復活の主はいたれりつくせり           ヨハネによる福音書第21章1〜13節


  「聞け、復活の主の言葉」というテーマでお話をしてきました。なぜ、復活の主の御言葉を聞くのでしょうか。一言で言うならば、教会というのは、復活の主が 建ててくださったものだからです。主イエスの十字架によって挫折し、ばらばらに離散してしまった弟子たちを再び集め、「一つのキリストの体」として立てて くださったのは、復活のイエス・キリストです。復活の主は、かれらに言葉をかけながら働きかけて、教会としての生き方と働きを開き、整えてくださいまし た。ですから教会は、復活の主の言葉を聞くことから礼拝を始めます。復活の主の言葉を聞きながら、教会は教会として立たされ、導かれ、成長して行くので す。
 今日の所は、まさにそうです。要所要所に復活の主の言葉が語られ、その言葉をもって主の働きかけの業が、弟子たちに対してなされていきます。その意味で、「復活の主はいたれりつくせり」なのです。

 まず何より、復活の主イエス・キリストは、弟子たちの傍らに立って、かれらに言葉をかけてくださいました。それは、かれらの進退窮まる苦しみの岸辺においてでした。
  かつてかれらはイエスから呼びかけていただいて、普通の漁師から「人間を取る漁師」へという、全く新しい道へと踏み出したはずでした。しかし今、イエスが 十字架にかけられ、殺されてしまったという経験の中で、かれらはこの道に行き詰まり、前に進むことは到底できませんでした。彼らは「人間をとる」どころ か、その「人間」そのものに絶望していたと思います。イエス様を十字架にまで追い込み殺していった人間というものの罪と悪さは、なんとひどいものだったこ とだろうか。そして、それにもまさって彼らを苦しめていたのは、きっと彼ら自分自身であっと思います。やはり「人間」である彼ら自身の愚かさ、ずるさ、ど す黒さ、どうしようもなさ。もう「人間をとる」などという道に前進することは到底できない、それが彼らの今であったのです。そしてこの行き詰まりは、イエ スの復活の知らせを聞いても、なお乗り越えがたいほどの深刻さであったのでした。
 そんな中で、かれらは元の漁師に戻れないかと故郷ガリラヤへ 帰って来ました。今ペテロは「わたしは漁に行くのだ」と、仲間たちを誘って出かけます。しかし、結果は散々なものでした。夜通し精一杯働いても、一匹も魚 が取れなかったのです。長年のブランクで腕が落ちていたのでしょうか。それとも彼らの気落ちした心が仕事にまで影響を与えていたのでしょうか。いずれにし ても彼らはこの晩一匹も取ることができなかったのです。それは、彼らの将来に暗い雲を投げかけるような出来事でした。「これから漁師に逆戻りしても、はた して暮らしていけるだろうか。」そんな重苦しい不安と疲れが、彼らを満たしていたと思います。過去の挫折に、今朝の不漁が積み重なってのしかかります。そ れは、無力感と失望の虚しい夜明けでした。
 しかし、この時この状況のかれらに近づいてきて、声を掛ける人があります。「夜が明けたころ、イエス が岸辺に立っておられた。―――イエスは彼らに言われた、『子たちよ、何か食べるものがあるか』。」深い苦しみの中にいる人、大きな失敗・挫折を経験した 人、将来の見通しが悪いと思われる人、そういう人を、多くの人々は残念ながら嫌い、避けがちです。自分もそのダメージや呪いを受け、自分も損害や痛みを被 るのではないかと恐れるのです。声を掛けることなどしないで、むしろ段々と遠のいて行くのです。「自死遺族の中には、周囲から『お前の親父は逃げたんだ』 『自殺するのは弱かったからだ』と言われたという子もいます。近所から、『あの家は呪われている』と言われて、以前はちゃんと回覧板を玄関の新聞受けに入 れてくれていたのが、父親が亡くなってからは門の外に立て掛けられるようになった、という家もある。その敷地に入ると何か呪いがかかるのではないかという 感覚なのですね。―――その話を聞いたり、それにタッチすると、自分も《穢れ》てしまうかのように、周囲の人が徹底してその人のもとに寄リ付かない。 ―――弱そうな、金の儲かりそうもない人からみんなどんどん手を引いていく。で、野垂れ死にしていくのを見て、『ほらほら、あんなふうになっちゃいけませ んよ』と言う。」(清水康之/上田紀行『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』より)
 しかし、復活の主イエス・キリストは、挫折と失望の中にあった弟子たちの傍らに、あえて三度目にもかかわらず立ち、かれらに心配と配慮の声をお掛けになるのです。「子たちよ、何か食べるものがあるか。」

