神の一生懸命を聞け                     出エジプト記第3章7〜14節


 今年度の私たち四日市教会の主題から、「主が語られる、聞きなさい」という内容でお話をしています。ですから、「主に聞く」ということがテーマです。
 ところが、今日は最初から意外なことを聞くのです。それは、「私たちが主に聞く」前に、主なる神様の方が、人間の声さらにはうめき・叫びをも聞いてくださっている、ということです。

  神様の方が、人間の声・うめき・叫びを聞いてくださっている、それは弱く、小さな民の声でした。また、出来のいい民ではなく、罪深く不信に生きてしまう人 々です。その名をイスラエルと言います。最低・最悪の民、このような民をあえて選び、愛することで、神は「愛する神なのだ」ということを、全世界に示そう となさるのです。
 イスラエル、この民が、奴隷の苦しみと辱めをエジプトでなめ、味わっています。異国の地エジプトで奴隷とされて自由と尊厳を奪 われ、苦しめられ、痛めつけられ、傷ついていました。そのゆえに、うめき、泣き、叫んでいるのです。神は、このイスラエルにご自身を表し、このイスラエル を救おう、「そうして、愛そう」と決意されました。
 イスラエル、それは今日の主人公モーセが一度見捨てて、逃げた人々です。人の親切、愛、助け を、不信と頑なさのあまり、喜んで受け取ることができない人々なのです。そして、そのモーセもまた傷つき、挫折し、放浪の地ミデアンで孤独と苦しみのどん 底にいました。その双方が打ち捨てられたようにして、五十年あまりの長い歳月が経ちました。
 そんなモーセに、今神は語りかけます。「モーセよ、モーセよ」。そのような者にこそ語りかけられる神なのです。この神が、モーセに対して、「わたしは聞いている、わたしはあなたがたの声を、うめきを、叫びを聞いている」と、開示されるのです。
  「主はまた言われた、『私は、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っ ている』。」それは極めて共感的・連帯的な神の姿です。「わたしは彼らの悩みをつぶさに見、その叫びを聞いた。わたしはかれらの苦しみを知っている。」神 様は、いわば「五感をフルに活用して」、全身全霊で、苦しみ悩み、悲しみうめき叫ぶ者の声を、聞き、聞き取り、感じ、感じ取り、そしてその心に共感して、 自分の身をもって味わい知り、さらには自分自身も泣き、震え、うめき、叫んでおられるのです。
 またそれは、驚くべき能動的・行動的な神の姿で す。「わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地ーーーに至らせようとしてい る。ーーーさあ、わたしは、あなたをパロ(エジプト王)につかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう』。」神は、「下って」 行かれるのです。天の高いところにじっと、どっと座って、ただ見ておられるというのではなく、そこから立ち上がり、歩み出し、さらには下って行って、そし て働き人を探し出し、交渉し、動かし、送り出して、そしてイスラエルをその苦しみと恥辱から救い出すのだと言うのです。それは、一言で言って「愛に生きる 神」のお姿です。「この神を聞け、この神の言葉を聞け」と語られているのです。

 いったい、このような神様のあり方は、どこから来るので しょうか。それは、その本質からだと言われます。気まぐれや、一時的なあり方、突然の事柄ではなく、神様の元々のご性質、その初めからの行動スタイル、ま たずっと一貫して変わらない神様の生き方・道そのものなのです。
 それは、モーセが神様に尋ねた、神様の名前からわかります。古代においてはとりわけ、名前というものは、単なる呼び名や記号ではなく、そのものの特性・本質・核心を表す言葉だったのです。神の名の中に、神ご自身がはっきりと、紛れもなく現れていてくださるのです。
 モーセは尋ねます。「あなたの名は何ですか。」イスラエルは問うでしょう。「あなたは一体どんな方ですか。」、それをはっきり知りたいのです。神は不思議な答を与えらます。「私はある、『私はある』という者だ。」一体どういうことなのでしょうか。

