そのとき、神はおられた           マタイによる福音書第27章44〜56節

 
 何度かお話ししているように、「マタイによる福音書」のキーワード、テーマは、「インマヌエル」です。「インマヌエル」、「神我らと共にいます」。この「インマヌエル」は、様々な場面で形や響きを変えて、豊かに繰り返されます。
 ここ、イエス・キリストの十字架でも、その言葉「インマヌエル」は響いています。いや、この十字架においてこそ、「インマヌエル」「神我らと共にいます」ということは貫かれ、高く響き渡り、最後まで全うされているのです。

 十字架の苦しみと恥辱の極み、そのどん底で、イエスは今叫ばれます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」これは、絶望の叫びです。正真正銘の絶望の叫びです。
 どのような時に、人は絶望するのでしょうか。主イエスはどうして絶望なさったのでしょうか。
  そこには、なんと言っても、まず肉体的な苦しみ、ひどい苦痛がありました。前夜から打ち続く不当な裁判と拷問そして暴力。食べ物や飲み物はろくに与えられ なかったでしょう。ひたすらな体力の消耗と体じゅうに刻まれた傷。十字架刑を宣告された者は、自分で十字架の横木を背負って刑場まで歩かねばなりません。 クレネ人シモンが代わりに横木を担がされたのは、イエスご本人の体力の衰えから運び切れず、度々倒れたりしたからではないでしょうか。そしてついに十字架 につけられるのです。ベルトや安全装置があるわけではありません。太い錆付いてざらざらになった釘で、ささくれだった木に、両手両足を貫かれ釘づけられる のです。もうこれを聞いて想像しただけで、気分が悪くなることもあるくらいではないでしょうか。そして十字架刑そのものの肉体的苦しみは、さらにひどいも のであったと言われています。「十字架の死は自分の鎖骨による窒息死だとある本に書いてありました。体重がかかって身体が下にずり落ちてきます。すると鎖 骨が期間を圧迫して呼吸困難に陥ります。そのままだと死んでしまうのですが、本能的に足の傷に体重をかけてつっぱります。そうすると息の方は楽になります が、足の痛さは倍加します。血は流れ出ますが、量はたいしたことはありませんから失血ですぐ死ぬわけではありません。そうして十字架の上で上下運動しなが ら体力を消耗していくのです。血を失いますから喉がかわきます。ついには錯乱し、そうしてもなおうごめき続けるのが十字架刑だそうで、ほうっておけば一週 間から十日、長いのでは二週間も生きた記録があるそうです。」(大江寛人『父よ 彼らをお赦しください』より)人は、強く激しい肉体的痛みと苦しみに耐え られないとき、気力を失くし、ついには絶望的な思いに陥ってしまうのではありませんか。
 それと共にまた、十字架には社会的苦しみ、人間としての 尊厳と名誉が損なわれ奪い取られた苦痛があったのです。「十字架刑は―――ローマ帝国による恐怖政治の一形態と言えるでしょう。―――すなわち、『ローマ の平和』の維持を著しく妨害する、脱走奴隷と反乱分子に適用される刑なのです。恐怖政治の一環として、十字架刑は公開処刑が原則です。―――十字架刑はで きるかぎり人目につくように配慮されました。受刑囚は被征服民への警告として、十字架に高く掲げられたのです。―――十字架刑には底知れぬ苦しみと恥辱が 伴いますが、これらの極刑では遺体が著しい損傷を受けることと、また埋葬を許可されないことが特徴です。―――しばしば受刑囚は地面に近い位置に架けら れ、その死体は猛禽だけでなく野犬にも食い荒らされます。受刑囚はは死後長らく十字架上で晒されることが多く、埋葬許可が下りたとしても、埋葬すべき遺体 はほとんど残らないのです。」(クロッサン/ボーグ『イエス最後の一週間』より)社会的名誉と人間としての尊厳を最後の最後まで奪い取り、辱める刑なので す。そんな目に遭って、絶望しない人などあるでしょうか。
 さらに決定的に、それは信仰的・霊的苦しみでありました。誰も自分を助けてくれる者は いない、さらにこの十字架で「木にかけられて死ぬ」という死に方の中に、イスラエルの伝統的な考えの中では、「神を汚した者」「神に呪われ、神に捨てられ て死ぬ者」という捉え方があり、この考え方の中でイエスは裁きを宣告され、罵られ、軽蔑されて、今や死んでいかねばならないのです。圧倒的な多数者による 一方的決めつけと罵り、その中で人は「自分は孤立無援、神様からさえも見捨てられた」という思いになってしまうことがあるのではありませんか。イエスもま た、いやイエスだからこそ、神をとことん信じ、どこまでも神に従って生きて来られたイエスだからこそ、そのような思いになられたのではないでしょうか。そ して、こう叫ばれたのではないでしょうか。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

