉を、一つも割り引かず、 水増さずに語ったのです。エリはそれに聞き、それに従いました。「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように。」「『それを話されたの は主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように』と語る信仰は実に立派で、感動的です。ーーーエリは自分の子の罪ゆえに、家に下される主の裁きを受け入 れ、これに潔く服そうとします。その災いが主の裁きであるなら、それに聞くところにまた主の救いがあります。ーーーそれが喜ばしい救いの言葉でなくても、 主の言葉である限り、徹底して聞くところに救いがあります。」(ホームページ「鳥井一夫 聖書の部屋」より)「サムエルが語った神の言葉は、その表面上の 冷たさからは察することのできない恵みを、エリに対して及ぼしたのです。この言葉によって、エリは、自分の正義を主張する頑固な偽善者としてではなく、神 にすがる憐れな罪人として死ぬのです。ですから、わたしたちは、ためらうことなくこう言いたいのです。『このように死ぬ者こそが、主にあって死んだのだ』 と。」(ホームページ「悩める魂への慰め」より)そしてサムエルもまた、正しい預言者、主の言葉を曲げす落とさず語る預言者として立って行けるのです。

  人間の罪とこの世の悪の闇の中でも、主なる神、イエス・キリストの神は、人間に向かって呼びかけ、その名をもって呼んでいてくださる。「サムエルよ、サム エルよ」、「サウロ、サウロ」、「マルタよ、マルタよ」。これが、福音です。このことを象徴的に指し示す言葉が、この3章の中にあります。「神のともしび はまだ消えず」という言葉です。文字通りには、「神の宮の灯火は消えていない時刻であった」ということですが、「神の愛と真実の火はまだ消えていない」と も読むことができるのではありませんか。
 この神の愛と真実を表す灯火が消えないように番をし守りつつ、サムエルはその傍らで寝ていました。十分 に神様のことはわからなくても、忠実にその自分の務めを果たしていたのです。今のこの時代にも、「神のともしびは消えていない」、そのことを信じ、守り、 それにじっと仕えて行く者が、者たちが求められているのではないでしょうか。私たち信仰者とその教会も、そのような者たちの中にあるようにと求められてい るのではないでしょうか。
 キング牧師はまた語ります。「教会が語られなければならない最も感動的な言葉は、真夜中は長く続かないという言葉であ る。ーーーわれわれが持っている永遠の希望のメッセージは、夜明けは必ず来るというメッセージである。ーーー夜明けへの信仰は、神は善良で正しい方である との信仰から生まれるものである。人がこのことを信じるとき、彼は人生のさまざまな矛盾は究極的なものではないことを知るのである。彼は暗夜を通して、神 を愛する者にはすべてのことが相働きて益となるとの晴れやかな確信を持って、歩み続けることができるのである。」(前掲書より)
 主なる神、イエ ス・キリストの神は、私たちをも丸ごと、存在ごと、名前をもって呼び、求められます。「サムエルよ、サムエルよ」。名をもって呼ばれるとき、私たち信仰者 と教会はそれに答えて、そこに座し、またそこから立ち上がることができます。「主よ、お話しください。しもべは聞きます。」そのように神の呼び声に、答え て聞く人々、世の人々の代表として、答えて聞く人が必要なのです。
 そして、主の声に答えて、聞いた人は、また主の言葉を受け取り、預かって、そ れをまた語り始めるのです。最後に再びキング牧師の言葉をご紹介します。「教会は、自らが国家の主人でも下僕でもなく、国家の良心であることを、想起しな ければならない。それは、国家の案内人であり批判者であって、断じてその道具ではない。もし教会がその預言者的情熱を取り戻さないならば、それは道徳的な いし霊的権威を失った不適切な社交クラブに成り下がってしまうであろう。ーーーしかしながら、もし教会が死にゆく現体制の束縛から自由になり、その偉大な る使命感を取り戻して、正義と平和のために大胆にかつ粘り強く語ったり、行動したりするならば、それは人類の想像力を掻きたて、人々の魂に火をつけて、彼 らに真理と正義と平和への輝かしい熱い愛を注ぐことになるであろう。かくして、いたるところで人々が、教会を真夜中の孤独な旅人に光とパンを提供する、偉 大なる愛の交わりとして認識するようになるであろう。」(前掲書より)
 「名を呼ぶ神に聞け」。「サムエルよ、サムエルよ」、「しもべは聞きます、主よ、お話しください」。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
 あなたは私たちを、名前をもって呼ばれます。あなたは私たち人間と、その一人一人とと出会い、関わり、共に生きることを求められます。それは、あなたが私たちを愛して、その愛を真実をもって貫かれるからです。
 どうかそのあなたの呼び声に答えて、そこに座ってあなたの言葉に耳を傾けて聞き、またそこから立ち上がって、あなたの御言葉を語り、行い、生きて行く信仰者一人一人、またその教会としてください。
まことの道、真理また命なる世の救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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