ペンテコステ―――主に聞き、互いに聴き合い、共に見た   使徒行伝第2章1〜11節


 ペンテコステ、おめでとうございます。
  今日共に読みましたこの「使徒行伝」の言葉は、今年度の私たち四日市教会の主題聖句である旧約聖書ヨエル書の言葉が実現した場面である、と言われます。少 し後で、この出来事を振り返ってペテロが、こう語っています。「これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、『神がおおせにな る。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時に は、わたしの男女の僕たちにも、わたしの霊を注ごう。そして彼らも預言するであろう』。」だとするならば、私たちが祈り求めていること、目指しているこ と、私たちの理想・目標の実現もまたここにある、と言うことができるのではないでしょうか。
 ペンテコステは、「教会の誕生日」であると言われます。神が「キリストのからだ」である教会を創り、建ててくださったのです。私たちのこの同じ神様によって、私たちの教会を創り上げ、建て上げていただきたいと切に願います。

  今日の聖書の言葉から教えられる第一のことは、ペンテコステとは「主なる神が語られた出来事であった」ということです。その意味で、これは何よりも「主に 聞く」ことをひたすら求める出来事であったと言うことができます。また別の意味でも、この日この朝エルサレムに集まっていたイエスの弟子たちにとって、そ れは「主に聞くほかはない」状況でありました。彼らは自分たちの無力さを痛感し、行き詰まり、途方に暮れていたのです。
 かれらは、「挫折者」と 「敗北者」たちの集まりでした。その多くは、イエスの弟子たちでした。「弟子」とは言っても、「不肖の弟子たち」です。みんな先生であったイエスを裏切 り、見捨て、逃げ去りました。お互い同士をも裏切り、見捨て合いました。かれらにはもう、帰るべき所もなく、復帰すべき仕事もなく、戻るべき道もありませ んでした。早い話、お金もなければ、コネもない、また自分の自信もなければ気力もない、そして将来への見通しも希望もない、そういう者たちばかりの集まり だったのです。
 ただ、かれらには、一つだけ頼り、期待するものがありました。それは、主イエスがかれらに残していってくれた、約束の言葉ただ一 つでした。「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい。」(ル カ24・49)かれは、まさに「主に聞く」ほかはない者たちであったのです。

 そしてついに、そんなかれらに主なる神が語られる日がやっ て来ました。それこそが、ペンテコステ、過越の祭から、イエスが十字架につけられて死なれた時から「五十日目」の朝であったのです。かれらの上に、神のも とから聖霊が下り、神の言葉が語られたのです。「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起っ てきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。」
 イエ ス様だったら絵やイラストに描くことができ、それによって私たちなりにイメージを持つことができます。ところが「聖霊」はそういうわけにいきません。聖霊 によって主なる神が語られる、「使徒行伝」は、このことを様々なイメージ・比喩をもって表現しています。そのキーワードは「何々のような」という言葉で す。