 「わが神、どうして」、イ エスに比べることは到底できませんが、私たちも自分の苦しみと痛みの中で、心の中で、あるいは実際に口に出してしまう言葉ではないでしょうか。しかし、こ の苦しみと叫びをも、すでに主イエスが私たちに先立ち、私たちとそれを共にしていてくださるのです。「『神よ、なぜ私を見捨てられるのですか』と もし彼 が叫ばなかったのなら 私は彼のことばを一つとして信じられなかった  それは私自身のことば、もっとも賤しい人間が発することば。  そして彼自身が  これ以上ないほど低いところに身を置き、『なぜ』と叫び 『見捨てられた』と叫ぶ人だったからこそ、他のもっと高いところから発せられたことばを 人は信 じうるのだ。彼その人を信じうるのだ。」(ルドルフ・オットー・ヴィーマー、ゼレ/ショットロフ『ナザレの人イエス』より)すでに、ここに、この叫びの中 に「イエスが私たちと共におられる」のです。

 「『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』、―――イエスはもう一 度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。」「すると見よ」「そのとき」、著しい、驚くべき出来事が次々と起こったと、この「マタイによる福音書」は語り 記しています。「すると見よ」、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖 なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(新共同訳)。これらは、マタイ福音書だ けが記している、特別な出来事の数々です。
 これらの出来事は、いったい何を意味し、何を語っているのでしょうか。「そのとき、神はおられた」と 語っているのです。「そのとき」、イエスが絶望の叫びを上げて、どん底まで下って死なれた「そのとき」、そこに神がおられ、神が語り、神が働き、神が御業 をなさっていたのだと、語っているのです。
 それは、あのイエスの叫びに対する、父なる神の紛れもない応答なのです。「わが神、わが神、どうして わたしをお見捨てになったのですか。」「いや、わたしは決してあなたを見捨ててはいないよ。今ここで、わたしはあなたと共にいる。そしてあなたのその生と 死は、神の業を成し遂げるのだ。」神殿の垂れ幕、それは神と人との間を最終的・究極的に隔て閉ざすものでした。それが今や破れ、真っ二つに裂けるのです。 それは、このイエス・キリストにおいて、神は人と共に、神は我らと共にいてくださる、徹底的にどこまでも共にいてくださるということが成し遂げられ、実現 したことのしるしです。また、イエスの死を境として、多くの人々が復活したということは、私たちの誰も避けることも逃げることもできない「死」ということ が、イエス・キリストの生涯と死を通して、神によって克服され乗り越えられ打ち勝たれたということの紛れもまないしるしなのです。「今ここで、わたしはあ なたがたと共にいる」、「そのとき、神はおられた」のです。「そのとき」、「インマヌエル」の言葉が響き渡り、全うされているのです。

