「わたしと一緒に」                マタイによる福音書第26章36〜46節

 
 「一緒に」「共に」は、マタイ福音書のキーワードです。マタイの福音書は、「共に」で始まって、「共に」で終わります。まず初め、イエス・キリストの誕生について、天使は父ヨセフに語りました。「マリヤから生まれて来るその子の別名は『インマヌエル』、『神我らと共にいます』と呼ばれる。」また最後、復活の主イエスは弟子たちを集めて大宣教命令を与えつつ、こう約束されました。「見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいるのである。」「共に」で始まって、「共に」で終わる。その意味において、私たちの福音の中心メッセージの不可欠の一つはこれです。「イエス・キリストは、私たちと常に、また確かに共にいてくださる。」
 そういう中にあって、今日の箇所は、あっと驚くような事柄を伝えています。

 「最後の晩餐」の後、主イエスはゲッセマネと呼ばれる場所へ行き、その奥へと進んで行こうとして、彼らに語られました。その時のことが、このように語られています。「イエスは彼らと一緒に、ゲッセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、『わたしが向こうへ行っている間、ここにすわっていなさい』。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩み始められた。その時、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』。」
 「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」、それは主イエスの、弟子たちに対する求めであり、さらに言えば「依頼」です。「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」、「あなたがたは、わたしと一緒に目を覚ましていてほしい」。この時イエスは、深く強く激しい悲しみと悩みのただ中、どん底にあられました。その中にあって、主は彼らに強く求めておられるのです。「わたしと一緒に目をさましていて、共に祈っていてくれ」と。
 皆さん、ここにはイエス・キリストの福音「インマヌエル」の、驚くべき広がりと深みがあるのです。
 「イエスが私たちと共に」ということの中には、「イエスが私たちと共にいてくださる」ということと共に、それと並んで、「イエスの方が、私たちに向かって、一緒にいてほしい、一緒に祈ってほしい、一緒に歩み、一緒に生きてほしい」と願い、求めておられるということがあるのです。主イエスと私たちとの関係は、ただ一方的なものでありません。イエスの方が私たちと一緒にいてくださると共に、私たちの方もイエスから「わたしと一緒にあり、一緒に祈ってほしい」と求められ、願われ、呼びかけられることもある、そういう関係であり、関わりなのです。
 「『わたしと一緒に目をさましていなさい』。イエスさまは、弟子たちまた私たちに、『一緒に』と求められます。『いつもあなたがたと共にいる』と言われるイエスさまと『共にいる』ことは、イエスさまの祈り・苦しみをも共にするように、呼ばれ、招かれることでもあるのですね。」(『世の光』より)

 「ゲッセマネの祈り」、ここでの主イエスの祈りは、ある意味で、イエスしかできない祈りです。それは、神から離れ、神から外れ、神に背いたこの世のための祈りです。そのような世と私たちのために執り成し、そのために御自身の身を投げ出し、自らを捧げ尽くす祈りです。世の罪と悪、その苦しみと呪いとをことごとく自分自身が引き受け、担い、背負って行こうとする祈りです。それはまさに、世の救い主イエス・キリストしか祈れない祈りであり、語れない言葉であり、イエスしか歩めない十字架の道なのです。
 しかし、この祈りの時主イエスは、御自身を信じ御自身に従おうとする者たちに向かって、「わたしと一緒にいてくれ」「わたしと一緒に目をさまし、共に目覚め、共に祈っていてほしい」と願い、求められたのでした。イエスは、そこまで本当に、またとことん私たちと共にあり、共に生きよう、共に生きたいと願っておられるのです。
 私たちは今日、何より、このようにして私たちにも呼びかけ、求めておられる主イエスのお声があることを知りたいと思います。そして、主イエスと私たちとの関係が、そのような、ただ一方的・機械的なものではない、広がりと深みと、そしてよりいっそうの親密さがある、そういう関わりなのであることを、深く心に留めたいと願います。

 では、「イエス・キリストと共に祈りを共にする」とは、いったいどのようなことなのでしょうか、またそのとき私たちは何を祈り、どのように生きればよいのでしょうか。
 主イエスがその初めから宣べ伝え、そのために働かれたのは、「神の国」でした。「神の国は近づいた」、それがイエスのメッセージでした。「神の国はあなたがたのただ中にある」、それを示すために、イエスは語り、いやし、行動し、歩んで来られました。「神の国は来る」、だからこそそれに逆らうこの世において、今ここからイエスは苦難と十字架の道を選び取り、歩み行かねばなりません。
 ならば、今イエスが弟子たちに、また私たちに求め、願っておられることは、「神の国」のために一瞬でも目覚め、そのために一言でも祈り、その到来と実現のために一歩でも踏み出すことではないでしょうか。