  第一に、「私はある」です。「ある」とは、「存在」を意味します。この方、この神こそ、「私はある」と自信を持って、確信を持って、常に、いつまでも断言 できる方なのです。私たち人間も含め、この世のものは決してそうではありません。「あるだろう、あると思う、あるんじゃないか。」、それしか言えません。 しかし、神、この方こそ、確かにおられるのです。何ものよりも確実に、強く生きておられるのです。なぜなら、このお方こそ、ただ一人、すべてのもの、全宇 宙、私たちを作った方であり、すべての根源なるお方だからです。人間の権力(パロも!)、この世的・人間的な様々な力(経済力、政治力、情報力、軍事 力)、自然の力、死の力など、どんなに強くあるように見えるものも、この方にはかないません。この方は、何ものにも打ち勝つ、その存在の力によって言われ るのです。「私はある。」
 また第二に、「私はあろうとする」です。意志を伴う未来です。この神は、「ただいるだけ」ではありません。目的と意志 を持って、いようとされるのです。「私は必ずあなたと共にいる。」(12節)神は、このモーセと共にいようとするのです。罪と挫折により、失望し、沈み込 んでいるこのモーセと共にいるために、存在しようとされるのです。また、エジプトで痛めつけられ、苦しめられ、うめき、泣き、叫んでいる、あのイスラエル と共にいるために、存在しようとなさるのです。
 なぜでしょうか。愛しているから、です。愛しているからこそ、何ものも覆せない意志を持って、神は言われるのです。「私は、あなたと共にいる。」
  さらに第三に、「私はなろうとする」です。この「ある」という言葉には、「なる」という意味もあるのです。神は、ただじっと「共にいる」のではありませ ん。それは「愛の故」ですから、神は、モーセのために、イスラエルのために、「何にでもなろう。何でもしよう。どんな者にでもなろう。」とされるのです。 7、8節を読んでみてください。神は、「愛して、共にいよう」とする者のために、「見る」ことができるのです。それ以外に、ここには、神の行為・行動を表 す動詞が何と多く出てくることでしょうか。「聞く」、「知る」、「降って行く」、「救い出す」、「導き上る」!
 聖書の神は、「何にでもなろう」 という神なのです。そうです。神は、罪人である私たち人間を救うため、ついに私たちと同じ人間となってしまわれました。それが、「ナザレのイエス」です。 また、神は「何でもしよう」という神なのです。主イエスは、私たちのため、あの十字架の道を歩まれ、ついに、罪のない方が「犯罪人」となって、私たちが受 けるべき裁きと呪いを受けられたのです。
 しかし、神は最後に宣言なさいました。「私はある。」神は、死の力・罪の力よりも強かった。イエスは復活し、勝利されました。

  この神の自己紹介、「私はある」を、印象深く表す言葉を見つけました。「神の一生懸命」です。何ものにも侵されず、打ち負かされないこの方が、あえて、私 たちを愛することに「一生懸命」になり、共にいることに「一生懸命」になり、救うことに「一生懸命」になってくださるのです。「この神の一生懸命を聞 け!」
 「神の一生懸命を聞く」、そのとき私たちも少しだけ、少しずつ、この神様に似た者とされ、神様と同じような生き方をするように促され、神様に従う道へと導かれるのです。このお方によって、イスラエルは、また私たちも救い出され、「神の民」とされるのです。
 第一に、「私も、主にあって、あることが許される」。この神が共にいて、私を生かし、守ってくださるがゆえに、私はパロの権力も、エジプトの病・災いも、死の力さえも恐れる必要がない。神が望まれる限り、私は生きる。
 第二に、「私も、主にあって、共にあろうとする」。この神が、私に出会わせてくださる人々を、私も愛し、私も共にいようとすることができる、私にも注がれた神の愛のゆえに。モーセは、この後、背き続けるイスラエルと共にい続けました。
  第三に、「私も、主にあって、なろうとする」。モーセは、この神に従って、思いもかけない者になり、何でもすることになりました。いやなエジプトに行き、 パロに語り、預言者となり、奇跡を行い、牧者となり、指導者となったのです。(パウロ!)私も、主から導かれ、そうするように招かれる、思いもかけないこ とでも、することができる、その力が与えられる。