  私たちは、このお方、イエス・キリストによって呼びかけられ、招かれ、引き受けられ、担われ、愛されています。それが「贖われ、救われる」ということで す。イエス・キリスト、このお方の別名は「インマヌエル」「神我らと共にいます」です。イエスによって、「神我らと共にいます」ということは、決定的にま た徹底的に語られ、実現され、与えられたのです。
 私たちは、自分の苦しみ、痛みのただ中にも、「そのとき」いえ「このとき、神が共におられる」ということを、復活の主イエスから聞かせていただき、そのイエスの言葉によって慰められ、力づけられ、生かされて、生きるのです。
  また、イエス・キリストによって、「神、我らと共に、います」のです。神は「我らと共に」、私たちのただ中に、私たち同士の間に、神が共におられる。この 恵みの現実を私たちは知らされ与えられて、私たちも互いに共にあり、苦しみ、痛み、弱さをも分かち合って、共に生きようと、招かれ、導かれるのです。私た ちも「共に」歩み、「共に」生きるのです。
 「べてるの家」で精神障害者の人たちと共に歩まされてきたケースワーカーの向谷地生良さんは、「べて るの家」と共に歩んできた浦河教会のことを引き合いに出して語られます。「精神障害をもちながら地域で暮らす人たちの困難な現実を共に担おうとする全国の 諸教会の現場からは、生々しい苦労が寄せられてきます。―――ここで大切にしたいことが―――あります。―――私自身が答えや知恵を持っていて、教会のか かえる問題に処方箋を書くという図式ではなく、浦河教会がそうであったように、その困難の渦中にある教会のただ中にもちゃんと道が備えられ、弱っている教 会の中にも神様が知恵と力を与えてくださるという信じ方です。私たちがかかえにくいと感じている困難そのものが、恵みであったり、大切な意味をはらんでい ることもある、ということでもあります。」「浦河の教会が、精神障害をもつ人たちのたまり場となり、古い会堂が住居として活用されるようになった時、教会 には多くの当事者が集うようになりました。ひとり言をブツブツという人、礼拝中に落ち着きなくうろうろ歩き回る人、ひっきりなしにたばこを吸いに席を立つ 人、突然、質問を始める人など、礼拝の様子は一変しました。―――静けさとはほど遠い苦労の多い現実でしたが、それは『地域で一番悩んでいる人たちの悩み を、共に悩む教会』となったことを受け止めて、むしろ教会の本当の姿であると感謝することを通して成長させられてきました。」「三十人ほどの礼拝出席者の 多くが何らかの障害をもち、べてるの活動に参加している浦河教会の礼拝では、その日の聖書箇所を読み合ったあとに、『聖書から学んだこと』と『一週間の苦 労と恵み』を一人ひとり短く証しします。まさしく、各々のかかえている弱さと恵みが、礼拝の場の中心に置かれ、一つとされるのです。このような『分かち合 い礼拝』によって、一人ひとりの弱さと苦労がみなに覚えられ、互いに日々と祈り合うことによって培われる場があります。―――一人ひとりの苦労と弱さが見 えやすいかたちで共有され、それが場のつながりを生み、ここの生きる力を下支えしているのです。そのことによって私は、『互いに愛し合いなさい。わたしが あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』という御言葉を身近に感じるようになりました。礼拝という場に恐れることなく自分の弱さを ゆだねる時に、その弱さを通して、神様の言葉が私たちの心にしみこんできます。」(向谷地生良『精神障害と教会』より)
 「そのとき」、語られ与えられる神の言葉は、これです。「神我らと共にいます」、どこまでも、今ここで「神我らと共にいます」。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスはこの世の悪のゆえに十字架につけられ、私たちの罪のために死なれました。そのときイエスは絶望の叫びを発せられましたが、そのイエスとあなたは 常に共におられ、このイエスをあなた死の中から復活させられてインマヌエルの御言葉を語られました。「神我らと共にいます」。私たち信仰者一人ひとりと教 会は、この言葉の証人であり、語り部です。どうかこの言葉を、私たちが自分自身の感謝と喜びそして希望をもって、さらに語り行くことができますよう助け、 導き、お用いください。
まことの道、真理また命なる世の救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

戻る