「よっしゃ、引き受けた」                     創世記第15章1〜6節


 今年度の私たち四日市教会の主題「主に聞き、互いに聴き合い、共に見る」にちなみ、「主が語られる、聞きなさい」というテーマで、旧約聖書から五回シリーズでお話ししていきたいと思います。
  さて、「主が語られる、聞きなさい」と言いますが、主、つまり神様が語られる言葉とは、いったい何なのでしょうか。それは、アブラハムに、神様が最初に語 られた言葉です。それは、「祝福の言葉」です。「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさ い。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』。」(創世記12・1〜2)「わた しはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」。「祝福の言葉」、それは愛の言葉です。相 手に存在と命を与え、幸いと喜びを与える言葉です。「祝福の言葉」、それは真実の言葉です。神が御自身の全てを懸けて守り抜き、実現してくださる言葉で す。希望と感謝を与える言葉です。
 「祝福の言葉」、これをこそ主なる神は語ってくださいます。アブラハムに語ってくださったように、私たち一人 一人にも語ってくださるのです。神は、この世界を創造し、一人一人すべての人間、またこの世界に生きるすべてのものに存在と命をを与えてくださって以来、 掛け値なしにそれらを愛し、私共を祝福してきてくださったのです。このことは、一ミリたりとも動かなかったし、変わらなかったのです。「主の言葉を聞 け」、それは何よりこの「祝福の言葉を聞け」ということなのです。

 「祝福の言葉」、「神はあなたを祝福してくださる」、しかし、それを信じることができない時がやって来ます。
  アブラハムは、この主なる神の祝福を告げる言葉を信じて、出発しました。しかし、これがそもそもつまずきに満ちた出発であったのです。「あなたは国を出 て、親族に別れ、父の家を離れ」、彼が払う犠牲と彼が懸けるリスクはあまりにも大きなものです。そして「わたしが示す地に行きなさい」、そこにはこの世 的・人間的に見て、何の保証もないのです。「神が示す地」、それがどこなのか、今の時点では全く明らかにはされません。そこに行ってどうなるのか、具体的 には全く示されてはおりません。もし仮に損害を負うことになった場合、いったいどんな補償を受けられるのか、全く明示されてはおりません。しかも、アブラ ハムはこの時、既に75歳という高齢に達していました。「この自分にこの先、どんな可能性や希望があるのというのだろう。」そういう思いも抱きながらの出 発です。最初から、この旅は「問題だらけ」だったかも知れないのです。
 しかし、アブラハムは神の言葉を聞き、信じて出かけて行きました。しか し、すぐにいろいろなことが起こってきます。そして「信じられない」という状況がやって来ます。その繰り返しであったと言っても、過言ではありません。 「暗やみの夜」、信じられない闇、そんな夜が私たちにもあると言うのです。「忍耐がくずれ落ちそうになる限界点、暴風のまっただ中―――神などいないとし か思えない日々、神から何も答えを与えられない日々」。「しばらくの間、何も特別なことが起こらない高原を進みます。そこに、突然、困難な問題が立ちふさ がり、心から潮が引いてゆきます。希望が何も見えない状態がしばらく続きます。」(アントニー・M・コニアリス『落ちこんだら』より)

 そんなアブラハムに、神は再び語り、約束してくださいました。それが、今日の所です。「これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう』。」
し かし、アブラハムは、自分の疑いと不信を遠慮なく神にぶつけます。「神様、私には子どもがいないのです。そんな私に、いったいどんな良い将来があるという のでしょうか。」当時、「子がいない」ということは、「不毛であること、喜びのないこと、望みのないこと」とイメージされ、考えられていたのです。それで アブラハムは、神様の祝福の言葉に対して、これを受け入れ、喜ぶことができず、「私には居場所がありません、子がなく、未来がありません。私には希望があ りません」と言い募っているのです。
 このようなアブラハムに対して、現代の私たちなら、「子どもが人生や幸せのすべてではないですよ」とか、 「神様との関係が一番大切なのですから」とか言うことができるかもしれません。しかし、アブラハムは「時代の子」として生きていたのです。その時代とその 考え方に、限定され、規定され、ある意味では縛られて生きていたのです。彼にとって、少なくともこの時点では、「子どもが与えられる」ということは絶対で あり、それなくしては「神の祝福」というものを感じ取り、信じることはできなかったのです。
 でも、それは私たちにとっても同じであると思いま す。私たちは今この社会の中で生きることにおいて、また個々人として生きることの中でも、いろいろと制約を受けて「これは譲れない、これがなければ、私た ちは不毛のままであり、私たちには未来と希望がない、これなくしては、神様の祝福を本当には受け取り、信じることはできない」という事柄がきっとあるのだ ろうと思います。

