「おはよう、平安あれ、喜べ」           マタイによる福音書第28章1〜10節


 皆様、本日はようこそイースター礼拝にお越しくださいました。主のご復活、心よりおめでとうございます。
  出されたばかりの『世の光』4月号の「聖書研究」という記事に、こんな文章がありました。「新約聖書は全部で27巻ですが、その冒頭に四つの福音書があり ます。それぞれ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの名が冠せられており、イエスを中心とした物語であるという点で共通しています。しかし、それ特徴には大き な違いがあります。―――それぞれの福音書には独自の語り口や強調点があるので、その特徴を詳細に分析すればさまざまな発見をすることができます。それを 通して得られる豊かなメッセージに出会うことが福音書研究の醍醐味と言えましょう。」(木原桂二「聖書研究 @『立ち帰り』とは何か」より、『世の光』 2018年4月号所収)
 今日の主イエスの復活については、特にこのことが言えます。復活の記事には、それぞれの福音書ごとに、細かいところで、 あるいは結構大きな違いがあるのです。どの福音書でも、最初にイエスの墓に行ったのが女性たちであったことは共通に記しているのですが、その時の様子が少 しずつ違うのです。マルコやルカは、「女性たちは、イエスの体に塗るために香料を買って持って行った」とあるのですが、この「マタイによる福音書」では、 女性たち「マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた」、ただ「墓を見にきた」とだけ語られています。「何かのために」という目的や、墓へと持っ て行った持ち物などを記していないのです。それは、「無為」ということを強調しているように、私には見えます。「無為」、何も持たず、何の目的もなく、と いうことです。彼女たちは、何の目的もなく、何も持たずに、イエスの墓へと行ったのです。

 なぜならば、たとえ香料を持って行ったとして も、全くの無駄となったであろうからです。なぜなら、墓の入口には大きな重たい石がどっかりとそこをふさいでいたからです。この大きな石は、岩と言っても よいくらいでしょうが、それは彼女たちを妨げて、無力と絶望のうちにたたき込む、「さまたげ」の象徴でした。
 それは、まずそもそも「物理的なさ またげ」です。この大きく重たい石が墓の入り口にあるかぎり、そもそもイエス様のそばに近づくことさえできないと、彼女たちには思われたのです。彼女たち には、自分でそれを少しでも動かす力がなかったことはもちろん、彼女たちにはそれを持ち上げ運び去る道具もなければ、それを代わってしてくれる人もいませ んでした。
 しかし、今で言うクレーン車か何かがあればそれで良かったのでしょうか。とんでもありません。仮に彼女たちに石を動かす道具や、助け 手がいたとしても、やはりこの石は決して動かなかったでしょう。なぜならば、この石は「社会的・政治的さまだけ」でもあったからです。そこには、見張りの 番兵がいたのです。それは、前の章に書かれていますが、祭司長、パリサイ人たちが、総督ピラトに頼んで、「イエスは死人の中からよみがえった」などとは決 して言わせないために、わざわざ置かせた番兵たちでした。そこには、「イエスとその教え・影響力を完全にこの社会から葬り去りたい」という強い政治的・社 会的思惑があり、そのためには手段を選ばない人たちが、有無を言わせぬ権力・暴力をもって、彼女たちをさまたげていたのです。仮に石を取り除けたとして も、番兵たちは、墓へ入ることは決して許さなかったに違いありません。
 そして、何よりも、この石は、「決定的さまたげ」を無慈悲にも表わすもの だったのです。それは、まさに「死」そのものです。イエス様は、死んだのです。何を言っても、一昨日のあの日に、十字架に架けられ、両手両足に太い釘を打 ち込まれ、槍で脇腹を刺し貫かれて、間違いなく死なれたのです。もしこの兵士たちを強制的に排除し、また道具や助け手を伴ってこの大石をのけたとしても、 それがいったい何になりましょう。そこには、否定しようもなく乗り超えようもない、「死」の現実が決定的にあるだけではありませんか。彼女たちが思いを込 めてイエスに香油を塗ったとしても、それは腐れ朽ち果てていくだけのイエスの遺体ではありませんか。
 だから、彼女たちは「終わり」にするため に、イエスの墓へ行ったのです。「何もできないけれど、せめてイエス様のお墓を見て、それで悲しみ絶望する心に、無理矢理にでも区切りをつけるために。」 そんな彼女たちの心は、「止まってしまって」いました。「何もできず、目的も持てず、ただ死者を葬った墓を見るだけ、そんな二人の姿が印象的です。心の時 が止まってしまったままで、時間だけが進んでいる、そういうことが私たちにもあるのではないでしょうか。」(『聖書教育』2017年4〜6月号より)

  ところが、そんなふうにして「無為に」墓へと向かった女性たち、何もできない、心も動かない女たちに向かって、神の事柄、イースターの出来事が、激しい動 きと力をもって、「向こう側から」やって来る、起こって来るのです。「すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへこ ろがし、その上にすわったからである。その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真っ白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震え あがって、死人のようになった。」
 天使たちは、彼女たちとイエスとを決定的に隔て、断絶させていると思われていたあの大石をこともなげに脇へ転 がし、「絶対に何人もイエスの墓へは近づかせないし、入れさせない」と暴力をもって武装し、警備し、女たちを徹底的に締め出し押さえつけていた兵士たちの 力を一瞬にして無力化したのです。そして、決定的に彼女たちを「無為」の中へたた込んでいた神が死の力を克服し勝利したとのメッセージを告げ、彼女たちに 希望の使命と命令を与えるのです。「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうこ こにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。―――急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえら れた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。」この言葉を聞いて、あんなにも動かなかった彼女たちの心と体が動き 出すのです。「そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」
 すると、やはり「向こう側 から」、「イエスが行く手に立っていて」、彼女たちに出会ってくださり、語りかけてくださるのです。「恐れることはない。」私たちはこうして毎週日曜日の 朝に、共に礼拝を献げていますが、この礼拝は「主日礼拝」と言います。「主日」とは、「主の日」、「主イエスの復活の日」という意味です。私たち教会は、 毎週復活の主の御言葉を聞くことから一週間の歩みを始めるのです。また、今年度の私たち四日市教会の主題は、「主に聞き、互いに聴き合い、共に見る」で、 その最初は「主に聞く」ことです。私たちは、常に最初に主の復活のメッセージ、復活の主の語りかけの言葉を聞くことから、教会としての共なる歩み、それぞ れの信仰による人生の道を進めて行くことにしたいと、切に願うのです。