 まず、「風」です。聖霊は「激しい風」が吹くように来られた、聖霊とは「風のような」ものだというのです。「風」は目に見えませ ん。でも、確かにあります。目には見えないけれど、風が吹いていれば、私たちはそれを体で感じ、それが確かにあるのだとわかります。聖霊はまさにそのよう なお方です。聖霊は目には見えません。でも神の霊が私たちに働くとき、それは私たちを動かし、私たちを変え、私たちの中に新しい神の業を起こしていきま す。聖霊は「神の風」そして「神の息」です。聖書では「霊」と「風」と「息」は同じ言葉なのです。天地をお創りになった神の息吹、イエスを死者の中から復 活させた方の息吹です。その「息吹」が「風」となって吹くとき、それが人を新しく創り生かすとき、確かに聖霊は来られたのだ、働いておられるのだとわかる のです。
 また「風」は、人間の思いのままになりません。イエス様も言っておられます、「風は思いのままに吹く」。だれも「風」を自由にし動かす ことはできません。人間の見通しや計算や評価をも超えて、この「風」がこの人たちの上に吹くのです。人間なら「ここには吹かないだろう、こういう人たちの 上には吹かないだろう」と思うところに、神の「風」は吹くのです。そして、「風」には計り知れない力があります。神が自由をもって、その力をもって臨み働 かれるとき、先生を裏切り、見捨て、逃げ去るような者たちが教会の土台となることがゆるされるのです。
 また、このようにも記されています。「ま た、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。」「舌」は都合上後で触れますので、次に「炎のように」ということを考えた いと思います。「聖霊は炎のようなものだ」と語られているのです。「炎」は暖め、燃やすものです。「炎」、それは神の熱い愛と真実を表わすものです。弟子 たちの心も体も生き方も、主イエスを裏切り捨てた自分の罪そしてお互いの罪を思い知って、そして「もうだめだ」という挫折と行き詰まりを経験して、「冷え 切って」いたのではないでしょうか。しかし、神の霊はその罪と挫折、痛み悲しみを深く知っていてくださいました。そして、聖霊はそのかれらに「炎のよう に」暖かく親しく愛をもって働きかけ、語りかけてくださったのです。かれらは、この神の「炎」によって再び暖められ、癒され、新しく「燃やされ」、強めら れ、生かされ、用いられるのです。
 そして、「舌」です。「聖霊は舌のように下った」と語られているのです。「舌」、それは言葉をつかさどる器官 です。だから、それは「言葉」と関係があります。聖霊は「言葉」を与え、語らせる霊であり、言葉をもって働くのです。ですから、そこには内容とメッセージ があります。しかも、それを無理やり、私たちに押し付け、当てはめるのではありません。言葉をもって、理性と落ち着きと愛情をもって、こんこんとさとし、 説明し、納得させ、説得してくださるのです。こうして、神が語り、神が働きかけてくださったのです。ペンテコステは、まさに「主に聞かせられる」出来事で す。

 そのようにして、神の言葉を語ってくださる聖霊は、注目すべき仕方で下ったと、聖書は語ります。
 まず、「ひとりびとりの 上にとどまった」のです。個々の人に、それぞれ違う仕方で下ったのです。聖霊は、「ひとりびとり」を知り、「ひとりびとり」を重んじ、「ひとりびとり」に 下り、留まり、「ひとりびとり」に親しく働きかけてくださるのです。聖霊は、「ひとりびとり」の弱さ、その挫折、その痛み、その失望をも知っています。ま た聖霊は、「ひとりびとり」の願い、求め、祈りをも探り知られます。それだけではなく、聖霊、「ひとりびとり」に神が与えられた愛と祝福と賜物、その「ひ とりびとり」に備えられた神の広く、深く、長いご計画を知っています。また聖霊は、「ひとりびとり」に神が見ていてくださる可能性と希望、その将来の栄光 をも望み見ていてくださいます。聖霊は「ひとりびとり」を大切にし、「ひとりびとり」を尊く用いてくださいます。だから教会もまた、それぞれ違う「ひとり びとり」が大切にされるべきであり、その「ひとりびとり」を大切にすべきなのです。
 しかも聖霊は、「いろいろの他国の言葉で語り出した」のでし た。それは、驚くべき多様性をもって、それぞれが全く違う仕方で、ということでもあると思います。ならば、このような仕方で聖霊によって働きかけられ、押 し出される教会とそこに連なる私たちは、否応なく「互いに聴き合う」ことをしなければならないでしょう。

