態度で語る復活の主           ルカによる福音書第24章13〜31節


 イースターに続くこの復活の季節、「聞け、復活の主の言葉」というテーマで、復活のイエス・キリストの御言葉を共に聞いています。
  さて今日の箇所は、「エマオへの道」などという「題」のようなものまで付いている、教会では非常に有名なお話です。エマオという「温泉」で有名な村へと向 かう二人の弟子たちと復活のイエス・キリストとの不思議な出会いを、「文学的」と言っていいような印象的な仕方で描いている、聖書の「名所」だと思いま す。
 ところが、この「名所」「エマオへの道」での復活の主イエスのお言葉は、「手厳しい」、実に「手厳しい」のです。

 クレオ パという名前の人ともう一人の弟子、この二人がエマオ村へと、語り合い論じ合いながら旅をしていた時、その途中から一人の人が彼らに寄り添い、その道中に 加わってきました。まさにそれが、復活の主イエスであったのです。「この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルあまり離れたエマオという村へ行きな がら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。」しか し、彼らの「目がさえぎられて」いて、イエスだとは「認めることができなかった」と言われます。そこでイエスは彼らに言われたのです。「歩きながら互に語 り合っているその話は、なんのことなのか。」
 「その話は、なんのことなのか」。単なる疑問文のようですが、そうでもないように思います。単に二 人の話の内容を知りたいということなら、イエス様は尋ねる必要はないでしょう。だって、内容はまさにイエス様に関することであり、それならイエスご自身が 一番良く知っておられるはずだからです。ですから私は、ここは「イエス様はとぼけて尋ねておられるのかな」と思っていました。そうかもしれませんが、今日 はここに「憤り」「抗議」の気持ちを読み取ってみたいと思います。
 「その話はなんのことなのか、そんな話をしている場合じゃないだろう、そんな 話をしている君たちはいったいどういうつもりなのか。」なぜ「抗議」なのか、なぜ「憤り」なのか、それは「この日」、かれらが旅をしていた「この日」と は、イースターの日、イエスがその日の早朝復活されたまさにその日であったからです。しかも二人、この「復活の知らせ」をすでに聞いていました。かれらは 女たちの知らせを聞いています。「そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。」それなのに、ああそれなのに、かれらは今 「悲しそうな顔をして」、絶望と虚無と逃避の旅を続けているのです。それどころか、当のイエスに向かって、「あなただけが、ご存じないのですか」としたり 顔で切り返すのです。復活の知らせ、喜びの福音を確かに聞いたはずなのに、「悲しそうな顔」、重苦しい雰囲気と足取り、虚しくも激しい果てしのない論争。 これなら、イエス様が「その話はなんのことなのか、違うだろう」と言いたくなったのも、私たちにさえも少しわかるような気がいたします。
 さらに 二人は、こうして現れたこの旅人に、今まで言いたくても言えなかったあふれる胸の思い、失望とあきらめ、疲れと絶望の気持ちを、ぶつけていきます。これを 聞いていて、さすがのイエス様ももう我慢できなくなったのかもしれません。こう語り出されました。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべ ての事を信じられない者たちよ。」「ああ、愚かで心のにぶいため、信じられない者たちよ」、まことに「手厳しい」復活の主のお言葉です。けれども、この 「手厳しさ」は、復活の主イエスが知り生きておられる神の現実と、この二人の弟子をはじめ私たち人間が生きている現実との、到底埋められないほどの落差、 ギャップを痛烈に示していると思います。私たち人間は、それほど信じられないのです。どんなに復活の言葉を聞いても、たとえその日の朝に復活のメッセージ を聞いたとしても、もうその日の昼頃にはそれを忘れて、暗い顔をし、疲れと失望の中を生き、逃避と責任回避の道を歩み、隣人との分裂と争いに明け暮れるの です。

 けれども、けれども、今日お伝えしたいことは、主の「手厳しさ」ではありません。言葉の「手厳しさ」とは裏腹に、全く裏腹に、復 活の主の態度と生き方は、優しく、愛に満ち、しなやかで強いのです。それは、「共にあり、共に歩く」という態度と生き方です。復活の主イエス・キリスト は、この二人の弟子の旅に途中から加わり、かれらと共に歩き、かれらの言葉に耳を傾けて聴き、かれらに向かって親しく丁寧に語り教え、そしてかれらの求め に答えてかれらと共に宿り、食卓を共にされました。
 「共にあり、共に歩く」、復活の主は「根気強い」のです。長い距離をこの二人と歩きます。実 に長い時間をかれらと共に過ごします。また復活のイエスは「忍耐強い」のです。この二人の鈍さと遅さにとことん付き合い、とことん伴います。そして復活の イエス・キリストは「懇切丁寧で面白い」のです。「モーセから始まり聖書全体にわたって」聖書を解き明かされたのです。「大長編」の話です。面白くいきい きと語られなければ、とても持たなかったでしょう。そして確かに面白かったはずです。聖書の主人公本人であるイエス様がご自分のことを語るのですから。時 間の経つのを忘れるくらい、後でかれらが言っている通りの濃い、豊かな時であったはずです。「道々お話しになったとき、また聖書を解き明かしてくださった とき、お互の心が内に燃えたではないか。」