 キリストの教会の歴史は、そのような神の僕・証人たちによって彩られています。
  今日は、私たちにとってもなじみ深い一人の日本人を、再び共に覚えたいと思います。中村哲さんは、キリスト教の信仰を持ち、私たちの日本バプテスト連盟の 教会でバプテスマを受けられました。中村さんは、もともと医師であり、医療の奉仕をするために、多くの戦争や内乱また自然災害そして社会的な不公正や貧困 によって傷つき傷んでいるアフガニスタンという国を訪れたのでした。
 そうしてアフガニスタンで医療活動に携わっていたわけですが、そのうちに 「医療の限界」を感じ取るようになります。「2000年から始まったアフガニスタンの大干ばつは、凄まじいものでした。アフガンの人々の生活を、根底から 突き崩してしまったといってもいいと思います。我々ペシャワール会は、彼らの元の生活を、まず取り戻すことが、なによりも先決ではないかと考えたわけで す。ーーー大干ばつの後、我々の診療所にやってくる患者は、子どもたちがほんとうに多かった。その背景には、栄養失調と水不足があるんです。それが、子ど もたちを直撃したんですよ。水不足で農業ができなくなり、村そのものが消えてしまったところも珍しくない。それが、アフガン全土で起こった現実です。」
  そこで、中村さんと仲間たちは、「今は医療よりも、まず水ではないか」と思うようになります。そこで、「井戸を掘る」という事業に乗り出します。「井戸掘 りを始めたのが、2000年の7月でした。それは、すでに1670本になりました。そのおかげで、40万人以上が村を離れずにすんだんです。ーーーもちろ ん、診療をやめたわけではありませんが、ある意味、医療だけでは限界があると感じたんです。水がなければ農業が続けられない。日々の糧を得ることができな いんですから、生きて行きようがない。それに、きれいな水がなければ、伝染病などが蔓延するのを防ぐことだってできない。だから、我々の現在の仕事は、用 水路の建設と医療の2本立てなんです。」そして、すくなくともこの時まで、中村さんは「医者」というより「土木技師」というような仕事・生活を送られるこ とになるのです。「現在は、アフガニスタンでの灌漑事業に主力を注いでいますので、毎日が土木作業です。ほとんど用水路建設にかかりきりで、野外での作業 ばかりなんですよ。それで、ごらんのように真っ黒です。ーーーこの用水路建設事業は、僕が言い出しっぺなので、仕方なしに土木技師をやっているわけで す。」(以上「マガジン9」ホームページ、「この人に聞きたい 中村哲さんに聞いた アフガニスタンという国で、9条をバックボーンに活動を続けてきた」 より)「私も主にあって共にあろうとする、私も主にあって何にでもなろうとする」、この主なる神の存在の力が、中村哲さんを、そして私たちをも突き動かし ていくのです。
 「神の一生懸命を聞く」、それが私たちの出発点であり、私たちの力また希望なのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストによって私たちをどこまでも愛された神よ。
  あなたは、弱小の民、不信と罪の民イスラエルを選び、孤独な敗北者モーセに呼びかけて、御自身を開き、示し、与えてくださいました。「わたしはある」と。 このお名前を通して、私たちはあなたの「一生懸命」、あなた愛、熱意、そして真実を知らされ、そして力づけられ、突き動かされています。
 どうか、私たち一人一人とその教会をも、あなたの「一生懸命」の僕・奉仕者・証人として、今週もそれぞれの場へと送り出し、導き、お用いください。
罪と死に打ち勝ち、今も生きて私たちと共に存在したもう救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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