 そしてペンテコステは、このよ うな聖霊の働きかけと導きの中で、「共に見る」出来事でした。「ひとりひとりに聖霊が下った」、「すると、一同は聖霊に満たされ―――語りだした」ので す。ペンテコステは、「一同」の出来事です。「共に見る」ことであり、「共に生きる」道であり、「共に働く」業なのです。
 だから、かれらが語 り、行い、生きる事柄はただ一つ、「神の大きな働き」です。それは一言で言って、「イエス・キリスト」です。イエスの心、イエスの生き方、イエスがなさっ た業と言葉、そして私たちがイエスを信じて生きるその心と、その生き方を、言葉で語り、行いで表し、実際に道を歩いて生きるのです。
 「異なる人 々がともに生きることが不可能に見えるこの世界にも、理解し合う道、一緒に歩く道が確かにあるということ。聖霊によって復活のキリストが共におられると き、そのような道が可能になるということ。ペンテコステの出来事はしるしとしてこの新しい現実を指差し、またこの現実を生き始めるようにと私たちを招き、 励ますものなのです。―――イエス・キリストが大切にし、生涯をかけて伝えようとしたのは―――自分の弱さを知っている人こそ幸いであるという道、人の上 に立とうとするのではなく仕える道、幼な子のような単純素朴な信頼を生きる道でした。また、そのような人々が互いに足を洗い合う道、つまり互いの弱さや痛 みを理解し合い、担い合っていく道でした。―――イエスは、地上での最後の夜にこう祈られました。『父よ(中略)すべての人を一つにしてください』(ヨハ ネ17・21)。」(打樋啓史「異なる言語が響き合うとき」より、説教集『聖霊の降臨』所収)
 私たち日本バプテスト連盟のホームレス支援シンポ ジウムで講師としてお呼びした、文化人類学者である上田紀行さんは、このように語っています。「それが『つながり中の自分』というアイデンティティだ。 ―――それは他との同一性に基づいたアイデンティティを導き出す。そして、他と共有する同一性として浮かび上がってくるのが『いのち』である。われわれは みな異なっている。だから差にこだわりだせば、いかようにも分断することができる。しかし、その差は、すべてが『いのち』を持っているという大いなる同一 性の前では取るに足らないものだ。そして、同一性に焦点が合わされたとき、そこには『繋がりあったいのち』というもう一つの世界が開けてくるのである。精 神神経免疫学などの新しい科学が明らかにしたのは、われわれの生命力が『つながり」の中でこそ最大限に発揮されるという事実だった。人は温かいつながりの 中でいきいきとし、そのつながりを失うと病む。―――それは、癒しが『いのちのつながりあい』の中にあるということだ。」(上田紀行『スリランカの悪魔祓 い イメージと癒しのコスモロジー』より)
 また、日本基督教団名古屋堀川伝道所の牧師である島しず子さんは、重度の障碍を負って生きた娘さんと 共に生き、彼女と同じような障碍を持つ人たちと共に生きる中で、このような「幻・夢」を神から与えられて、今この時代に「預言」を語るのです。「私が生か されたように隣人も生きられるようになることが神の国、御国だと知らされました。御国では、姿、思想、国の形が違うものが一緒に食卓につくこと。神さまの 意志はもっとも生活しにくい人、生きにくい人が生きられる社会になって御名が賛美されることではないでしょうか。―――日々の糧を祈り、日々隣人との関係 を考え、模索し、実践する中での祈りに神様は聖霊を与えてくださいました。聖霊を通して、苦しんでいるのはあなただけではない、糧を必要としているのはあ なただけではない。あなたも隣人も、遠くの隣人も食べ、生き延びることを切望している。だから互いに神を崇め、一緒に御国の幸いを味わうように、と神は招 いてくださったのだと思います。」(島しず子『尊敬のまなざし』より)
 ペンテコステの朝、最初の教会は聖霊によって、「主に聞き、互いに聴き合い、共に見た」のです。私たちにもまた、同じ方が、同じ恵みを与え、味わわさせてくださるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストによって私たちをどこまでも愛された神よ。
  あのペンテコステの朝、あなたは聖霊によって豊かに力強く語られました。弱く、傷つき、罪に落ちていた弟子たちは、聖霊によって動かされ、暖められ、信じ 生きるべき言葉を与えられました。そしてかれらは、聖霊によって「主に聞き、互いに聴き合い、共に見る」者たち、教会とされました。その時と全く同じ聖霊 が、なんとこの私たちも下り、共にいて、共に歩んでいてくださいます。この測り知れない恵みのゆえに、私たちが今年度祈り、願い、求めているように、「主 に聞き、互いに聴き合い、共に見る」ことができると信じ、感謝し、希望を抱きます。どうか約束の通りに、私たちを導いてください。
聖霊を約束してくださる世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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