神の家として開き、建てる                マタイによる福音書第21章10〜17節

 
  イエス・キリストは、ご自分にとって最後となる過越の祭りが始まる直前に、エルサレムに入城されました。イスラエルの人々は、年に三度の大きな祭があり、 その最大のものが過越祭です。この時には、多くの人々が都エルサレムの神殿に詣でたのでした。イエスも、イスラエルの民の一人として何度かエルサレムに 上ったようです。その最後のエルサレム行きで、イエスは象徴的な行動を取られました。それは、「ろばの子に乗ってエルサレムに入る」というものでした。こ れは、旧約聖書の中に、神によるメシア・救い主がエルサレムに来るという言葉と共に記されているもので、イエスはご自分がメシアであることを公に示しつ つ、このようにしてエルサレムに来られたのでした。

 イエスはエルサレムに到着して、すぐに神殿に入られ、驚くべき言動を取られたと記さ れています。それが今日の「宮清め」と呼ばれている箇所です。12「それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い 出し、また両替人の台や、鳩を売る者の腰掛をくつがえされた。」それは、今の私たちの時代で言うなら、こういうことだったというのです。「今朝、若い一人 の男が突然私たちの教会の中に走り込んできて、讃美歌の本をあちこちに放り投げ、パンを載せてある主の晩餐式用の皿を床に投げつけ、それからさらに教会の 事務室に行って、教会税の支払い用紙(私たちで言うなら献金袋でしょうか)をめちゃくちゃにしてしまうというような、そういう出来事に似たものであったこ とでありましょう。」(E.シュヴァイツァー『神は言葉のなかへ』より)それは、私たちの目には、あまりにも「乱暴」また「過激」と映るのではないでしょ うか。
 なぜならば、イエスが倒し、壊し、めちゃくちゃにしてしまったのは、当時の宗教・礼拝にとって、「必要なもの」「なくてならぬもの」と思 われていたものであったからです。ここでイエスが批判しておられる事柄や行為は、実は十分に「意味があり、必要性も正しさもある」ものなのです。神殿の境 内で鳩などの動物を売るということ、それは「まともなこと」だったのです。それは、神様にささげる「ささげもの」のために売るのです。当時の「ささげも の」は家畜の「現物」がまだ多くありました。ずいぶん遠くから礼拝に来る人もいます。そういう人々にとって、自宅からずっと「ささげもの」にする家畜を引 いて連れてくるのは大変なことです。動物が家を出るとき元気でも、途中で病気になるかもしれません。そうなったら、ささげ物にはできませんでした。そうい うことを考えますと、この神殿の中で、ちゃんとした動物を売ってくれるというのは、実に「助かる」ことだったのです。また中には、お金でささげる人もいま したが、そのときにも「両替」はどうしても必要でした。当時一般に流通していたお金は「ローマ貨幣」でしたが、これは「異邦人の皇帝のお金」ということ で、それを神様へのささげものにするのは「どうか」ということになりました。それで、それを「清いユダヤ貨幣」に替えることも「意味と必要がある」もの だったのです。
 イエスは、『正しい』『当然だ』とされていたことに対して問いかけ、抗議し、反対されたのです。それと同じようなこと、これは私たちの中にも、一人一人の生活の中にもまた教会の中にも、そして社会の中にもそれはそれはいっぱいあります。

  こうしてイエスは、その時神殿にいたほとんどすべての人々を追い出されましたが、他方で、別の人々を迎え入れられました。「追い出すだけでなく、迎え入れ た」のです。ここに、この「マタイによる福音書」独自の記述があります。14「そのとき宮の庭で、盲人や歩くことのできない人たちがみもとにきたので、彼 らをおいやしになった。」またこのことも含めて、イエスがこうして宮に入って来られたことを、子どもたちが喜んで神への讃美を歌ったことが記されていま す。15〜16節 病気の人や障碍を持った人を、イエスは逆に迎え入れられた、そして子どもたちの讃美の歌声をイエスが喜び、受け入れられた、これがマタ イだけの特徴です。
 そもそも、このイエスの抗議行動の理由・根拠は、どこにあったのでしょうか。それは、ここでイエスが語られた言葉の中にあり ます。「『わたしの家は、祈の家ととなえられるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」このイエスの言葉は、旧 約聖書の二箇所の言葉に基づいていると言われます。それは、前半がイザヤ書56章、後半がエレミヤ書7章です。
 イザヤ書では、「わが家はすべて 民の祈の家ととなえられる」と言われています。それは、どういう意味で「すべての民」なのでしょうか。その前の所にこうあります。「主に連なっている異邦 人は言ってはならない、『主は必ずわたしをその民から分かたれる』と。宦官もまた言ってはならない、『見よ、わたしは枯れ木だ』と。」「異邦人」とは、 「外国人」のことです。「宦官」とは、権力によって無理やり「障害者」にさせられた人のことです。
 また、エレミヤ書ではこう言われています。 「あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ――』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。――わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなた がたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。」なぜでしょうか。こうあります。「もしあなたがたが、まことに、その道と行い を改めて、互に公正を行い、寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく」などと言われています。
  この二つの箇所に出て来る一連の人々は、皆「社会的弱者」であり少数者であり、苦しめられ差別され排除されている人たちです。そういう人たちにも開かれる ことなくしては、「すべての国民の祈の家」であるとは言えない、そして現状はそうなってはいないということを、主イエスは行動と言葉をもってお示しになっ たのではないでしょうか。事実、当時の神殿には、具体的に礼拝する人々を区分けするための仕切りがあちらこちらにありました。「ここから先は外国人は入れ ない。ここからは男だけ、ここから先は祭司だけ。」そして、そもそもサムエル記下5章によれば「目や足の不自由な者は、宮に入ってはならない」と言われて いたのでした。
 イエス・キリストは、排除されていたそのような人々をあえて一番に迎え入れることによって、本当にすべての人をも招きつつ、神の 業を行われるのです。また学者や祭司ではなく、軽んじられていた「子どもたち」の口に讃美の歌を与えられた神を喜び、その歌声を受け入れることによって、 神の御心と御業がどこへ、どんな人たちへ向かっているのかを明らかにされたのです。「この『宮清め』の記事は、どの福音書にもありますが、マタイでは特に 『目の見えない人や足の不自由なひとたち』『子どもたち』が登場します。イエスさまの『宮清め』は、このような人たちを『神の家』に招き入れます。『祈り の家』とは、このような人に開かれており、『祈り』とはこのことの実現をも祈るものではないでしょうか。」(加藤)

