霊の注ぎの中で共に聞く           ヨエル書第2章28〜32節


  この「ヨエル書」の言葉は、私たち四日市教会の今年度の主題聖句です。それで今日は、年度の初めに、この御言葉に共に聞くことから、この一年の歩みについ て、神様から指針と励ましまた力をいただきたいと願います。一言申し上げておきますと、この箇所は、この口語訳と新共同訳聖書とでは、章立てが違います。 新共同訳では、ここが、3章の1から5節となっています。

 預言者ヨエルが、どの時代、いつ頃活動したかということは、全く不明です。で も、ヨエルの時代には、一つの著しい出来事が起こりました。それは、いなごの襲来という、大規模な自然災害です。「かみ食らういなごの残したものは、群が るいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。」(1・4)「い なごの害」、それはこの地域にしばしば起こるもののようです。「古代のみならず現代においても、エルサレムとその周辺地域はいなごによる荒廃の危機にさら されてきた。1915年の春、エルサレム、パレスチナ、及びシリアは、いなごの襲来による恐ろしい土地の荒廃に悩まされた。二月の末に北東からいなごの大 群がその地に飛来しはじめ、『太陽の光が突然さえぎられたことで、いなごに対する注意が喚起された』。飛来したいなごの数は莫大であり、それは野や丘の中 腹を埋め尽くした。いなごはそこをおびただしい数の卵で覆った。―――いったん孵化すると、新たな群れが一日120から180メートルの割合で地表を移動 しはじめ、その通り道にある植物は一本残らず食い尽くされるのである。」(クレイギ『十二小預言書T』より)だからヘブライ語には、「いなご」を表わすい ろいろな言葉があるのでしょう。何か歌の文句のような調子ですが、起こった事態は深刻です。地域の産業と生活は壊滅的な打撃を受けました。

 この時、預言者ヨエルは神様から呼び出され、使命を受けました。それは、イスラエルの民に警告して語るという役割です。
  ヨエルは、このいなごの害は、実は将来起こる顕著な出来事の前兆であると言います。それは、「いなごのように襲来して、国を侵略する民、その軍隊」の前兆 なのです。「一つの国民がわたしの国に攻めのぼってきた。その勢いは強く、その数は計られず、その歯はししの歯のようで、雌じしのきばをもっている。彼ら はわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。」(1・6〜7)
 それだけではありませ ん。この一連の出来事は、「主の日が来る」ということの前兆なのです。「ああ、その日はわざわいだ。主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからであ る。」(1・15)「国の民はみな、ふるいわななけ。主の日が来るからである。それは近い。これは暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日である。」 (2・1〜2)それは、従来は「主なる神様が人々に近づき、やって来て、光と喜び、救いをもたらしてくださる日」のようにイメージされていました。しかし 今、預言者は「違う、全く反対だ」と言うのです。「主の日」、それは暗闇と絶望の日、裁きと災いの日だと言うのです。

 決して、「災害の 原因が人々の罪や社会的不正である」というわけではありません。「罪の罰として、この災いが起こったのだ」というのは、全く正しくありません。しかし預言 者は、神の導きの中で時を見分け、時を告げるのです。そのように災いが来て、生活に打撃を与え、今までの暮らしが立ち行かなくなる時、それは自分たちの生 き方や社会のあり方を振り返り、罪や不正があるならばそれを反省し改めて、新しい生き方と道を選び直す、良いチャンスの時となるのだ、ということではない でしょうか。
 ヨエルは預言者として神様によって呼び出されて、「今がその時、今こそその時だ」と悟りました。そこで彼は、人々に悔い改めを呼び かけるのです。「あなたがたは断食を聖別し、聖会を召集し、長老たちを集め、国の民をことごとくあなたがたの神、主の家に集め、主に向かって叫べ。」 (1・14)「主は言われる、『今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂 け』。」(2・12)

 この「悔い改め」というのは、ただ「苦しい・つらい・悲しい」というものではありません。なぜなら、ユダの人々、 また私たち人間が、態度や生き方を変える前に、それよりずっと前に、はるかに前に、主なる神の方が、神様の方が先に態度を変え、行動を変えてくださったか らです。「その時主はご自分の地のために、ねたみを起し、その民をあわれまれた。」
 それだけではありません。あの「主の日」、「終わりの日」の イメージを、がらりと変えられたのです。そして、その「日」に起こるであろう、輝かしい出来事の約束を、今預言者ヨエルを通して語られるのです。それが、 今年私たちが主題聖句に選んだ言葉なのです。「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たち は夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。」