 お隣の韓国では、つい30年くらい前まで軍事独裁政権が支配し、人々の人権を抑圧し、それによって多くの人々が苦しみ、傷ついていました。その時心ある人たちがそれを告発し、抵抗し、また社会を変えようと努力しました。その中に、金芝河というカトリック教徒の詩人がいます。彼は獄に捕らえられますが、世界中からの救援運動の甲斐あって、1974年に釈放されます。その時の気持ちは、彼はこう詩で語っているそうです。「いま私は獄門を出てきた―――おれはどこに魂を置きわすれ、このさびれた真夜中の街を、風に吹かれてさまよっているのだろう。まだつながれたままの多くの友ら。はらわたが押しだされ、ちぎれるほどの拷問を受け、執念のまなこを見開いたまま、あの暗がりの中にうずくまり、あえいでいるはずの彼。胸襟を開き、熱い抱擁を交わした、心の友、強盗と人殺したち。別れぎわに声をあげて泣いた、ベトナム良民の虐殺犯。おれはすなわち彼らであった。彼らはすなわちおれであった。おれは自らの魂を刑務所に置いたまま出てきたのだ。おれの魂が泣き叫んでいる。おれの魂が再会を求めて叫んでいる。」(加藤潔『イエスを探す旅』より)
 そのような気持ちまた生き方は、イエスがまさにそうであったというのです。「イエスの時代は、ユダヤの国の滅びるに至る直前にありました。ローマ帝国とヘロデ政権の搾取、収奪、弾圧の中で、民衆は食べるものもなく、飢えて死んでいきました。そのような中で、イエスは、『エルサレムに行って、捕らえられ、人々に捨てられ、殺される』と、いつもいつも、語っていたのです。そのようなイエスは孤独でありました。弟子はイエスの心を理解しません。」(同上)そうした人格・生き方について、ある人はこう語っているそうです。「これは預言者の姿である。彼は石をもって打たれる。預言者は激しい孤独と寂寥を体験する。彼は周囲から迫害される。しかし、彼はつねに民族と社会の運命に、歴史に、それらの未来と世界の未来に関心を抱いている。―――このような生き方の果てにあるものは死である。」(同上、ベルジャーエフによる)「私たちは孤独を避けて、時には社会との関わりを求めます。評価もされたいし、声をかけてほしいし、心の一致を味わいたいと思います。でも、再び孤独を味わう時があり、人々に背を向けたくなる時があり、孤独と交わりの間を行きつ戻りつしながら生きています。それが人間なのです。―――しかし、イエスの場合は、少し違っていたのではないか。イエスは孤独でありつつ、しかし、世界の未来、人類の未来を自らの責任として捉えようとしていたのではないか。貧しい人々がいる。仕事を奪われ、畑を取りあげられ、家を失い、難民となり、もはや死ぬしかないという姿の人々が、イエスのまわりに集まっていました。」(同上)そういう中で、イエス・キリストは、そうした世の罪と悪を引き受け担い、神の国を来たらせるために祈り、歩み出し、十字架を背負って行こうとする。それはイエスにとっても、非常に重くまた苦しく、またつらさと悲しみを伴うことでありました。だから主はこう祈られたのです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころままになさってください。」
 「このわたしと一緒にいてほしい。このわたしと一緒に祈ってほしい。このわたしと一緒に生き、歩んでほしい。」幾分かでもこの心を受け止め、少しでもそれについて深く感じ、一時でも一言でもそのために祈ってほしい、そうイエスは求め、願われるのではないでしょうか。

 しかし、私たちの現実はどうでしょうか。それはまさに、この弟子たちの姿に表されています。「それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、『あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか』。」「またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。」イエスの思いを全く理解せず、共感も連帯もせず、眠っている。ひたすら欲望と誘惑に負けて、眠り込み、眠りこけている。この私たちの姿とあり方こそが、まさにこの世の罪の姿と有様とを表してしまっているのです。
 けれども、イエスはその彼に向かって、またこの私たちにも向かって、こう語られます。「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。」
 主は、「立て、さあ行こう」と呼びかけられたのです。「さあ、そんなあなたがたとはもうおさらばだ。ここで、きっぱりと別れよう」と言われたのではなかったのです。「さて、さあ行こう。わたしと一緒にまた行こう、さらに行こう、もう少し行こう」と呼びかけ、立ち上がらせ、連れて行こうとしてくださったのです。イエスは、このような私たちをも引き受け、担い、導いて行こうとなさるのです。「この決定的な夜に、弟子たちはすぐそばで眠りこけています。何というコントラスト、何という皮肉な光景でしょう。この光景は私たちの現実を象徴しているようです。しかし反対に言えば、私たちが何も知らないで眠りこけている瞬間にも、イエス・キリストはすでに私たちを根源的に支えることを決意し、しかも始めておられることを心に留めたいと思います。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう 3』より)「私だったら怒り心頭に発し、『お前ら何してるんや、もう許さんぞ。僕は、お前らといっしょに歩まへん』と叫んで、その人たちを捨て、サッサと一人で行ってしまったであろう。しかし、キリストはこのしょうがない弟子たちすら捨てられず、『立て、さあ行こう』と言われたのである。この言葉を発せられた時、キリストは孤独で寂しく悲しみをかみしめめておいでになったであろう。生命の重さや、それをかつくシンドさ感じあえいでおいでになったであろう。それでもキリストは、『お前たちは、私がたえられない思いで祈っている時、共に祈らず、知らない顔をして自分本位に行動していた。でも私は、そのお前たちを捨てないよ。どんな時でも共に歩むよ』と言ってくださったのである。―――『立て、さあ行こう』この言葉は、私にとって大きな励ましである。弱り果てて、トボトボ歩いている時も、悪口を言われ、一人でわびしく悩んでいる時も、孤独にさいなまれ、たまらない思いにさせられている時も、キリストは必ず側にいてくださる。このことを思う時、激しい勇気と燃焼が与えられ、立ち上がる気力がもたらされるのである。」(福井達雨『子どもの笑顔を消さないで』より)
 イエスはいつも私たちと一緒に生きてくださいます。「わたしと一緒に生きよう、立て、さあ行こう」と呼びかけてくださいます。ならば私たちも、イエス・キリストと共に生き、祈り、働き、歩んでまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
 イエス・キリストは、私たちのために、世の罪を引受け、担い、歩み行くために、ゲッセマネの祈りをなさいました。それは主イエスしかできない祈りでありましたが、同時に主は弟子たちに「わたしと一緒に」と願い求められました。
 ただ深い恵みと憐れみによって、私たちとも共に歩み、私たちにも「わたしと一緒に」と主が呼びかけてくださいますから、私たちもまことに弱く不真実な者でありますが、この主の真実のゆえに、信仰をもって従い、歩み行くことができますよう助け、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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