天地の主が日々共に           マタイによる福音書第28章11〜20節


  イースターに続くこの季節、復活の主の言葉を共に聞いています。今日の言葉は、復活の主イエスの大いなる宣言から始まります。「わたしは、天においてもに おいても、いっさいの権威を授けられた。」この中で一番大切な言葉、中心的な言葉は、「権威」でしょう。「権威」とはいったい何でしょうか。それは一言で 言って、「人を動かす力」だと思います。他の人を動かして、ある事柄を信じさせ、またそれに基づいて言葉を語ったり、最後には行動へと駆り立てることので きる力、それが「権威」ではないでしょうか。たとえば、よくテレビ番組で「これこれの食べ物が体にいい」という情報が流れると、その食べ物を多くの人が買 いに走って、その物が品切れになったり値上がりしたりということが起こることがありました。ところが、その同じことを私が言ったとしても、「それはあなた がそう思っているだけでしょう」ということで、鼻にも引っ掛けられないでしょう。それは、良くも悪くもテレビには私よりも「権威がある」ということだと思 います。
 この主イエスの言葉は、その「権威」について語っています。しかも、この主の言葉は、他の権威、この世の権威とのせめぎ合いの中で、それらの他の権威との対抗さらには対決の中で、語られているのです。

 「この世の権威」とは、この場面では「イエスの復活をなきものにしようとする」力であり、その動き・働きを担う人々のことです。
  その「権威」、それはまず「早い」のです。今日のテキストに先立つ、27章62から66節を読んでみますと、ここには驚くべき報告が書かれているのです。 イエス様は、十字架にかかられる前に「自分は死んで三日目に復活する」とあらかじめ語られましたが、その復活の告知を実に真剣に受け止め、かつそれに備え た人々があったというのです。それは、「弟子たち」や「信じる人々」ではありませんでした。むしろ、それは「信じない人々」、それどころかイエスを十字架 に葬り去り、さらに用心を重ねて「復活を防ぎ止めよう」とする人々であったのです!「復活」あるいはそれに類したことが起こらないようにと、主が葬られた 墓の入り口を大きな石でふさぎ、その上に番兵を立て見張りをさせる、実に用意周到な、そして速い、実に「速い人々」であります。
 ところで、この 間、弟子たちや「少なくとも信じそうな人々」は何をしていたのでしょうか。何も。少なくとも、何か意味のありそうなことは何もしていなかった、いや、でき なかったのです。かれらは、到底言い表しようのない挫折と行き詰まりを経験していました。今まで「わが人生の導き手、世界の救いと希望の担い手」として信 じ従って来たイエス様は、あんなにもひどい仕方で殺されて死んで行ってしまわれた。もはや私たちには何が残っているだろうか。それだけではありません。か れらは、同時に自分自身の恐ろしいまでに底知れない罪と不信、恐れと臆病にぶち当たってしまったのです。あんなにも深く愛され、共に生きた主イエスを、ど うして守り、どこまでも一緒に行こうとはしなかったのか。それどころか、冷たく見捨てて逃げ去った、しかもなお依然としてのうのうと生きているこの「私」 とはいったい何者だろうか。かれらには、何をする力も、気持ちも残ってはいなかったでしょう。「生ける屍」のようにただため息と無為の中にぐずぐずと時間 を過ごすだけであったと思います。
 この事情は、復活の告知が行われてもなお変わりません。新共同訳聖書では、11節を実に興味深い言葉で訳して います。「婦人たちが行き着かないうちに」。つまり、復活の主に出会った女性たちがその知らせを喜びにみちて告げ知らせるより先に、気絶して死んだように なった見張りの兵士たちが気を取り直し先回りして、「信じない人々」のところに行き着くのです。何という、罪と不信仰の速さでしょうか、それに比べて何と いう「信じる者たち」の遅さでしょうか。
 また、「この世の権威」は「強い」のです。様々な力を豊富に持っているのです。かれらには、政治的・社 会的力があります。「祭司長、長老たち」は、イエスの男の弟子たち、まして女性の弟子たちよりも、はるかに「権威」を持っているでしょう。かれらは物理的 な暴力、すなわちローマの兵士たちすら動かす力を持っているのです。さらにかれらには経済力があります。「たくさんの金を与えて」、「弟子たちが夜中にき て、寝ている間にイエスの遺体を盗んだ」という情報を流させることができるのです。この世で「お金がある」ということは、すなわち情報力、人を動かして使 う動員力、それに基づく社会的影響力があるということです。だから、この偽りの宣伝は効果を発揮して、こうなったと記されています。「そこで、彼らは金を 受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話(弟子たちがイエスの遺体を盗んだ、だから当然イエスは復活などしなかったという話)は、今日に至るま でユダヤ人の間にひろまっている。」

