栄光を見せてくださる神                マタイによる福音書第17章1〜13節

 
  今日の聖書の箇所では、とても不思議な、現実離れした、別世界の出来事のようなことが起こったと語られています。イエス様が三人の弟子たちを連れて高い山 に登られた。すると、イエス様のお姿がまばゆいばかりの白さに光り輝いたと記されています。イエス様が病人や困っている人を助けたというような話は、それ は確かに不思議ですが、私たちには入っていきやすい。けれども、今日のような話は何か唐突でついて行きにくい、そんな印象を持ちます。なぜ、このような出 来事が起こったのでしょうか。
 それを今日私は、弟子たちの状況に照らして考えてみたいと思います。彼らはとまどいを、さらにはつまずきや疑いを 覚えていたと思います。なぜなら、ここに「六日の後」という言葉があるからです。特定の日から、何かの出来事から「六日の後」です。いつから、何からで しょうか。それは、「前の章の出来事から」だと言えます。前の16章で、主イエスは弟子たちに尋ねられました。「あなたがたはわたしを誰と言うか。」それ に対してペテロが代表して「あなたこそ生ける神の子、キリスト・救い主です」と答えました。続いてイエス様は「わたしは苦しみの道を通り、人々から捨てら れ殺されて、そして復活に至るのだ」と告げられました。この言葉をペテロや他の弟子たちはわからず、受け入れられず、つまずいていたのです。なぜなら、イ エス様が言われたことは、弟子たちが持っていた「救い主」「キリスト」のイメージと全く違っていたからです。彼らは世の多くの人々と同じく「栄光のキリス ト」を思い浮かべていました。「力と輝きに満ちて、憎むべき敵を片っ端から倒して、ついに支配を確立し、権力を振るうキリスト」。「ところが、先生は自分 は苦しむとか、殺されるとか言う。おまけに、私たちに向かって『あなたがたも十字架を負って、わたしと同じような道を歩め』とまで言う。」一言で言うな ら、彼らは「十字架」につまずいていたのです。

 でも、どうでしょうか。そんなことを言うなら、イエス様の生涯は「つまずきの連続」では ないでしょうか。あのクリスマスの出来事において、主イエスは「飼い葉桶」にお生まれになりました。「飼い葉桶」とは、家畜にやるえさを入れる桶です。そ んなみすぼらしく汚い所で生まれたということ、それがもう「つまずき」ではないでしょうか。私たちはある意味で「イエス様がキリストだ、救い主だ」という ことを「常識」のように知っています。だから何とも思わないかもしれませんが、でもイエス様の時代に直に主に接して本当に信じることができるでしょうか。 その後のイエス様の生涯も「栄光に輝く」ようなものではなかったのです。多くの人々を助けて旅をするイエス様は、きっといつも薄汚れ、疲れておられたで しょう。しかも、その相手はこの世では顧みられないような罪人とか病人とか障害者とかだったのです。その上に、その最期はあの十字架でした。十字架とは、 当時のローマ帝国で最も残酷で呪わしい死刑の方法だったのです。最も惨めで不名誉な死に方をイエスはなさったのです。弟子たちがわからず、受け入れられな いのも無理はないと思います。
 そしてまた、この後主イエスに従う者たちの道はどうでしょうか。「わたしに従う者は、十字架を負え」と言われまし たが、まさにその通りだったのではないでしょうか。後に弟子たちが歩いた道は、イエス様と同じように誤解され、理不尽な目に遭わされ、苦しめられ、迫害さ れるというものでした。さらに、今遅ればせながらイエス様を信じようとする私たちの歩みはどうでしょうか。「いつもわかりやすく、受け入れやすい、何のつ まずきも感じない」、そんなものでしょうか。私は、北九州でホームレス支援に関わっておられる谷本牧師の言葉が忘れられないのです。先生は「主イエスに従 う」ということにおいてその支援活動をされていると思いますが、ある時たしかこんなことをおっしゃいました。「この働きをしていると、だんだん疲れてい く、いつも悲しんでいるような気がする。」
 朝鮮は、戦争が終わるまでずっと日本帝国の植民地支配下に置かれていました。その中で教会もまた国家 権力による圧迫を受け、ついに神社参拝を強要されるようになりました。趙寿玉という一人のキリスト信徒は、その迫害と苦しみへの恐れの中でつまずきを覚え ていたことを証ししておられます。「どんどん息苦しくなって行く情勢の中で、『お前はその反対を本当に貫くことができるのか』と自分に問いかけました。す ると、自信はないのですね。とても苦しいのです。これまで日本の権力に楯突くようなことは全部避けてきた私でしょう。恐ろしかったですよ。神が生きて働い ておられる、ということは頭では知っていても、本当は分かっていませんでした。―――祈っても祈っても、恐かったのですよ。」そこで彼女は、信仰の友と共 に近くの臥龍山という山に登り、そこで祈ろうとしたのでした。