 それにとどまりません。復活の主は、言葉をもって、具体的に教え、助けてくださるのです。弟子たちが「(食べるものは何も)ありません」と答えると、次にイエスはこう語りかけてくださいました。「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう。」
  皆さんの中に、イエスという方は、単に精神的な慰めを私たちに与える方だと思い込んでいるところがあるのではないでしょうか。ところが、復活の主の御言葉 は、実に具体的かつ的確なのです。「舟の右の方に網をおろして見なさい。」そうしてみたら、このようなことが起こったのでした。「彼らは網をおろすと、魚 が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。」前にも、初めてペテロたちがイエスにお会いした時にも、これと似たようなことがありました。そ れをきっかけとし、出発点としてかれらはイエスを信じ、イエスに従い始めたのでした。それは、かれらをその時の「原点」に立ち返らせる業であり、人間の思 いを超えた神の豊かさを開く行為であり、そして復活の主御自身を指し示す働きであったのです。
 復活のイエスは、「なんとなく」慰めたり、励まし たりする方ではないのです。「では、こうしてごらんなさい」「この道をここに行ってごらんなさい」「この人に会って相談してごらんなさい。」と、極めて具 体的に教え、現実的に助けてくださる方なのです。古今東西多くの人が、このようなキリストの呼びかけと助けを経験しています。皆さんもそうではないでしょ うか、そうなのです。ミラノの聖アンブロシウスという人は、こう語ったと言われています。「キリストの内に我々はあらゆるものを所有している。もしあなた が傷を癒やしたいなら、彼は医師である。もしあなたが熱で燃えているなら、彼は泉である。もしあなたが助けを必要としているなら、彼は力である。もしあな たが死に怯えているなら、彼は生命である。もしあなたが暗やみから逃げているなら、彼は光である。もしあなたが空腹なら、彼は食物である。『主の恵みふか きことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。』」(アントニー・M・コニアリス『落ち込んだら』より)

 そして極めつけ、復活 の主イエスは、ご自分が愛する者たちのために、準備し、養ってくださいます。その主の御声を聞き、主の御業を経験して、かれらはあれが誰であるかを悟りま した。「イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに『あれは主だ』と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にと びこんだ。しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。」
 岸に着いてみると、思わぬもう一つの喜び の出来事がかれらを待っていました。「彼らが陸に上ってみると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。―――イエスは 彼らに言われた、『さあ、朝の食事をしなさい』。」なんとイエスご自身が、かれらのために炭を起こし、魚を焼き、パンを備えて、朝の食事を用意してくだ さっていたのでした。それは、何から何まで「恵みの食事」でした。かれら自身が取ったのではない豊かな水揚げの中から、かれら自身が用意したのではない食 物を、かれら自身ではなく復活の主ご自身のご奉仕によっていただく。まさに至れり尽くせりです。
 こうして、主はご自身の復活をきわめて具体的・ 現実的な出来事として示し、与えてくださったのです。弟子たちのために火を起こし、魚を焼き、パンを備えて食事の用意をするイエス、こんなイエス様を想像 してみてください! 彼らはこのイエスと一緒に食事をしました。生涯忘れられなかったでしょう。「あの景色、あの空気、あの味。」 主は私たちにもこのように語りかけておられ るのです。「わたしが復活して生きているということは、こんなにも現実的でこんなにも具体的なのだ。わたしは今もこうしてあなたがたを慰め、力づけ、引き 上げ、あなたがたのために備え、働き、世話をしよう。」