 そのような「この世の権威」の「速さ」「強さ」に引き比べて、イエスを取り巻く女や男の弟子たち の、なんという「遅さ」そして「弱さ」でしょうか。あの「競走」でも敗れてしまったように、女たちの足は兵士たちの足より遅いのです。そもそも身体的・体 力的に弱いのです。さらにはお金もない、人もいないのです。なにせ、みんな「イエスを見捨てて逃げ去った」のですから。そして聖書を読んでみますと、極め つけ「信仰もない」のです。その「弱く、遅い者たち」が、ようやくのことで復活のイエスとお会いした、山の上でのことです。「さて、十一人の弟子たちはガ リラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスに会って拝した。」でも、福音書はさらに「駄目押し」をいたします。その 次の言葉がふるっています。「しかし、疑う者もいた。」何をかいわんや、です。こうして、復活の主にじかにお会いし、礼拝してもなお、かれらは信じること ができない。まさに、かれらはイエスに信じ従うことにおいてさえも、「最後の者」でしかないのです。

 しかし、ここに本当の福音、本当の 「良き知らせ」があるのです。「イエスは彼らに近づいてきて言われた」。イエスは、その時かれらに向かってこんなふうにはおっしゃいませんでした。「さ あ、今から信仰のテストをやります。私の復活を信じる点数が80点以上は合格、それ未満の人は不合格ですからこの山から降りてください」。また、こんなふ うにもおっしゃいませんでした。「あなたがたの中に疑う者がいるなどということは、あなたがた全体の姿勢がなっとらんからだ。これは連帯責任、全体の責任 だ。もうあなたがたのような人たちは相手にせず、もっとましな人たちを探し、集め直すことにする」、そんなことは決して言われませんでした。
 そ うではなくて、こう書いてあるのです。「疑う者もいた。イエスは彼らに近づいてきて言われた」。復活の主は、彼らがどんな者であろうと、たとえ今復活のイ エスを見ていながら「疑う者」であっても、その人をお見捨てにならないのです。イエスが選び、愛してくださるならば、どんな不信も、その元になってしまっ た挫折と罪も、かれらのあのどうしようもない「遅さ」「弱さ」も、何のさまたげにもならないのです。主はその人に真実と赦しとをもって近づき、そのような 人たちの集まり、教会の中にと愛をもって迫ってくださるのです。彼らを包み、はさんでいるのは、神の愛であり、復活のイエスの圧倒的な恵みです。復活の主 は、そんなあなたに「近づいて」、語りかけてくださるのです。それは、かつて主が言われたとおりでした。「わたしはこの最後の者にも良くしてやりたいの だ。」

 そして今、復活の主は言われます。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」これは、驚くべき宣言 の言葉です。「天においても地においても」ということは、いつ、どこの、どのような他の権威、力にも優る、圧倒的な力と権威とを、復活のイエスは神から与 えられて持っておられ、それを行使しておられるということだからです。あの「この世の権威」の、どのような「速さ」また「強さ」にも優り、それに打ち勝 ち、それをはるかに凌駕しておられるということだからです。「どうしてそんな事があり得ましょうか。」
 なぜなら、それはすべてに先立つ神の力、 神の復活の力だからです。あの墓をふさぐ大石が転がされたことに象徴されているとおり、神は、主イエスの復活により、事実死の力を覆され、捻じ伏せられた のです。「神がこれをなさった」、これに優る知恵も力もありません。また、この神の業を取り消したり、「なかったことにする」ことはできません。さらに、 これは天使たちの告知の中に出て来る言葉ですが、主イエスの復活は「すべてに先立って」為されたのです。「あの方は死者の中から復活された。そして、あな たがたより先にガリラヤへ行かれる。」それは、この「遅い弟子たち」よりは先に行くけど、あの悪人たちよりは遅れるという意味でしょうか。とんでもない。 弟子たちはもちろんのこと、「信じない者」「復活を否定し、死を推進する者」たちにも先立って、主イエスは復活し、今も進んでおられます。それが神の愛で あり、力であるがゆえに、どのような人間的な遅れ・弱さも問題ではありません。神は、罪と悪と死に追いつき、追い越し、それらを圧倒的に凌駕して行かれま す。
 同時に、だからこそ、この神の復活の力は、どんな遅い者、弱い者、罪ある者を退けずに近づき、とことん共にある、とことん付き合い、どこま でも共に生きて行く、愛の力、赦しの力です。主は、復活に接した女たちにこう告げます。「恐れることはない。行って兄弟たちにガリラヤへ行け、そこでわた しに会えるであろう、と告げなさい。」イエスが「兄弟」と呼びかけてくださっているのは、誰でしょうか。それは、ほかでもない、あの「遅く、弱い弟子た ち」なのです。主を裏切り、捨て、逃げた者たち、今も、主が復活され、さらにそれを「妨害」しようという陰謀が企まれているこの時も、どこでどうしている かわからないような者たち、かれらをこそ主は「兄弟」と呼び、「かれらと私は会おう」と言われる。それは、かれらをなじり責めるためではありません。赦 し、愛するためです。パウロは手紙の中で、「愛こそ、世に最も大いなる力であり、それは永遠に絶えることがない」と証ししています。神は、またその復活者 イエスは、この「愛」を持っておられるがゆえに、どのような他の力、悪や死にさえも動かされないので、「遅い者、弱い者、罪深い者」にまっすぐ向かい、か れらと共に生きられるのです。