 今日の箇所は、そのような者たちを神は顧みてくださったと告げていると思 うのです。どのように?神は、「見せて」くださったのです。「六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところ が、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その衣は真っ白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。」このまばゆいば かりの白さ・輝き、それは神の栄光です。イエスが神の栄光に包まれておられる。あの飼い葉桶で生まれ、埃まみれで疲れながら旅をして世の顧みない人々を助 けて悩み苦しみ、最後は十字架につけられて死ぬこのイエスこそが、神の栄光に包まれて輝いておられるまことの神の子であり、本当の救い主なのだと、神は今 見せてくださったのです。
 それだけではありません。「すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた」と記されています。 「エリヤ」と「モーセ」というのは、旧約聖書を代表する二人の人物です。神の御心はモーセを通して与えられた「律法」によって示され、エリヤに代表される 「預言者」によって現実の歴史に適用されました。この旧約を代表する二人がイエス様と語り合っているということは、旧約に表された何千年にもわたる神様の 御計画と御業の道は、この主イエス様を目指し、イエス様によって成し遂げられるということです。
 しかも、この三人の対話で話されていたことは、 イエス様の苦しみ・十字架を指し示していました。ルカの福音書にも同じ出来事が記されていますが、そこではこの時の話の内容は「イエスがエルサレムで遂げ ようとする最後のこと」であったと言われています。また、このマルコの福音書でも、イエス様の理解では、旧約聖書は「人の子(つまりイエス様)は多くの苦 しみを受け、かつ恥ずかしめられる」ということを告げているのです。そのようにして、イエス様が歩もうとする苦しみの道・十字架の道は、神の御心からはず れたことではなくて、むしろ確かにしっかりと神の御計画のうちに置かれてきたことだったということを示しているのです。
 そして、ついに神御自身 の声が響きます。「輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』。」「これが わたしの愛する子なのだ。彼が世の苦しむ人々をどこまでも愛すること、自分が苦しみを負ってまでかれらを助けること、そしてその果てに誤解され、拒絶さ れ、陥れられ、苦しめられ、捨てられて、世の罪を負って十字架に殺されること、それがわたしの心であり道なのだ。」このように神は、「見せて」くださった のです。

 きっと、神はそのように私たちにも「見せて」くださるのだと信じます。この時と同じようにほんの一瞬かもしれないでしょうが、しかし「見せて」くださるその時を備えてくださるのです。
  山に登って祈った趙寿玉さんは、このような体験をします。「私たち二人で山の上まで登りました。―――夜が更けて行きました。夜がまたこわいのです。風が 冷えて来るとゾクゾクします。―――向こうの峰の大きい岩が虎と熊のように私には見えました。それが今にも飛び掛かって来るように感じられたのです。恐怖 心の虜になっていますから、見るもの聞くものすべてが恐ろしくて、全身の震えが止まりません。『主よ、主よ』と呼んでも、主のお答えは聞こえて来ず、祈り は途切れてしまいます。すっかり心が乱れ、精神が衰えてしまいました。自分が惨めで、可哀想でならなかったですよ。―――こんな臆病で馬鹿な私が、十字架 を負って主に従うなどと大口を叩くとはなんという身の程知らずか―――と自分をあざけりたくなる気持ちが一瞬起こりますが、笑うだけのゆとりもなく、泣く ことも出来ず、体がガクガク震えます。―――一人で泣いておりますと、その時、聖書の御言葉が心に浮かんたのです。『わたしはあなたの名を呼んだ。あなた はわたしのものだ』。神の声が聞こえたというのではないのですよ。この御言葉は与えられていたのです。それを思い起こしたのです。すでに与えられていた御 言葉に寄りすがって祈りました。私の名を呼んで、ご自身のものとして下さった以上は、どうか私に力を与え、もろもろの恐れを私から取り去って下さい、と切 実に祈りましたよ。朝が来ました。私の心は平安と喜びで一杯でした。山の上の自然も輝きに満ちていました。神が生きておられる。―――この夜、絶望の中で 生きる望みを与えられ、私は新しく造り替えられました。次の夜が来ましたが、もう虎の岩、熊の岩も恐ろしくありません。見るものすべてが神を讃美している ように感じられました。真心をもって祈る者に神は新しい賜物をお与えになる、という確信に満たされて土曜日に山から帰りました。」(『神社参拝を拒否した キリスト者』より)この後、趙さんは神社参拝拒否の証しを立てて行かれることになるのです。
 皆さんの中にも、「神様は本当にいらっしゃる、私に はその恵みがわかる」と心から思える時や出来事があったのではないでしょうか。それは、神が備えてくださった「恵みの時」です。そして、今神はこの御言葉 によってもこのことを語ってくださっていると信じますし、これからも、今「闇」を感じている皆さんに「栄光」を見せてくださる時を来たらせてくださるよう 切にお祈りしています。