 その日その時、主なる神が、ご自身 の「霊」をすべての肉なるもの、すべての生きるもの、とりわけすべての人間たちに注いでくださるということが起こります。ここには、神の驚くべき「民主 性」が表れています。神様が「すべて」と言ったら、本当に「すべて」なのです。神が霊を注いで関わりを持たれるのは、「むすこ、娘、老人、若者」、さらに は「しもべ、はしため」たちです。これらの人々は、古代においてはとりわけ、社会的・常識的に軽んじられ、低く扱われていました。けれども「その日」、神 はこれらの人々に対してむしろ優先的に関わり、働きかけ、かれらを用いるのです。そのようにして「すべての肉なるもの」に、神の霊を注がれるのです。
  「神の霊」とは、神様の方から私たちに向かって開き、通してくださる道・チャンネルです。神の霊が注がれる時初めて、私たちは神と出会い、神と関わり、神 の言葉を聞くことがゆるされ、できるようにされるのです。神は、「霊を注ぐ」ことの中で、ご自身の御言葉を語ってくださるのです。神が語られる、だからこ そ私たちは「主に聞く」ことができるのです。しかも、驚くべき民主性をもって「共に主に聞く」ことができるのです。
 今年度、私たちの教会、その一人一人また全体に、主なる神がご自身の霊を豊かに注いでくださいますように。主が豊かに、また親しく語りかけ、私たちの「信仰の耳」を開き、御言葉をすべてのさまたげを乗り越えて聞かせてくださいますように。

  そしてここには、そのように神によって開かれ与えられた、計り知れない「複数性・多様性そして豊かさ」があります。一人だけが、上に立ってリーダー的に語 るのではありません。「むすこ」が語り、「娘」が語り、「老人」が、「若者」が、さらに「しもべ」「はしため」が社会的制約や隔て、差別・抑圧・排除の壁 を打ち破り、それらを乗り越えて敢然と立ち上がり、堂々と語り出すのです。しかも、それは決して「一本調子」のものではありません。その中には、「預言」 があり、「夢」があり、「幻」があるのです。様々な形とやり方で、人々は、それぞれが主なる神から語りかけられ聞き取った言葉を、「私はこのように主から 聞きました」と語り合うのです。神がこのように一人一人に語りかけ、語らせてくださるのですから、私たちは「互いに聴き合う」のです。決して独りよがりに ならず「互いに」、しかも耳を傾けて傾聴し「聴き合う」のです。
 今年度私たちが、主イエス・キリストによって与えられた、愛と自由と開放性とをもって、一人一人に神から与えられた言葉・ビジョン・夢・願い・計画を、互いに注意深く、耳を傾けて聴き合うことがゆるされますように。

  こうして「共に主に聞き」、「互いに聴き合う」ことを通して、神の民は、神による共同の「預言」「幻」「夢」を、「共に見る」ようにされるのです。それ は、このようなビジョンです。「すなわち、血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。すべて主の 名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。」「終末はこの世の崩壊や滅亡ではなく、神 と共にある『始まり』です。ルターは、明日世界が終わるとしとしたら何をするか、と問われた時、『それでも私はリンゴの木を植える』と答えました。――― 終末に向かって終わりの時を生きる私たちの生活は聖書にあるように、愛によって互いに仕え合うことを目指したいものです。」(原口悦子、『世の光』 2018年4月号より)
 今年度私たちの教会が、そのように「主に共に聞き」、「互いに聴き合う」ことを通して、「共に見る」ことができますよう に。「共に」、神が私たちに与えてくださった使命・働き・道を見、またそれに伴う希望の約束、心踊るような夢、私たちを力づけ導く幻を共に見ることがゆる されますように。

 「私たちは、新しい18年度、しっかり立ち止まって、今後どのように歩むのかを祈り、考えるべき時を迎えているのでは ないでしょうか。『私たちは何を、どのようにしたいのか』、それ以上に『主なる神は、私たちにどのような教会となることを求めておられるのか、私たちはど のように歩み、誰と出会い、共に生き、何を果たして行くべきなのか』、そのようなことを、将来に向けて長い視野で考えるときではないでしょうか。そのため に、私たちがなすべきことは、何より共に『主に聞く』ことです。また、『互いに聴き合い」語り合うことです。そしてその過程を通して、主の御心と計画また ビジョンを『共に見る』ことです。」(2018年度 日本バプテスト四日市教会総会資料より)

(祈り)
主なる神、イエス・キリストによって私たちを徹底的に愛された神よ。
 あなたは私たちを愛し、イエス・キリストによって救い、呼び出し、集め、立てて、キリストのからだなる教会とされました。
  あなたの霊が注がれる時、私たちはあなたに共に聞くことがゆるされます。またあなたが多くの様々な人々を立て、かれらを通して語られますから、私たちは 「互いに聴き合う」ことが必須です。この道を通して、どうかこの一年、私たちがあなたから委ねられ与えられる使命と働きと道、それを通して実現すべき夢と 幻を「共に見る」ことができますように。私たちのこの一年を、あなたがた導き、全うしてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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