 実は、この「マタイによる福音書」の復活の主の第一声は、実は聖 書の翻訳によって、ずいぶん違う訳をそれぞれが選んでいます。新共同訳は「おはよう」です。また別の役では、「喜べ」としているものもあります。これはま たずいぶん違うようですが、解説を見ますと、直訳つまり一番文字通りの意味は「喜べ」だそうです。それは、当時の日常的に人と人とが会ったときの挨拶の言 葉でもありました。そこで意訳をして「恐れることはない」、またこの時が朝だったことから「おはよう」と訳したもののようです。
 今日は、この復活の主の第一声を、それぞれの訳に即して、その意味を深め、私たちへの神の語りかけを、いろいろな角度と豊かさをもって聞き、味わってみたいと思います。
  まず、「おはよう」です。復活の主イエス・キリストは、マリヤたちに、また私たちにも、日々に、また朝ごとに新しく「おはよう」と語りかけてくださる方で す。神の復活の力とは、日常を再び生きる力、苦難と試練を乗り越えて日常を再び力強く生きる力なのです。「おはよう」、そう語って主イエスは、彼女たち、 どうしようもなく無力を感じていた彼女たち、深い暗闇と絶望の中に沈んでいた彼女たちが、日常、毎日の生活を、新しい力をもって新しく生きて行く力だった のです。もはや喜びと希望をもって「おはよう」と言い合えなくなった彼女たちを新しく生かす力です。
 次に、「恐れることはない」です。「恐れる ことはない」、なぜなら復活の力とは神の勝利の力だからです。神がイエス・キリストにおいて死と対決、死を克服し、死に勝利された力だからです。「恐れる ことはない。死は打ち勝たれ、神は勝利された。わたしはここにこうして生きている。あなたの前に、あなたがたと共に生きている。」だからそれはまた、彼女 たちを新しく証と分かち合いの使命へと送り出し、生かす力です。「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、 と告げなさい。」
 そして何より、主の御言葉は「喜べ」です。「やあ、お前たち、喜べ、喜べ、喜べ!」(山浦玄嗣訳)復活の力、それは喜ぶ力、人 と共に喜び合う力、お互いに喜びを分かち合って共に生きる力なのです。イエス・キリストの復活の力、それは弱さの中にいる者に出会い、恐れの中に沈む者に 対して、愛と赦しをもって伴い、いつも喜び合いつつ一緒に生き、歩もうとする力なのです。復活の主は、彼女たちに、ペテロたちイエス様を見捨てて逃げ去っ た「男弟子たち」のことをあえて「兄弟たち」と呼び、彼らにもこの復活を知らせてあげなさいと言われます。「行って兄弟たちに」、このわたしの赦しと新し い招きとをもって彼らを探し出し、出会い、そしてこの復活を伝えてあげなさい、そして共に喜び合いなさいと言われるのです。

 この復活の 主の御言葉、御声は、「向こう側から」来ます。「復活は、向こう側から」なのです。こうして喜んで共に生きること、それは決して彼女たちの判断や選択、心 がけややる気によらないのです。彼女たちは、ここ墓へ来る時、全くの「無為」でした。何もできず、何も持たず、何の目的もなく、その心はただ止まり閉ざさ れていたのです。しかし、そんな彼女たちに、復活の主は「向こう側から」、「おはよう、恐れることはない、喜べ」と語りかけてくださったのです。この主の 御言葉が、ただ御言葉こそが、彼女たちを新しく動かし、立ち上がらせ、使命へと送り出すのです。「復活」は、「立ち上がらせること」だからです。「わたし たちの人生にはいいこと、悪いこと、さまざまあります。生涯、順風満帆だったという人などあるものではありません。何度も何度も予期せぬ災難、不幸、失敗 にみまわれ、失望し、落胆し、悲嘆に暮れ、絶望の中でもがき苦しむ。これが人生というものです。―――人生の主にに疲れはて、生きているのに死んでしまっ たようにぶっ倒れ、息も絶え絶え担っている人を、イエスは立ち上がらせます。―――冷たい雪と真っ黒な泥濘におおわれた見渡す限りの瓦礫の野を前にして、 呆然と立ち尽くすわたしの肩をがっちりとつかんで、イエスは言います。『おい、元気を出せ、この生き死人め。この俺は死んでもまた立ち上がったのだぞ。そ の俺がついているんだ!さあ、涙をふけ。勇気を出して、いっしょにまた立ち上がろう。お前のやるべきことが、そら、見えるだろう!」(山浦玄嗣『イエスの言葉』より)

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたは御子イエスを、死の中から勝利をもって復活させて、福音の言葉を語られました。「恐れることはない、喜べ」と。この語りかけを、週の最初に、第一 のこととして、聞いて行く教会、共に御言葉に聞くことからすべてを始め、行い、生きて行く教会また一人一人として、新しいこの一年もお導きください。
復活にして永遠の命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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