 神様はどうされるでしょうか。神はアブラハムに譲られます。「この時、主の言葉が彼に臨んだ、『この者はあなたのあと つぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです』。そして主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えること ができるなら、数えてみなさい』。また、彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』。」神は、アブラハムに対して、「たとえ子がなくても、 わたしがいるではないか、わたしとの関係が一番大切ではないか」とは言われなかったのです。むしろ、彼にとって「子どもが与えられらなければ、神の祝福を 信じることができない」のであるならば、「わたしはそれを実現しよう、それによってわたしの祝福をあなたに示そう」とおっしゃったのです。「あなたは必ず その身から出る子を抱く。そして、その子があなたの跡継ぎとなる。それだけではなく、あなたの子孫はあの夜空の星のように数多いものとなって栄える。わた しはあなたを祝福し、あなたの人生を幸いなものとしよう。」神は、あまたのきらめく星々によって埋め尽くされた広大な星空を、彼に見せて「しるし」とされ ました。星空、それは神がこの天地を創られた創造の業の大きさを如実に示しています。また、全く何もないところからすべての物事を新しく創り出す、神の創 造の力の不思議さを指し示しています。これを見た時に、アブラハムは思ったのではないでしようか。「神がそのようなお方であるなら、私の『ない』というこ とは、全く問題にならないのではないか。」

 この時、ここに、神の御業が起こりました。神の奇跡が起こったのです。アブラハムは「大いな る跳躍」をしたのです。私が以前に見ていたテレビ番組の中に、「グラン・ジュテ」というのがあります。バレエ用語で、「大きなジャンプ、跳躍」を意味する のだそうです。人生の転機で大きな決断をし、跳躍をした人を取り上げる番組でした。アブラハムも、この時まさに「グラン・ジュテ」「大いなる跳躍」をした のでした。「アブラムは主を信じた。」 「アブラムは主を信じた」のでした。状況としては何も変わっていません。急に妻が身ごもったというのでもなく、彼 が若返って元気もりもりになったのでもありません。彼は依然として年老い、いくらかあるいはとっても疲れ、あとを継ぐ子はいません。あるのは、神様の口約 束と「夜空の星のように」という夢物語のような「保証」だけです。
 それでも、「アブラムは主を信じた」のです。先ほど申し上げたアブラハムの限 界と制約と弱さそして不信の罪が、今こそ乗り越えられ、克服されています。「アブラムは主を信じた」のです。他のなにものにも代えがたいものとして、神と の関係を受け入れ、神ご自身を信頼したのです。神の言葉を信じて受け入れ、その御言葉に自分の人生を、自分のすべてを懸けてみようと決断し、委ね、踏み出 したのです。この「信じた」という言葉は、「アーメン」という言葉と同じです。それは、私たちのための言葉なのです。