 そうして「共にあり、共に歩む」道の果てに、よみがえりの主はご自身を分かち与えて、極めて 具体的・現実的な関わりを持ってくださいました。だんだん日も暮れてまいりました。そろそろ今夜の宿を求めなければなりません。しかし、この不思議な旅人 はなおも旅を続けるかのようです。二人の弟子はこの人ともっと話してみたい、そういう強い思いに駆られました。二人は彼を強いて引き止め、一緒に宿に入っ たのです。そこでこのようなことが起こりました。「一緒に食卓につかれた時、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、 それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。」イエスはそれを、「共に食べ、食べ物を分かち合い」という仕方で実行なさるのです。 「一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに」。この言葉は、私たち教会が毎月行っている「主の晩餐」につなが り、それを導き出す行為です。「主の晩餐」では、本当に復活の主が私たちと共におられるのです。そこでは、本当にイエス御自身が、私たちに御自身の体と血 とを与え、そのことを、パンを共に食べ、ぶどうの汁を共に飲むことによって示し与えてくださっているのです。そしてそれは、私たちの日常生活のすべての出 来事、そのひとコマひとコマ、一歩一歩の中で、具体的な出来事と出会いの中にイエスが立ち、復活の命に今も共に生きておられる御自身を示し、分かち、与え るという仕方で、私たち教会とその一人一人にしていてくださることなのです。

 復活の主ご自身が、復活を示し、信仰を与えてくださいまし た。「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。」「そんな」と思いますか。でも、大丈夫です。もう生きてい けるのです。「聞いていても信じない」のではない、「見なくても信じる」ようにと変えられたからです。イエス様の姿が目に見えなくても、「イエスは生きて おられる」、神に支えられる確固とした信仰をもって、喜びと希望のうちに生きていけるのです。
 ここからこの弟子たちの生き方、その行動と方向性 の転換が起こりました。かれらは、急遽エマオでの滞在を取りやめます。そして、足先をひっくり返して、つい今朝出て来たばかりのエルサレムへと引き返すの です。一度は捨てたはずのエルサレムへと帰って行ったのです。この福音、この喜びと希望を仲間たちと、また多くのまだ見ぬ人々と分かち合うために、喜び勇 んで帰って行ったのです。

 この二人が引き返し、残っていた他の弟子たちとが再会し、そこに復活の主が再び立ってくださったとき、キリス トの教会は始められたのではないでしょうか。それは、この時と同じ方、全く同じ方が、今も私たちと共にあり、共に生き、共に歩んでくださる場、共同体、ま た道です。復活の主は、いつでも、今でも、何よりその態度と生き方において、強く、雄弁に語られます。「わたしはあなたがたとどこまでも共にあり、とこと ん共に歩み、共に生きる。」この態度と生き方をもって語られるメッセージこそが、やはり鈍く遅い私たちの命であり、力であり、希望なのです。
 こ のたび私が翻訳をさせていただいた『知的障碍者と教会』という本の中で、自分も障害のある息子を持つフェイス・バウアーズさんは、「教会は、態度と生き方 が大切だ」と語ります。「人間に対する神の愛は、福音の『心臓』です。それを伝えるために教会は存在しています。ここでの強調点は、『示す』ことにありま す。私たちのほとんどは、おもに言葉を通して伝達します。しかし、福音のメッセージを『語る』ことは、言語を持たない人や、言語の使用や理解に制限がある 人にとっては不適切です。かれらは教会を『キリストの体』として経験する必要があります。それを通してかれらは神について学ぶのです。このことは、私たち すべてにとっても真実ですが、障碍を持つ人たちに福音を伝えるにあたっては、何より重要です。―――かれらに接すると、私たちは、残されたのは教会それ自 体しかないのだとわかります。もし私たちの障碍を持つ友がイエスに出会うべきだとするなら、それは、ここにあります。―――もし教会でのかれらの体験が愛 であるなら、それはイエスの愛の具体化なのです。イエスはかれらを愛しておられると語っても、イエスを信じる人々が交わりの中で疑い深く意地悪で、かれら に仲間外れで拒絶されているように感じさせるなら、どうしようもありません。私たちは『キリストの体』なのです。これは厳粛な教訓であり、その重要性は障 碍を持つ人々の関わりにおいて際立ちますが、その射程はそのはるか遠くにまで及んでいるのです。」(フェイス・バウアーズ『知的障碍者と教会 驚きを与え る友人たち』より)
 「共にあり、共に歩む」、この復活の主の態度と生き方によって赦され、救われ、生かされた私たちもまた、態度と生き方をもっ て、この主イエス・キリストを指し示し、証しし、分かち合うのです。鈍く遅いお互いに向かって、お互いの間で、「根気をもって、忍耐をもって、懇切丁寧 に、そして時にはユーモアと笑いをもって」語り合い、仕え合い、助け合って生きるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神よ、御子イエス・キリストによって私たちをどこまでも愛された神よ。
  復活の主イエス・キリストは、失意と絶望のうちに歩む二人の弟子たちに向かって、その態度と生き方をもって福音を語られました。「わたしはあなたがたと共 にあり、共に生き、共に歩む。」この福音によってこそ、かれらは再び力づけられ、立ち上がらされ、生かされました。ここから、新しい教会と信仰者の道が開 かれ、始められました。
 私たちもまた、こうして共に生き共に歩んでいてくださる復活の主に気づき、その御言葉に聞くことを開き、与え、教えてく ださい。そして私たちも、教会で、家庭や地域で、またこの社会において、このお方から信仰と希望と愛を与えられ、互いに仕え、共に生きることができますよ うに。
復活にして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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