 そのようにして、主 イエスは、神の家を新しく開き、建ててくださるのです。それが、メシア・救い主としてのイエスの業・働きなのです。「すべての民の祈の家」、このことは、 これまでのイエス様の宣教活動の中で繰り返し語ってこられたことでした。「神の国」は、神の愛と平和の中で、すべての人が正しく喜んで幸いに生きることの できるものだ。それを今主は、イスラエルの信仰の中心であるここ神殿で決定的に語り、示されたのです。だから、その神を礼拝する神殿は「すべて民の祈の 家」でなければならない。このイエス様の行動が、「十字架の道」を決定づけました。マルコによる福音書には、「祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どう かしてイエスを殺そうと計った」とあります。
 イエスが、そのとき行い、そして復活の主として今も行い続けておられること、それは「建て直す」と いうことです。「すべての民の祈りの家ではない」、「だから、わたしが建て直す」ということではないでしょうか。ヨハネの福音書を見ますと、この宮での行 動を批判されて、イエスはこう答えられたのでした。「この神殿を壊したら、わたしは三日のうちに、それを起こすであろう。」これは、イエスの復活をさして 言われた言葉だと記されています。イエスの復活、それは私たち人間の罪や不信仰や頑なさによって、外れ曲がり別のものとなってしまった「すべての人の祈の 家を全く新しく建て直す」という神の御業であったのです。
 この御業は、いったいどこに、だれに起こるのでしょうか。それは、なんとこの私たちに です。パウロは語っています。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」復活の主は、私たち自身を、また私 たちの教会を、さらに私たちのこの社会を、「すべての民の祈の家」として建て直し、全く新しく建ててくださるのです。それは、すべての人、どんな人とも共 に神様に祈り、共に生きていくことができるようにされていくということです。

 「神の家を開き、建て直す」という働きは、私たち教会やその信仰者にとっても、大きな冒険です。それは、イエスが生きられたように、時には、今まで「正しい」「良い」とされてきたことを「踏み越える」ことが起こるからです。
  中米エルサルバドルのカトリック教会の司教であった、オスカル・ロメロのことが紹介されています。「彼は1977年2月、首都サンサルバドル司教区の大司 教に任命されました。最初は、どちらかと言うと、というよりも、かなり保守的な司祭でした。―――しかし彼は、そこで日常的に行われている人権侵害、暗 殺、虐殺に向き合う中で、次第にそれらと戦う決意を固めて行くのです。そして最後は、1980年3月24日、ディヴィネ・プロビデンス(神の摂理)病院付 属礼拝堂で、ミサを挙げ、聖体奉献をしようとしている時に、銃で撃たれて暗殺されました。」「ロメロ司教は語ります。『私たちはヴァイオレンスを勧めたこ とはありません。キリストを十字架に釘付けにしたままの愛のヴァイオレンスを除いては。私たちの自己本位や、私たちの間に周知の残酷な不公正を圧倒するた めに 私たち一人びとりが自らに行使スべき愛のヴァイオレンス。私たちが勧める愛のヴァイオレンスは、剣や増悪のヴァイオレンスではありません。それは、 愛の、隣人愛のヴァイオレンスであり、武器を打ち直して鎌とするヴァイオレンスなのです。』」(松本敏之『マタイ福音書を読もう 3』より)
 ま た、日本で長らく働いて来られた、あるカトリックの神父さんは、長年の宣教の働きの中でこのように語っておられます。「第一なのは、ますます、よりよい、 より、人間にに、よりふさわしい、人間になる、ね。それは大事なんですよ。それは、結局、キリスト化する。―――それなんです。―――教皇も言っているん ですよ。人間は、教会の道なんだ。教会が至る道は人間なんだ。―――それはなぜかというと―――すべての人びと、一人一人の人びと、この具体的な人びとは 必ず、イエスの死と復活とつながっている。」(原敬子『キリスト者の証言』より)
 その「すべての人びと」に向けて、「神の家」として開き、建てる。私たちの教会をも、私たち一人一人をも、開き、建てる。そのために、イエス・キリストは、今も私たちの間を歩み、生き、働いておられるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスは、都エルサレムのあなたの神殿に来られ「宮清め」をなさり、そこを「すべての人の祈りの家」として開き、建てようとされました。イエスは復活の 主として今も、私たちの教会に歩み入り、私たちの人生に歩み入り、また私たちの社会・世界にも歩み入り、その働きと業をなし続けておられます。それは時に 問いかけであり、時に抗議であり、時に「愛のヴァイオレンス」というような業であるかもしれません。でも、それらすべては、開くためであり、建てるためで あり、生かし救うためです。この主の御手に私たちの道と業をも委ねつつ、このお方に向かって開くことができますよう助け、お導きください。私たちとその教 会がますます、御心にかなって、「すべての人の祈りの家」として開かれ、建て上げられていきますように。
まことの道、真理そして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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