 それは、何のためでしょうか。神は言われました。「これはわたしの愛する子、これに聞け。」それは、このように 示してくださる神の御言葉に聞くためです。御言葉がこのように示してくださる主イエスに聞き、主に従って生きるためです。ペテロは、あの栄光を見たとき に、「ここに小屋を建てて、いつまでも留まりましょう」と言いました。「いつまでもこの栄光・喜びに浸っていたい」、無理もない人間的思いです。しかし、 神は別のことを命じられます。「これに聞け。」「見る」ことは一瞬です。「彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。」あの栄光は跡形 もなく消えて、そこにはまた元の通りの「旅に疲れ、薄汚れたままのイエス、十字架へと歩むイエス」がおられました。しかし、弟子たちの中には新しいことが 起こっていたのではないでしょうか。なぜなら、神が彼らにもこう語りかけてくださったからです。「あなたがたは、それでいいのだ。このイエスを信じる、そ れで間違いないのだ。それがどんな十字架の道、苦しい、理不尽な道であっても、それがどんなに今は理解できず、受け入れがたいような道であっても、でもこ れがわたしの正しい道なのだ。だから、この道を歩めばいいのだ。」このように「聞く」ことはできるのです。そして「聞き続ける」ことができるのです。そこ におられるのは、以前と全く変わらないイエス様であっても、彼らはまた私たちは既にこの言葉を聞かせられ、そしてこの言葉が私たちの心に響き続けているか らです。
 主イエスは、この山から下りるとき、弟子たちに命じられました。「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話し てはならない」。それは、彼らがしたように「この言葉を心に留める」ためであったと思います。「心に留める」、「しっかり捕らえて、握って、持って、保持 して、すがりついて、しっかり覚えて、放棄しないで固く持つ」。そのように歩む私たちに、神の真実な約束が語られています。「人の子が死人の中からよみが える」。主イエス・キリストは復活されました。このことが私たちの経験ともなるのです。その時私たちは「見たこと」をはっきりと言える、「神は私たちを、 私を助け、満たし、癒してくださいました。私たちの闇を照らし、罪を赦し、救ってくださいました」、そのように喜びをもって告白し賛美する時が私たちにも 神によって来るのです。
 「六日の後」、七日目ごとに、この主の日の巡り来るごとに、私たちはこの神の約束と希望を覚えています。今日も、この週も、この約束に押し出され、この希望を目指して共に歩んでまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスは飼い葉桶に生まれ、苦しめられて十字架に死なれました。しかし、このお方こそ栄光の主であり、あなたの御子であられます。この道こそ、あなたの 愛と救いと平和の道です。私たちにもこの栄光を、試練・困難・迫害の中でも、垣間見せてくださるあなたの恵みを心から感謝いたします。どうかこれに勇気と 希望をいただいて、私たち一人一人とその教会も、力と心と思いを尽くしてあなたの証人として歩み生きることができますよう助け、お導きください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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