痛みと喜びの食事から                マタイによる福音書第26章20〜30節

 
  今日の箇所、今日の出来事は、イエス・キリストの「爆弾発言」から始まります。「最後の晩餐」となる過越の祭の食事の席でのことです。「特にあなたがたに 言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている。」「あなたがたのひとりが、わたしを裏切ろうとしている。」しかも、それは「わ たしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている」ということなのです。主イエスが自ら選んだ者たちの中に、イエスと文字通り寝食を 共にし志と働きを同じくし、苦労も喜びも同じくしてきた者たちの中に、「裏切る者」がいる。それどころか、最も親しい交わり、信頼と親愛に基づいて行われ るはずの食卓の交わりのただ中に、「同じ鉢に手を入れている者」の中に、「裏切る者」がいるというのです。
 皆さん、これがイエス・キリストがお 持ちになる食事の交わりなのです。イエス・キリストが形作り、主イエスを中心として囲まれ、イエスによって主催され導かれるその交わりとは、このようなも のなのです。イエス・キリストの食卓、イエス・キリストの交わりとは、「気の合う、気のいい仲間たちの集まり」ではないのです。「イエス・キリストは、敵 のただ中で生活された。最後には、弟子たちも皆、イエスを棄てて逃げてしまった。十字架の上で、彼は悪人や嘲笑者に取り囲まれて全くひとりであられた。彼 は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も―――敵のただ中にあって生活するのである。」(ボンヘッファー)イエス・キリ ストが作り、集められる交わりとは、そのただ中に敵がおり、裏切る者がいるような交わりなのです。たとえ、時にはそこまでは行かなくても、その中に不真実 な罪人、臆病な罪人、優柔不断な罪人がそこかしこにいるような集まりなのです。

 その中には、「裏切った弟子」として有名なユダ、まさに ここで名指されているイスカリオテのユダがいました。しかし主イエスは、このユダをも、このご自身の交わりのただ中へと引き入れ、この食卓へと招き入れ、 ご自身このユダをも引き受け、受け入れて、共に食べ、共に生きようとされているのです。「主イエスは、『人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方 が、その人のためによかった』と言われました。―――しかし、この予言のようなイエスの言葉は、大きな嘆きであって、決して呪いではないと思います。私 は、『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』という死主イエスの十字架上の祈りから、ユダが洩れると考えることはできませ ん。―――私は、主イエスはこのユダのためにも、いやこうしたユダのような人間のためにこそ、両手を広げて十字架にかかって死なれたと信じています。 ―――私はこの主イエスのなさった、桁違いの圧倒的な恵みの御業を深く心に留める時に、身震いする思いがいたします。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう  3』より)
 だから、それは痛みを伴う食事なのです。「一緒に食卓に手を置いて、パンを取り、あるいは羊の肉を取る、その手は喜びの手です。そ の喜びの手の中に裏切りの手があるのです。その手は痛いのです。―――しかも弟子たちは、そんなことをするのは一体誰かと言い始めて、あげくの果てには誰 がこの中で一番偉いかという論争まで始めるのです。ここで非常に明らかなことは、この食卓に置かれている手の中に、裏切りの手があるというその裏切りは、 単にユダの手を指しているのではなくて、そこに手を置いている一人一人の手が実はその痛みを、その裏切りという陰を負っている手だということ」なのです。 (岸本羊一『葬りを越えて』より)

 イエスはこの痛みを真っ向から引き受けつつ、そしてそこにいるユダをも含む弟子たちすべてに向かっ て、ご自分を与えながら言われます。「取って食べよ。これはわたしのからだである。」「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多 くの人のために流すわたしの契約の血である。」とてもグロテスクな想像ですが、本当に弟子たちがイエス様の手や足を切り取ってむしゃむしゃ食べているとこ ろを考えてみていただきたいと思います。それは、イエス様にとって、まさに「痛み」以外の何ものでもないでしょう。でもそれは、決して単なる想像やたとえ ではないのです。イエスは、実際に、本当に、この弟子たちをとことん最後まで愛されたがゆえにこそ、また弟子たちだけでなくすべての人を、どんな人をもと ことん最後まで愛されたがゆえにこそ、今ここから十字架の道、痛みと苦しみに満ちた道、呪いと絶望へと至る道を、あえて自ら選び、それを最後まで歩み行か れるのです。