 神様はアブラハム の信仰にお答えになります。「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」「義」という聖書の言葉は、「内容」よりもむしろ「関係」を表す言 葉です。「神は愛し、祝福し、約束する。アブラハムは信じ、任せ、歩む」というこのご自身とアブラハムとの「関係」を、神は「正しく、確かなもの、絶対確 実なもの」として肯定し、堅く確認されたのです。「関係」のことですから、こういうふうに言い表すことができるでしょう。アブラハムは「いっちょうお願い します」と言った、神様はそれに応えて言ってくださった、「よっしゃ、引き受けた!」。
 以前にも引かせていただいた、「ケセン語訳聖書」を出さ れた山浦玄嗣さんという方、この方は東日本大震災の被災者でもあります。津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田氏で開業医をされていたのです。この山浦 さんがテレビ番組に出演されていました。その中で、山浦さんは大地震とその後の自らや人々の苦しみを語りながら、福音書でイエス・キリストが十字架で叫ば れた言葉に触れておられました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」山浦さんは、この叫びにこのような思いを聞きとっておられる のです。「最初は神様に向かって駄々をこねる。『なんで俺をこんな目に遇わせたんだ・・』・・・『だけれども神様俺は知っている。あなたは本当にいい方 だ。神様!とすがって『お願いします!』という者を捨てたためしがない。・・・どんな絶望の中にあっても、どんな苦難の中にあっても、神様に悪口を言いな がらも・・『神様、私はあなたをしっかりと信じています。信頼しています。あなたは俺を絶対に捨てたりはなさらない。』」神様は「よし、引き受けた」と 語ってくださる方なのです。それを信じることで山浦さんもがれきの山となった街にあっても「ようがす、引き受けた」と、ご自分に与えられた働きに邁進して いく力をいただいたのでした。

 「信じた」はずのアブラハムですが、この後また神様に尋ねています。「わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか。」「不信仰だ」と言わなくてもよいのです。私たちは信仰に立ち続けるならば、何度でも神に尋ね求めることが許されています。
  神は答えて、当時の契約の儀式を執り行ってくださいます。家畜を連れて来て、かれらを申し訳ないですが二つに裂き、それぞれを間をおいて並べます。その家 畜の間を、契約を結ぶ二人の当事者が通り過ぎる、それによって「私たちは契約をを結びます、もしどちらかが約束を破るなら、その人はこの家畜のように二つ に裂かれてもかまいません」という意思を表わすのです。
 この儀式の用意ができました。すると不思議にも、突然アブラハムを猛烈な眠気が襲いま す。彼は深く眠り込んでしまいました。この「深い眠り」、それは神からの眠りなのです。この間に「煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を 通り過ぎた」。これは神の臨在のしるしです。神様だけが、裂かれた動物の間を通り過ぎられた。これは対等な契約ではありません。一方的な契約です。神だけ がリスクを負う、神だけが犠牲を払う、神だけが命を懸ける、恵みの契約なのです。とは言え、アブラハムも果たすべき務めを負い、苦しみを受け、試練の道を 歩むでしょう。でも、この約束を守りぬき、実現なさるのは、どこまでいってもただただ神おひとりなのです。神はまことに最後の最後まで、あのイエス・キリ ストの十字架に至るまで、そこで徹底的に苦しみ、ご自身の命と存在をも犠牲にするまで、この約束を守り抜き、祝福を実現してくださいました。パウロは語り ます、「それは、アブラハムだけのためではなく、私たちすべての者のためだ」。そうです。私たちのための祝福、私たちのための神でいてくださるのです。こ のお方が私たちにも祝福を語り、「よっしゃ、引き受けた」と私たちの信仰を受け取ってくださるのです。「どうか、お願いします」と信じ、委ね、従いましょ う。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストによって私たちを徹底的に愛された神よ。
 あな たはアブラハムに祝福の言葉を語り、新しい人生、道へと招き、呼び出してくださいました。これを信じたアブラハムを、あなたは義とされ、あなたとの正しい 関係の中に置き、常に守り、助け、導いて行ってくださいました。彼の人生とすべてを、「よっしゃ、引き受けた」と受け入れ、受け取ってくださいました。同 じ祝福とそれによる信仰・希望そして愛を、あなたは私たち一人一人と教会にも与えてくださいます。どうか信仰をもって、これに答え、一歩を踏み出して行 き、あなたから与えられた課題と使命を果たす私たちとしてください。
まことの道、真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る