 この復活の主、天においても地においてもいっさいの権威を授けられている主が、今このような者たちに証と 宣教の使命を与えて、こう約束されます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」「世の終り」とは、「世の進行の完成」と いう意味です。「この世は完成するのだ」と、主イエスは宣言し、約束してくださるのです。「神によって、この世は完成する。あなたがたの弱さ・不信と、人 間の罪と、希望のなさとを超えて、この世は完成されるのだ。」
 それまでの道のりにあって、「いつも」「すべての日々に」、共にいるのだと言って くださるのです。これは、「すべての日々に」と、日が複数形で書いてあります。「空気のように」「めりはりも変化もなく」、ずっといるというのではないの です。そうではなくて、「すべての日々に」共にいるのだとおっしゃるのです。すべて違う日です。喜びの日があり、悲しみの日があり、苦しみの日があり、楽 しみの日があるでしょう。晴れる日があれば、雨の日、時には嵐が吹く日もあるでしょう。その「すべての日々に」、それぞれにみんな違って、それぞれにみん なふさわしく、復活の主は、必ず私たちと共にいてくださる。そして、この私たちをも、あの「世の完成」のその日に至るまで守り、導いて行ってくださるので す。
 「イエスの生涯とことばから学んだ人は、そこにとどまったままでその後に続くイエスの歴史を無視することはできない。ナザレのイエスは、こ の二千年来、復活して生きているのだから。イエスは彼の約束を信じる人々の意識を変える。イエスに始まり、イエスにおいて、世界のための希望はふくらみ、 勇気を持つべき理由が大きくなった。イエスにおいて、世界の容貌は変えられてきた。キリストを語るとき、私たちはアッシジのフランチェスコやマーティン・ ルーサー・キングがイエスについて学んだことを私たち自身の関係に取り込む。言いかえれば、先人がこれまでにイエスとの出会いによって積み重ねてきた宝を 受け継ぐのである。彼こそは、理解され、独特の発展をとげ、私たちに先立ち行くキリスト、今も生き生きとして、私たちが学ぶことができる、キリストであ る。キリストから私たちへ続いてきた道は、むなしくはなかった。」(ゼレ/ショットロフ『ナザレの人イエス』より)
 このお方が、今日私たちをも ここからこの世へと送り出してくださいます。パウロは、「キリストの愛が私たちに押し迫っているからです」と語りました。私たちも、復活の主、インマヌエ ルの主イエスの愛と恵みによってしっかりとはさまれ、包まれながら、この「天地の主」によって押し出され、それぞれの場へと出て行きましょう。

(祈り)
天地万物の主なる神、御子イエス・キリストによって私たちをどこまでも愛された神よ。
 復活の主イエスは、「遅い者」「弱い者」「疑う者」たちに向かってまっすぐ近づき、天地の一切の権威をもって「共にいる」と約束され、そしてかれらを送り出されました。
 私たち一人一人と教会にも、同じお方が「すべての日々に」、「世の完成に至るまで」共にいてくださいます。私たちも勇気と希望の力をいただいて、それぞれの場へと押し出され、そこで仕え働き、あなたの栄光を表すことができますように。
復活にして命なる世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る