 しかしまた同時に、全く同時に、この食事、「最後の晩餐」の食卓は、喜びの食卓、喜びの交わりでありました。なぜなら、そ れは最初から最後まで「過越の祝いの食事」であったからです。「過越の祭」、その中でクライマックスとして行われる「過越の食事」は、旧約聖書の時代か ら、「イスラエルの出エジプト」を記念し、それにちなんで、それを祝うための食事でした。エジプトの国の奴隷の苦しみを強いられていたイスラエルの人びと を、主なる神が恵みと力とをもって解放し、導き出し、「神の民」として救い、選び、立ててくださったことを思い出し、喜び、祝う出来事であり、食事であっ たのです。イエスまたこのイスラエルの民の一人として、この食事を、弟子たちと、掛け値なしに大きな喜びをもって共にし、喜び祝うのです。
 それ は、当然、そのようにしてイスラエルの歴史の中で、過去になされた神の救いと解放の業をも覚え、喜ぶものです。しかしまた同時に、主イエスの眼差しは、神 による未来、神が新しく創り開き与えてくださる将来へも向けられていました。「あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むそ の日までは」。「父の国、神の国で、あなたがたと共に新しく飲むその日」、その時を、イエス・キリストは確信し、待望しておられるのです。
 それ は、喜びの日、共に生きる幸いの日です。すべての人が神の前で共に、どんな人とも共に、「敵」「裏切る者」「罪人」と呼ばれるような人も全く追い出され ず、切り捨てられずに共に、喜びと幸いをもって、お互いの間でも共に食べ、共に生き、共に歩む、そういう交わり、そういう関わり、そういう生き方と場が、 神によって創られ、開かれ、与えられる、その日その時を、イエス・キリストは待望し、目指し、それに向かって今ここから歩いて行こうとされるのです。イエ スの生涯、イエス・キリストの十字架と復活は、さまさにそのためのものでした。今までそのように歩まれて来たイエスの生涯、今これから十字架で割かれ流さ れようとするイエスの体と血、それはまさにこの神の国を来たらせ、神の国の共なる食事を実現し、作り上げ、完成させるためのものなのです。

  イエス・キリストは、この「最後の晩餐」をその道の始まりとして過ごされました。そこから私たち教会もまた、あの「最後の晩餐」を思いつつ、「主の晩餐」 をずっと、欠かさず、毎月持ち続けるのです。それは、イエスが始められた交わりです。イエスが集められた集まりです。イエスが常に中心に立って支え、導 き、完成してくださる人々が生きる場なのです。それが、「キリストのからだ」、教会なのです。それは、あのイエスの「痛みと喜びの食事から」始められ、い つまでも、どこまでもそれを中心として成り立ち、営まれ、導かれて行く集まり、交わり、そして共に生きる場、共に歩む道なのです。
 だから、私た ちの教会にはいつも「痛み」が起こります。自分たちが慣れ親しんだやり方、生き方ではないことが起こります。そういうことをもたらす人が、必ず教会にやっ て来て、私たちに問いかけを発し、時に抗議の声を挙げ、私たちに変革を迫ります。いつまでも「自分が、自分たちが心地よい関係、快適な雰囲気、気持ちのよ いやり方」の中にとどまっているわけにはいきません。私たちは、神が送られる意外な隣人たちによって、神御自身によって、そういう中からいつも「出エジプ ト」のようにして導き出されるのです。