 初めに、復活の主の御言葉が、教会を「キリストのからだ」として集め、立てたの だ、と言いました。まさにその通りです。こうして「いたれりつくせりの、復活の主イエス・キリスト」によって呼びかけられ、そのご奉仕によって備えられ、 弟子たちを招いて持たれたこの恵みの食事の交わりこそ、その後の教会の交わりとその奉仕の原型であり、土台なのです。こうして復活の主によって呼びかけら れ、仕えていただき、豊かな恵みをいただいているからこそ、私たちも復活のイエスのように、苦しむお互いの傍らに立ち、そして呼びかけの言葉を投げかける のです。また私たちも、この主と共に、互いの具体的・現実的な必要に答えて、助け合い、仕え合うのです。そして私たちも、このお方と共に、それぞれの必要 と助けのために、「炭火を起こし、魚を焼き、パンを備える」という具体的な奉仕の業をしていくのです。
 東北大学法学部に宮田光雄というクリス チャンの政治学者の方がおられました。学生たちと聖書を読み、読書会をしながら、共同生活をするという奉仕を長年なさってられたそうです。その中で、ボン ヘッファーの『共に生きる生活』という本を一緒に読んだ時の証です。「『積極的な助力という奉仕』―――行動を通して助けるという決意が問われる箇所をめ ぐって話し合ったときのことである。若ものたちは、共同生活を通し、学園の生活を通し、なかなか忙しい。一人びとりが、自分なりの勉学やサークル活動や読 書の計画に追われている。隣人愛というキリスト者の倫理的責任について観念的には理解できても、具体的に兄弟に仕え隣人に仕えて身体を動かすことはできに くいことが多い。ボンヘッファーはいう。『極めて小さな外面的な援助を実行することによって生じる時間的損失を心配するひとは、多くの場合、自分の仕事を あまりにも重大に考えているのである』と。むしろ、『われわれは、神によって[われわれの仕事を]中断させられる用意がなければならない。神は、われわれ に要求と願いとをもった人々を送り給うことによって、常に繰り返して、日ごとに、われわれの歩みを停止し、われわれの計画を妨げ給う』と。『神によって中 断される用意』―――これは、まことに若ものの生活のまっただ中に閃光のように貫く言葉だった。一人の学生は読書感想に、こう書きとめている。『はじめて この本を読んだ時、最も心を痛めた言葉であり、最も心に残っている言葉でもある。・・・自分の時間・計画を邪魔されたり、妨げられることは、とても嫌だっ た。しかし、この言葉通りの事件が起きたことで見方はかわり、心に鋭くつきささってきたのである』と。仲間との談笑の時を、ひとりの読書の時を、サークル 活動の計画を『中断』して、具体的に身体を動かす奉仕へと呼び出される。そのときはじめて、日常の交わりの生活の中でリアルに《他者》が発見され、《他 者》の背後に立ちたもうイエス・キリストとの出会いに開かれる。」(宮田光雄『信仰への旅立ち』より)
 そのように共に歩み生きて行く私たちのその場所に、今日も復活の主「いたれりつくせり」のイエス・キリストは立ち、共にあり、先立っていてくださるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストにおいて私たちをどこまでも愛された神よ。
  復活の主は、一度二度ならず三度までも、弱さと不信の弟子たちにご自身を表してくださいました。そして「いたれりつくせり」の愛と真実をもって言葉をか け、具体的に教え助け、また備え養ってくださいました。このお方によって、離散していたかれらは再び集められ、「キリストのからだ」なる教会として新しく 出発することができました。
 私たち教会にとっても、復活の主の御言葉こそが、私たちの交わりと奉仕の土台であり、原点また原型です。「いたれり つくせり」の主に導かれ、伴われる私たちが、どうか一つまた一つ、一歩また一歩と、奉仕と共生の道を歩んで行くことができますよう助け、お導きください。 そうして、「キリストのからだ」としての証を、広くこの世、この社会、この国においてなさせてください。
復活の主、世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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