 そしてこの道は同時に、全く同時に、「喜びの食事」「喜びの交わり」「喜びの道」です。なぜな ら、それは主イエスが中心にしてくださる食卓であり、イエスが創り与えてくださる交わりであり、イエスが常に共に歩んでくだる道だからです。それは、神に よる救いの業であり、解放の出来事であり、喜びと希望の生き方だからです。「わたしの父の国で、共に新しく飲む」その日を目指しているからです。

  日本基督教団で初めて、自分が同性愛者であることを公表して牧師となられた平良愛香先生、そのお母様の生き方が、この道を指し示しています。「このように 母はすごく自由で、自分たちを縛るさまざまな要因に対して、『おかしい』と気づける人でした。今でも辺野古の米軍基地問題などに積極的に関わっていて、つ い先日も衝突した機動隊に突き倒されて入院していました。―――母が米軍基地の前でプラカードを持って反対運動をするときなど、彼女の性格が遺憾なく発揮 されます。『米軍は沖縄から出て行け』という主張をしている人たちの中で、彼女は米兵に向かって満面の笑顔で、グッと親指を立ててこう言うんです。 『Join US!(仲間になろうよ!)』辺野古での基地建設阻止行動のときも、座り込む市民を排除しようとしている警察や機動隊に話しかけます。『あなたもこんな仕 事をするのは本当はつらいでしょう。上手にサボるのよ』その言葉に涙ぐむ機動隊員もいるそうです。僕が同性愛者であるとき―――実はさすがの母も最初は ショックを受けたようでしたが、すぐに僕を応援するようになってくれて『私の自慢の息子はゲイです』と書いたTシャツを来て出かけるようになりました。」 (平良愛香『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』より)
 障碍を持つ人たちや、ホームレスの人たちなどを積極的に迎 え入れて教会形成をしておられる日本基督教団桜本教会の証を知りました。「教会では、支援するものとされるものとの上下関係はない。お互いが助け合う所と して『居場所』の役割を果たしている。―――お互いが自然と助け合うものとなり、教会は仲間づくりの場所、憩いの場となる。―――もちろん、時には注意を しなければならない状況も出てくる。きれい事ではすまないこともある。けんかもあるし、酔っぱらいもいる。―――何回まで許すという決まりはない。どんな 失敗を重ねる人たちにも、チャンスはある。教会は何度でも許すことが原則である。―――教会では誰もが主役である。一人ひとりに役割があり、それがお互い を認め合う社会となっている。多くの障害者がいるが、彼らは支援を受ける人たちではない。支援をする側にもなる。礼拝では、当日の当番となって、献金箱を 持って会衆を回り、短く祈る。できないものとして役割から外すことはしない。何年にもわたるその行動は、落ち着いて堂々としたものとなっていく。―――大 切にされるとは、人にやってもらうことではない。一緒に行動すること、みんなの仲間として活動することなのだ。ホームレスも同じである。朝早くから教会に 来て米研ぎや野菜切り、食器並べ、衣類整理など、たくさんの役割をみんなで行う。受ける人ではなく、与える人になる。―――そこは誰もが主役となる世界で ある。」(鈴木文治『インクルーシブ神学への道』より)
 「わたしの父の国であなたがたと新しく飲むその日まで」、その道はこの主と共なる「痛みと喜びの食事から」、今日も始まって行くのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  イエス・キリストは、その十字架につけられる前夜弟子たちと最後の晩餐を持たれました。それは「裏切る者」をあえて招き入れた「痛みの食事」でありました が、全く同時に神の解放と救いを思い出しまた待望する「喜びの食卓」でもありました。その喜びと希望のゆえにこそ、主イエスは御自身の体と肉をささげつ つ、「取って食べよ、この杯から飲め」と語りかけ、招いてくださいました。弟子たちと共に、私たちすべての者、本当にすべてのどの人も招かれています。
 どうか私たち一人ひとりまたその教会が、一つでも、このイエスの招きを証しし、イエスによって来るべき神の国の交わり、その喜びと幸いを指し示すものとされることができますよう、常に助け、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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